第10章 対価(1)
二人はセレストルを離れ、ヴァルガンド方面へ続く森道を歩いていた。湿った土を踏む足音だけが細く続き、前を行くシンは一度も振り返らずに黙々と進んでいく。アオは少し遅れた位置を保ちながらその背を追い、何度か口を開きかけた末、遠慮がちに声を落とした。
「あの……どこに向かってるんですか? まさか直接ヴァルガンドに乗り込むとかじゃないですよね……?」
シンは揺れる木立の奥へ視線を向けたまま口を開く。
「ヴァルガンドの手前に、スクラージュという街がある。亡命者や流れ者の溜まり場だ。……まともな街じゃないが、今の俺達には都合がいい」
聞き慣れない地名に首を傾げながら、アオは隣を歩くシンの横顔を窺った。
「スクラージュ……シンさんも前はそこに居たんですか?」
「ああ。……前に世話になった職人がいる。俺の癖を知ってる爺さんだ。代わりの武器を頼むなら、あそこしかない」
言葉の終わりで、シンの口元がわずかに緩んだ。険しさの抜けた横顔を見上げ、アオも小さく頷き返す。
歩みを進めるにつれ、頭上を覆っていた枝葉が少しずつ疎らになっていく。木々の隙間へ夕陽の赤みが滲み始めた頃、シンが足を止めた。
「森を抜けるとしばらく荒野が続く。食料も手に入りにくくなるから、今日はここで野営にするぞ」
二人は開けた地面へ荷を下ろし、近くに落ちていた枯れ枝を集めて火を起こした。薄闇が森の奥から静かに広がる中、焚き火の橙色が木肌をぼんやりと照らし、鍋から立ち上る湯気が冷え始めた空気へ白く溶けていく。
尾長兎と森人参を煮込んだ鍋を挟み、二人は火の前へ腰を落ち着けていた。シンは肩越しに背中へ視線を向け、眉根を寄せる。そこにあるはずだった剣の重みは消え、外套の影だけが地面へ長く伸びていた。
シンは小さく息を吐くと、焚き火の明かりを受けた掌へと視線を落とし、ゆっくりと指を開く。
「ゾルトは、あの剣をレーヴァテインと呼んでいた。……一体どういうことだ……?」
火の揺らぎが開いた掌の輪郭を淡く照らし、シンはわずかに眉を寄せたままその手を見つめる。向かいに座るアオは匙を止め、膝の上へ置いた煮込みに視線を落とした。
「……何年も握ってきたのに、俺は、あの剣の事を何も知らない……」
険しさを深めたまま、シンは見つめていた手を静かに握り込む。
焚き火の向こうでアオが顔を上げ、首を傾げる。
「……そういえば、セレストルを襲撃してきたあの人、シンさんとどういう関係なんですか?」
「……軍にいた頃の同期だ」
シンは一度言葉を切り、握った手を膝へ戻した。
「あいつは魔物との戦いで片目を失い、それでも装甲搭機に乗ることを諦めなかった」
「あの人が乗っていた、大きな機械のことですか?」
「ああ。装甲搭機に乗れるのは、ほんのひと握りの兵士だけだ。……あいつ、本当にやり遂げたんだな」
シンはそれ以上続けることなく、煮込みを口へ運ぶ。夜気は森の奥からゆっくりと降り始め、二人の間へ沈黙が落ちる中、薪の爆ぜる音だけが小さく響いていた。
◇──◇──◇
翌日、森を抜けた先には灰色に乾いた荒野が広がっていた。風に削られた低木が点々と生え、砂混じりの風が地表を這うたび細かな土埃が舞い上がる。森の中よりもさらに冷えた空気が頬を撫で、アオは思わず肩を竦めた。
「……空気、変わってきましたね」
吐いた息は白く染まり、風へ流されながらすぐに輪郭を崩していく。シンは前方へ目を向けたまま短く頷き、乾いた地面を踏み締めながら歩を進める。
「ヴァルガンドに近づいてる。ここから先はもっと冷えるぞ」
その言葉が落ちた直後、前方の低木が揺れ、灰色の獣が砂を蹴りながら姿を現した。痩せ細った胴には肋骨が浮き、半開きの口元では唾液に濡れた牙が鈍く光っている。
「灰砂狐か……!」
シンは腰の小刀を抜き放って地を蹴る。しかし灰砂狐は砂煙を巻き上げながら横へ跳び、鋭い爪を振り抜いた。シンは身を捻ってその一撃を躱したものの、振り抜いた刃は空を切った。
「くそっ……間合いが足りない……!」
灰砂狐は低く身構えたまま周囲を回り込む。アオは後退しながら弓を構え、その表面へ刻まれた術環を指先でなぞった。
「炎の術環……展開……!」
淡い光が術環の線を走り、引き絞った弦の内側に炎を纏った矢が形を結ぶ。しかし灯った炎は弱々しく揺らぎ、吹き抜けた風に煽られるたび輪郭が崩れかける。
「くっ……マナが薄い……!」
額に汗が浮かぶ中、胸元のペンダントが赤く輝く。揺らいでいた炎は徐々に色を取り戻し、その熱が矢を包むように細く渦を巻く。アオは息を止めるように弦を引き絞り、放った矢が灰色の空気を裂いて走った。
赤く燃える矢が灰砂狐の喉元を掠め、獣が体勢を崩した隙へ、シンが低く踏み込んだ。砂を蹴り上げながら灰砂狐の懐へ潜り込み、小刀を脇腹深く突き立てる。
獣は喉の奥で掠れた唸り声を漏らし、そのまま灰色の地面へ崩れ落ちた。
「……やりましたね、シンさん!」
胸元で拳を握りながら声を上げるアオの横で、シンは倒れた灰砂狐を見下ろしたまま、小刀へ付着した血を無言で拭い取る。短い刃を鞘へ戻す手つきだけがわずかに重く、その視線は倒れた灰砂狐からしばらく離れなかった。
◇──◇──◇
数日に渡って荒野を歩き続けた末、遠くの地平線へ黒煙が立ち上るのが見え始めた。
「あれがスクラージュですか?」
アオは額へ手をかざしながら背伸びをし、目を細めて黒煙の下に浮かぶ街の輪郭を確かめようとする。
「ああ」
シンは短く頷いた。
「あそこなら世話になった職人がいる。ヴァルガンド絡みの話も多少は拾えるだろう」
「それじゃあ、フィリアの事も……!」
声を弾ませたアオは思わず身を乗り出し、その足取りもわずかに軽くなる。シンは荒野の先へ目を向けたまま、小さく息を吐いた。
「……どうだろうな」
風に煽られた前髪が額へ張り付く。シンはわずかに眉を寄せた。
「ヴァルガンドは人間だろうが精霊だろうが、使える物は使い潰す」
乾いた風が二人の間を吹き抜け、足元で巻き上がった灰混じりの砂が荒野の向こうへ流されていく。
「連れ去られた奴が、無事で帰ってくる保証はない」
アオの足がぴたりと止まり、見開いた瞳が揺れる。開きかけた唇はゆっくりと閉じられ、奥歯を強く噛み締めた。
数歩先を歩くシンの背を追い、アオも再び足を動かす。シンは振り返らず、荒野の先へ視線を向けたまま低く言葉を落とした。
「急ぐに越したことはない」




