第7章 禁書(2)
真夜中の大魔導院は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。白い石壁へ等間隔に埋め込まれた魔導灯だけが青白い光を廊下へ落とし、磨き上げられた床へ長い影を伸ばしている。
「確か、資料室は地下区画の奥だったはずです……。モモさんから預かった鍵、ちゃんと反応してくれるといいんですけど……」
アオは胸元へそっと手を添えた。服越しに伝わる微かな温もりと共に、胸ポケットの奥で淡い光が一度だけ瞬く。
足音を抑えながら先導するアオの後ろを、シンは周囲の気配を探るように進んでいく。背中からギアブレードの重みが消えたことに慣れないのか、階段を降りる途中で一度だけ肩越しに視線を流し、低く息を吐いた。
地下区画へ続く螺旋階段を降り切ると、回廊の最奥に巨大な白い扉が静かに佇んでいた。磨き上げられた白磁のような表面には複雑な術式紋様が刻まれ、その青白い光が床や壁へ冷たく反射している。近づくにつれ空気は張り詰め、厳重な管理区画特有の静けさが辺りを包んでいた。
アオは周りに人の気配がないことを確かめると、緊張した面持ちで懐から仮製鍵を取り出し、刻印へそっとかざした。鍵内部の術式光が静かに波打ち、扉全体へ走っていた光の筋が連鎖的に消えていく。
金属の擦れる低い音が地下通路へ響き、魔導錠が解錠された。
扉の向こうには、巨大な地下書庫が広がっていた。吹き抜け状の空洞を囲むように幾層もの書架が積み上がり、天井近くまで届く本棚の隙間を魔導灯の薄明かりが照らしている。鎖で封じられた書物や黒布で覆われた保管箱が並ぶ室内は、息を潜めたような静寂に包まれていた。
アオは書架の間を歩き回り、並んだ書物の背表紙を次々と目で追っていく。棚へ並ぶ本へ指先を走らせ、ときおり一冊を引き抜いては頁をめくり、静かに閉じて元の場所へ戻す。数冊目の古書を開いたところで不意にその手が止まった。
「えっと……この本かな」
小さく抑えた声と共に、アオの視線が頁へ吸い寄せられる。指先で紙の端を押さえたまま記された一文一文を追ううちに、本を支える手がわずかに震え、灯りを受けた瞳が大きく見開かれていった。
周囲の棚へ目を走らせていたシンが顔を上げる。
「……何が書いてある」
低い声に促され、アオは頁の文字を追いながら、ぽつりぽつりと言葉を落とし始めた。
「古代魔法は……自然エネルギーの化身である精霊の発するマナと、機械技術を融合させて成立していたみたいです。最初は共存関係だったらしいんですけど……機械技術の発展を優先する派閥が、精霊を独占し始めたって……」
次の頁を開いたところでアオの指先が止まり、喉がわずかに上下する。
「精霊を閉じ込めて、マナだけじゃなく生命エネルギーまで抽出していた記録があります。過剰な搾取で土地のマナ循環が崩壊して、大地が枯れ始めたって……。その後、精霊を守ろうとした魔導派が機鋼派を北方へ追放して、荒廃した大地を甦らせるために精霊を大地へ還した、と……」
地下書庫の薄暗い灯りの下で、シンの表情が徐々に硬さを増していく。握り締められた拳の関節が白く浮かび、奥歯を噛み締める音がわずかに漏れた。
「機鋼派……それが今のヴァルガンドってことか……」
低く押し出された声は重く沈み、そのまま床へ落ちた。シンは視線を伏せたまま動かない。北方の機鋼国ヴァルガンド──その名を口にした瞬間から、書庫の冷えた空気がさらに重く沈み込んでいく。
アオは本から顔を上げ、恐る恐るシンへ目を向けた。
「ヴァルガンド……北にある、魔法のない国のことですよね。やっぱりシンさんって……」
問いかけの途中で言葉が止まる。
シンは答えなかった。ただ険しい顔のまま視線を伏せ、握り締めた拳だけが微かに震えていた。肩口へ落ちた影が濃く沈み込み、その表情の奥にあるものまでは窺えない。
アオも口を閉ざし、開いた本へ視線を落とした。何度も同じ一節を読み返すたび、その度に唇が固く結ばれていく。
長い沈黙の後、シンが重く口を開いた。
「……戻るぞ」
短く告げると踵を返し、そのまま出口へ向かって歩き始める。アオは慌てて古書を閉じ、元の棚へ戻すと、その背中を追って資料室を後にした。
◇──◇──◇
地下区画から地上へ戻った二人は、深夜の研究棟を進んでいた。人気のない回廊には魔導灯の青白い光だけが落ちている。
ふとアオの胸ポケットからフィリアが顔を出し、辺りを見回すと、ふわりと舞い上がってアオの肩に座った。肩の上で伸びをするように羽を広げるフィリアに、アオは口元を和らげた。
研究所の奥へ近づくにつれて、一室から漏れる灯りが暗がりへ浮かび上がる。半開きの扉の向こうでは、モモが資料棚と机の間を忙しなく行き来していた。
モモは二人の姿に気づいて顔を上げると、ぱっと表情を明るくした。室内の机には解析用の器具や記録用の書類が散乱し、その中央にはギアブレードが横たえられている。
「あっ、シンさん〜! 聞いてください〜! この剣すごいですよ〜!」
二人が机の傍へ立つと、モモは机一面に広がった構造図へ身を乗り出し、勢いよく説明をはじめた。
「元々備わっていた重心の制御機構を歯車とバネで繋いで、手動で切り替えてるんですね〜!? でもこれ、戦闘中に制御するなんて相当な技量がないと成立しませんよ〜!」
モモは興奮を抑えきれない様子で、緻密に描き込まれた内部構造図の一角を指差した。図面を追うシンの瞳は深く沈み、視線だけが複雑に入り組んだ線の上を辿っていく。
「それから、魔力透査で内部構造を解析してみたんですが、歯車機構の奥に、『マナを流すための空洞回路』があったんです〜! 今は無理やり機械式で動かしてますけど、本来は古代魔法で起動する設計なんですよ〜!」
モモが指し示した図面には、歯車機構とは別に赤い導路が描き加えられていた。その言葉が耳へ届いた瞬間、シンの肩がわずかに揺れた。
古代魔法を行使するための空洞回路。遺跡最深部で見た設計図。精霊を閉じ込め、生命力ごと搾取していた機鋼派。そして、その血を受け継ぐ北方の機鋼国ヴァルガンド。
断片的だった情報が一つの形へ繋がり、シンの視線が机上の剣に落ちる。長年背負い続けてきた大剣は、戦場で幾度も命を預け、無数の魔物を斬り伏せてきた相棒だった。しかしその正体は古代文明の遺物にほかならず、内部には精霊から奪ったマナを循環させるための経路が組み込まれている──。
机上へ置かれていたギアブレードへ手を伸ばしたシンは、柄へ指を掛けたまま動きを止める。卓上灯の光を受けた黒鉄の表面には幾筋もの細かい傷が刻まれ、その奥で歯車群が鈍く沈黙していた。
「シンさん……」
隣から掛けられたアオの声に、シンは答えなかった。視線だけが刃の蒼い金属帯をなぞり、布を引き寄せて無言のまま剣身を覆い隠した。
◇──◇──◇
夜も更け、窓の外を吹き抜ける風の音だけが静かに響いていた。二人が身を寄せる宿屋の一室では、卓上灯の小さな灯りだけが机や椅子の輪郭をぼんやりと照らしている。寝台ではアオが肩まで毛布に包まり、胸元にフィリアを抱えながら穏やかな寝息を立てている。重ねられた指の隙間からは柔らかな光が漏れ、毛布の表面をほのかに照らしていた。
椅子へ腰掛けたシンは、壁際へ立て掛けたギアブレードを見つめたまま長く沈黙していた。膝の上で組まれた指先へ徐々に力が籠もり、唇が固く結ばれていく。
「……俺は、ここにいるべきじゃない」
掠れた声が落ちると、シンはゆっくりと立ち上がった。静かに椅子を戻してからギアブレードを背負い直し、寝台で眠るアオへ視線を向ける。規則正しく上下する毛布の膨らみを見つめた後、シンはゆっくりと目を伏せ、音を立てないよう扉を開けて部屋を後にした。




