第8章 覚醒(1)
翌朝、窓から差し込む淡い朝光が寝台の端を照らし始めた頃、アオは浅い眠りの中でゆっくりと目を開けた。
妙に静まり返った部屋に、胸の奥が小さくざわつく。身を起こしながら視線を巡らせたが、シンの姿はどこにもなかった。向かいの寝台にも人の気配はなく、乱れのない寝具だけが冷えたまま残されていた。
「……シンさん?」
掠れた声を漏らしながら、アオは寝台の脇へ目を向ける。壁際へ立て掛けられていたはずのギアブレードは見当たらず、床へ置かれていた荷袋もなくなっている。昨夜、椅子に座って俯いていたシンの横顔が脳裏へ蘇り、アオは目を見開いたまま息を止めた。首筋に冷たい汗が滲み、握り込んだ薄い毛布が指の中で強く皺を寄せた。
「そんな……シンさん……嘘ですよね……!」
胸の奥を掴まれたように息が浅くなる。アオは半ば転がり落ちるように寝台から飛び降り、上着を羽織りながら部屋を駆け出した。
慌てて後を追ってきたフィリアに気づくと、アオは歩幅を緩めて胸ポケットを開いた。フィリアが滑り込むのを確かめると、手すりを掴んで一気に階段を駆け下りた。
宿の扉を押し開け往来に踏み出したところで、アオは足を止めて目を見開いた。扉の前には青い戦闘用ローブをまとった武官達が半円を描くように立ち塞がり、掲げた魔導杖を一斉にアオへと向けている。その先端には術式紋様が静かに明滅し、辺りには張り詰めた空気が漂う。包囲の外側では、遠巻きに様子を窺う市民たちのざわめきが広がっていた。
「えっ!? な、何……?」
胸ポケットの内側ではフィリアが小さく身を縮め、布越しにも伝わるほど細かな震えを繰り返している。異様な緊張だけが朝の空気を冷たく塗り替えていた。
包囲網が左右へ分かれて道を開くと、その奥から、白を基調とした豪奢な長衣を纏う男が姿を現した。裾へ施された銀糸の刺繍を揺らしながら進み出たその男は、年齢を感じさせない端正な顔立ちをしていたが、向けられる眼差しには氷のような冷たさだけが宿っている。
男はアオの目前で足を止めると、冷ややかな眼差しを落とした。
「強力な魔力波長、封印指定資料室の閲覧履歴……。隠し通せるとでも思ったのかね。君が蘇らせたのは古の精霊──そうだね?」
封印指定資料室の閲覧履歴──完全に見落としていたその存在に、冷たい汗が頬を伝う。アオは唾を呑み込むと、胸ポケットを庇うように肩を引いた。
しかし男は視線一つ動かさず言葉を続ける。
「古の時代、精霊を幽閉しマナを搾取した大罪人達により、この地は衰亡の危機に瀕した。精霊達は枯れた大地を憂い、我々の祖先は傷ついた大地を癒すために精霊を大地へ還したのだ。……君の目覚めさせた精霊もまた、大地へ還すべきものだ」
アオは弾かれたように胸元のポケットへ手を添え、一歩踏み出した。
「大地へ還す……!? それって──」
言い終える前に、高官の声が重なる。
「そして同じ歴史を繰り返さぬよう、大罪人の遺物は破壊して葬る。君と行動を共にしていた冒険者はどこだね。遺物は彼が持っているはずだ」
シンの事だと気づいた途端、アオの喉が小さく震えた。視線が揺れ、浅くなった呼吸を押し殺す。
「シンさんは……ここには、もういません」
言葉を絞り出したアオは、そのまま視線を伏せた。男はわずかに眉を寄せ、深く息を吐いた。
「……まあいい。連れて行け」
冷え切った命令と同時に武官達が踏み込み、アオの細い腕を左右から強く掴み上げる。肩へ鋭い痛みが走り、アオは苦しげに息を呑んだ。
「ま、待ってください……! フィリアは──」
言葉は最後まで続かなかった。アオはそのまま腕を引かれ、石畳へ慌ただしい足音が重なる。遠ざかる背後では、高官の低い声が通りへ鋭く響いていた。
「悪しき遺物を持つ冒険者を総力を挙げて探し出せっ!」
◇──◇──◇
アオが通されたのは、大魔導院の奥深くに位置する審問室だった。石造りの狭い部屋の壁や床一面には青白い術式紋様が張り巡らされ、淡い光を放っている。
弓と荷物を取り上げられ、中央の椅子に座らされたアオは、落ち着かない様子で扉や壁面の術式紋様へ視線を巡らせる。
小さく息を吐き、胸ポケットへ手を添えると、その下ではフィリアが微かに身を震わせていた。アオは指先を揃え、布越しに軽く二度触れると、そのまま指先を留めた。
ほどなくして重厚な扉が開き、先ほどの高官が部屋へ姿を現す。
「この部屋は、罪人のマナを強制的に霧散させる結界が張られている。しばらくここで頭を冷やすといい」
告げられた言葉を遮るように、アオは勢いよく立ち上がった。
「あの、フィリア……精霊はどうなるんですか!?」
切迫した声が響く中、男の表情は微動だにしない。
「明日の朝、大魔導院の最上層にて『還霊の儀式』を執り行う。精霊を本来の姿である純粋なマナへと分解し、大地へ還すのだ。世界を滅ぼしかけた古代文明の過ちを、我々が正してやるのだよ」
「そんなっ……分解……!?」
アオの顔から血の気が引く。よろめいた足が椅子の脚に触れ、石床を擦る音が短く響いた。
高官はアオの胸元に視線を落とし、冷めた眼差しのまま小さく息を吐く。
「別れを惜しむ時間くらいは与えよう。最後の一日くらいは共に過ごすといい」
そう言い残すと、扉を閉ざして部屋を後にした。重い閉鎖音が室内へ響き渡り、静寂が戻った後もアオの視線は閉ざされた扉から離れなかった。
「このままじゃ、フィリアが……っ!」
アオは胸ポケットに手を添え、慌てて室内を見回す。しかし術式紋様の刻まれた壁面に重厚な扉、部屋の高い位置に小さな格子窓があるだけで、脱出の手掛かりも反撃の術も見当たらない。
「どうしよう……」
小さな呟きが唇から零れ、ふとシンの姿が思い浮かぶが、唇を噛み締めて首を横に振る。強張った頬がわずかに震え、視界が滲みそうになるのを必死に堪えた。
ふと、胸ポケットの布が控えめに揺れ、フィリアが恐る恐る顔を覗かせる。アオの表情を確かめるように見上げると、ポケットを離れて宙へ浮かび上がった。
アオは震える指先を伸ばしてそっとフィリアを両手に乗せると、そのまま胸の前へ引き寄せた。掌に包まれた小さな光は静かに揺れ、アオへ顔を向けたまま淡く瞬く。
温かな光は確かにそこに在り、指先へ伝わる気配も変わらない。それなのに、その小さな命を守る術は見つからない。どうにもできない無力さが胸の奥へ重く沈み、張り詰めていたものが音もなく軋んだ。
喉の奥が震え、唇を強く引き結ぶ。しかし込み上げるものを押し留めようとする程に呼吸は乱れ、胸の奥が何度も引き攣る。鼻を啜りながら歯を食いしばり、漏れそうになる息を押し留めても、震える唇は意思に反してその端が開いてゆく。伏せられた睫毛の奥で蒼色の瞳が徐々に滲み、その縁に浮かんだ雫が微かな光を返した。
「ごめんね……フィリア……」




