第6章 復活(5)
「こ、これは……! 白霧鹿の角か!? なんと見事な陽紋の入り方……!」
白眉の老人は身を乗り出し、震える指先で角の表面をなぞった。不意に名前を出されたアオは弾かれたようにシンに顔を向け、口を半分開いたまま何度か目を瞬かせる。隣ではモモがぱっと顔を上げ、援護する機会を逃すまいと勢いよく口を開く。
「すごいです〜! 白霧鹿の角は、セレストルの上級討伐武官でも持ち帰るのが困難な高級素材ですよ〜! こんなに貴重な素材が研究所へ持ち込まれることなんて滅多にありません〜!」
わざとらしいほど力の入った口調だったが、所長の目は既に角へ釘付けになっていた。慎重に角を持ち上げ、光の加減を確かめるように角度を変えながら唸っている。
「……ふむ」
所長はようやく角を机に置くと、アオへ向き直って大きく息を吐いた。
「……お前が勝手に飛び出したことは許されん。……じゃが、これを持ち帰るほどの働きをしてきたのなら、わしの見立ても少し改めねばならんようじゃ」
杖を握り直し、一度だけゆっくりと頷く。
「今回は不問とする。……ただし次からは、必ず正式な手続きを踏みなさい。よいな」
アオは姿勢を正すと、所長を真っ直ぐ見つめて一度だけ深く頷く。
「……はい! わかりました」
その返事を聞くと、小さく頷いて「さて」と呟き、再び角へ視線を戻した。引き出しを開け、中から虫眼鏡や測定具を次々と取り出して机へ並べ始める。
アオは張り詰めていた息をようやく吐き出し、胸元に手を当てた。シンとモモも小さく頷きを返す。
所長の意識が完全に角へ向いていることを確かめると、三人は顔を見合わせ、そのまま執務室を後にした。
研究棟の廊下へ出たところで、アオは足を止めて勢いよく振り返った。胸の前で片手を握り込み、そのままシンの方へ一歩踏み出す。
「シンさん、ありがとうございました!」
白い石壁へ声が反響する中、シンは片手を腰へ当てて短く息を吐いた。険しさの抜けた視線がアオへ向けられ、目元がわずかに和らぐ。
「アオが居ないと俺も困るからな」
その言葉に、アオはようやく肩の力を抜いた。
シンはモモに向き直ると、アオが背負っている採取袋を顎で示した。
「それよりモモ、言われた素材をすべて集めてきたぞ。これで足りるか?」
問いかけを受けたモモは、抱えていた書類を胸元へ引き寄せ、大きく頷いた。
「では、私の研究室へ行きましょう!」
モモは研究室のある奥の区画へ向かって歩き出し、二人もその後へ続く。
◇──◇──◇
研究室へ入ると、モモは中央の実験台に積まれていた書類や器具を手早く端へ寄せ、空いた場所へ小さな硝子瓶を置いた。アオはその横へ採取してきた月露林檎、陽紋晶、まどろみ草を一つずつ丁寧に並べていく。
「バッチリです! それじゃあ、お薬を作りますね〜!」
モモは背負っていた大きな杖を両手で握り直し、床へ石突きを打ち込む。術式紋様が足元から浮かび上がり、室内の空気が渦を巻きながら杖先へ収束していった。床を走る光がモモの輪郭を淡く縁取り、揺れるおさげ髪と白衣の裾が光の中へ浮かび上がる。散らばっていた紙片がふわりと宙に舞い、積み重なった文献の頁が風圧でめくれ上がった。
「調合魔法──エルクサー・フルーエンシー!」
詠唱と同時に素材が光の粒子へ分解され、実験台の上へ舞い上がる。蜜色の粒子の中へ陽紋晶の金光が溶け込み、まどろみ草の深緑色が尾を引きながら絡み合うように渦を描いた。収束した光が細い糸となって薬瓶へ注ぎ込まれると、透明だった硝子瓶の内側に澄んだ青色の液体が満ちていく。
その光景を間近で見つめていたアオは、身を乗り出すようにして声を上げた。
「モモさんの魔法、いつ見ても綺麗です……!」
隣ではシンも視線を薬瓶へ向けたまま、わずかに目を見開いている。
「……魔法ってのは、こんな事もできるんだな」
薬瓶の中で最後の光が静かに消えると、モモは杖を胸元へ抱え込むように持ち直した。頬を染めながら肩をすくめ、その視線が落ち着きなく彷徨う。
「えへへ、照れます〜」
アオは胸元のポーチへ手を差し入れ、布に包んでいた精霊の石を取り出した。掌へ収まる結晶の内部では変わらず規則的な光が揺れているものの、透き通っていた表面には薄い曇りが広がり始めていた。
アオは結晶を見つめ、一度だけ深く息を吸うと、実験台の中央へそっと結晶を置いた。
「……使ってみます」
アオは薬瓶を手に取ると、結晶の上でゆっくりと傾けていく。澄んだ青色の雫が結晶へ落ちると、薬液は静かな燐光を放ちながら内部へ染み込んでいった。
三人の視線が集まる中、結晶の表面へ細かな亀裂が走り始めた。ひび割れた線は中心から放射状に広がり、閉じていた花が開くように光の粒となって剥がれ落ちてゆく。溢れ出した白い光は空中で渦を巻きながら集まり、小さな人影の輪郭を形作った。
研究室の空気が張り詰める中、浮かび上がった精霊は辺りを見回し、小さな羽を揺らしながらアオのもとへ舞った。くるりと一周描いた軌跡に蒼白色の光粒が散り、アオは目を見開いたままその姿を追う。震える息が喉の奥で詰まり、蒼い瞳へ光が滲んだ。
「精霊が……!」
隣で見守っていたモモも胸の前で手を合わせ、丸眼鏡の奥の瞳を細める。
「上手く行ったみたいです〜!」
シンは腕を組んだまま壁へ寄りかかり、小さな光の動きを目で追っていた。口元に浮かんだ緩やかな笑みが、羽ばたく精霊の軌道に合わせてわずかに深くなる。
「……呼ぶ時に困るだろう。名前でも付けたらどうだ」
不意に向けられた言葉へ、アオは目を見開いてシンを振り返った。精霊は空中で動きを止め、小さな身体をアオへ向けている。細く澄んだ光を纏ったその姿を見つめながら、アオは指先で顎に触れ、短く考え込む。
「そう、ですね……。古代語で『清らかなマナの雫』を意味する『フィリアーデ』にちなんで、フィリア、というのはどうでしょうか」
名前を呼ばれた精霊は、光の羽を広げて研究室の中を飛び回った。尾を引く粒子が円を描き、文献の山や魔導具の隙間へほのかな光を落としていく。
「……気に入ったみたいだぞ」
シンは穏やかに頷くと、アオの隣へ歩み寄り、頭上を舞うフィリアを見上げた。
モモは何度も首を縦に振りながら笑みを浮かべる。
「素敵な名前です〜!」
フィリアはアオとシンの周囲を巡るように飛び続け、その軌跡から零れ落ちる光の粉が、薄暗い研究室へ柔らかな輝きを広げていた。




