第8章 覚醒(2)
「ごめんね……フィリア……」
言葉にした途端、堪えていた呼吸が崩れた。押し殺していた嗚咽が喉の奥から零れ、次々と溢れた涙が頬を濡らしながら指先へ落ちてゆく。
一粒の雫を受け止めたフィリアは、小さな羽を羽ばたかせながら舞い上がり、アオの頬へ身体を寄せる。その瞬間、温かな波動が触れた場所から広がり、頭の中へ雪崩れ込んだ。
暗く冷え切った遺跡の底。封印槽の中で膝を抱え、ただ力が尽きるのを待つだけの日々。長い年月の中で積み重なった孤独と静寂。初めてアオの手が触れた時に差し込んだ光。布越しに伝わる掌の温もり。呼ばれた名前。自由に羽ばたき、アオの周りを飛び回った時間。
もっと一緒に世界を見たい。
──もっと生きたい。
純粋な願いが胸へ流れ込み、アオは大きく目を見開いた。乱暴に手の甲で涙を拭い、胸の奥に滞っていたものを押し出すように震える息を吐き出すと、表情を引き締めた。
視線を向けた先には、先ほど高官が去っていった重厚な扉が静かに佇んでいる。その扉を見つめるうちに、冷え切った声が耳の奥に蘇った。
『精霊達は枯れた大地を憂い、我々の祖先は精霊を大地へ還したのだ』
俯いたアオは身体の横で拳を握り込み、唇を震わせながら首を横に振る。
「……違う。フィリアは生きたがってる……!」
喉の奥から絞り出した声は掠れていたが、言葉にするたびに胸の奥に熱が灯り、その火は消えることなく少しずつ広がっていった。
『同じ歴史を繰り返さぬよう、大罪人の遺物は破壊して葬る』
重ねて蘇った言葉に瞳が揺れる。古代遺跡の奥で見た、ギアブレードに似た武装設計図が脳裏に浮かぶ。しかしその記憶と重なるのは、幾度となくアオの前に立ち、危険を前にしても退かなかったシンの背中だった。──シンはいつだって、誰かを守るために剣を振るっていた。
「シンさんのギアブレードは、精霊を傷つける道具なんかじゃない……!」
握り込んだ拳へ爪が浅く食い込む。その時、ふと昨夜のモモの言葉が頭をよぎった。
『歯車機構の奥に、“マナを流すための空洞回路”があったんです〜!』
アオは勢いよく顔を上げた。揺らいでいた蒼色の瞳に強い光が戻り、散らばっていた思考がひとつの形を結び始める。
「ギアブレードは精霊から搾取したマナを動力になんかしない……! マナを流す空洞があるなら……そこに、フィリアの想いをそのまま流せばいいんだ……!」
床へ膝をついたアオは指先にマナを集中させる。しかし淡い光が術環を描けるほどの強さへ達した途端、青白い結界光が脈打ち、指先の光は細かな粒となって空気中へ散っていった。
「駄目だ……やっぱり結界に弾かれる……!」
アオは指先を見つめたまま、もう一度マナを集める。細く灯した光を少しずつ強めていくと、途中で結界光が揺らぎ、灯した光が霧散した。
「……反応するのは、ある程度以上のマナだけ……? それなら、もっと抑えれば……!」
アオは指先に集めるマナの量を慎重に調整し、かろうじて線を描ける程度の微弱な光で石床へ術環を描き始めた。しかし、わずかに力を込めれば結界に阻まれ、術式の構築に集中すれば光が維持できず消えてしまう。浅く息を整えたアオは、神経を研ぎ澄ませ、結界が反応しない境界の出力を保ちながら、何度も術式を書き直していく。
アオが描くのは、精霊のマナを搾取するのではなく、精霊の想いを受け取る器──共鳴の術環。
限られた時間の中で、孤独な試行錯誤が始まる。
◇──◇──◇
気づけば格子窓の外は赤紫色の夕空に染まり、雨粒が窓硝子をまばらに叩いていた。床一面に術環が広がり、描き直された線と古代文字が石床を埋め尽くしていた。最後の術環を描き終えたアオはその場にへたり込み、肩を上下させながら床を見下ろした。
「できた……! はやくシンさんを探さないと!」
アオは掠れた声を絞り出しながら立ち上がると、拘束結界が張り巡らされた重厚な扉を見据え、ふらつく身体を支えながらその前まで進んだ。
「弓が無ければ……直接書けばいい……!」
扉に触れた指先は、幾度となくなぞり続けてきた術環の記憶を辿り、複雑な紋様を正確に刻んでゆく。線が途切れなく繋がり、環を描くと、アオは真っ直ぐに両手をかざした。
「炎の術環……展開……!」
術環が淡い光を帯びた途端、壁面と床を走る結界術紋が一斉に光を増し、展開しかけた術環は広がる間もなく掻き消された。
「っ……!」
アオは歯を食いしばりながらさらにマナを流し込む。しかしどれだけ力を注いでも、何重にも張り巡らされた拘束結界を揺るがすことすらできない。焦りに震える手へ、傍らを舞っていたフィリアがそっと身体を寄せ、小さな両手を重ねた。
「フィリア……! 力を貸してくれるの?」
アオは目を見開く。フィリアはその視線を受け止めるように頷き、羽を震わせながら蒼白の光を流し込んだ。消えかけていた術環が再び灯り、赤光が扉の表面を巡りながら始点と終点を繋ぐと、閉じた環の内側から炎が滲み始めた。しかし結界光はマナを押し返すように輝きを増し、炎は細く揺らぎながら何度も掻き消されそうになる。それでもアオは両手を伸ばし続け、フィリアも重ねた手を離さずに光を流し続けた。
「こんなところで終わるもんか……! 一緒にこの部屋を出るんだ……!」
張り上げた声と共にさらに力を込めると、押し返されていた炎に金色の光が混ざり、堰を切ったように勢いを増した。奔流となったマナが術環を描く赤光を追うように流れ込み、次々と炎を吹き上げる。
扉を覆い尽くした炎は熱風を巻き上げながら拘束結界の紋様を侵食し始める。青白い紋様は炎を押し返すように激しく明滅を繰り返すが、限界まで膨れ上がったマナはついに拘束結界を押し切った。爆発的な轟音が審問室全体を揺るがし、爆ぜた炎が重厚な扉を内側から吹き飛ばす。噴き上がった炎流が通路の奥まで駆け抜け、砕け散った金属片と石壁が火の粉を伴って飛散する中、警報用の鐘が大魔導院全域へけたたましく鳴り響いた。
吹き荒れる粉塵の中、アオは壁際の保管棚へ駆け寄り、荷物と弓を掴み取る。胸元へ戻ってきたフィリアを抱えるように掌で包み込むと、そのまま崩れた壁を飛び越え、雨に濡れ始めた夕闇のセレストルへ向かって全力で駆け出していった。




