第6章 復活(4)
「ダメです、当たりません……っ! 感覚を狂わせるので見えている位置も僕とシンさんで違うのかも……っ」
アオは弓を握る指へ力を込めたまま荒い呼吸を繰り返し、巨獣の位置と矢の軌道を必死に見比べる。対するシンは大角を押さえ込みながら、薄く開けた霧の筋へ視線を走らせた。
「アオ! 矢の通った瞬間だけは見えていた! どうにか維持できないか!?」
アオの瞳が揺れ、弓に刻まれた術環へ視線が落ちる。指先が弓身の線を滑り、開きかけた口が言葉を探すように止まった。
「……っ! そうか、術環を広げて空間に固定できれば……! でもどうやって……?」
濃霧の向こうで鹿の蹄が泥を抉る音が響く。鈍い衝突音を追いながら、アオは浅い呼吸のまま考えを巡らせた。相殺そのものは成功している。足りないのは、効果の届く範囲だけだ。その事実がひとつの形を結び、アオの瞳が見開かれた。
「術環そのものを飛ばせば……!」
アオは霧の流れとマナの濃度を確かめながら、展開範囲と術環の構造を頭の中で組み替えていく。複数の術式が一本の線で繋がると、深く息を吐いた。
「これなら届く……!」
アオの指先が術環をなぞり、光輪が浮かび上がった。弦に指を掛ける動作に合わせ、白い光が凝縮しながら一本の矢を形成していく。
「相殺の術環……」
アオは巨獣ではなく、シンの足元の後方へ狙いを定める。頬を伝う汗が顎先から落ち、張り詰めた呼吸の中で指先だけがわずかに動いた。
「転写……!」
さらに弦を引き絞ると、浮かんでいた光輪が収縮しながら矢の先端へ重なり、白く形作られた矢へ術環の紋様が刻み込まれていく。
「投射展開……! いけっ!!」
鋭く放たれた矢はシンの数歩後ろへ深く突き刺さり、先端から広がった白い術環が半球状の光膜を形作った。シンを囲むように広がった膜の内側では霧が押し退けられるように薄れ、歪んでいた景色が急速に輪郭を取り戻していく。
シンは肩越しに矢を一瞥すると、すぐに鋭い眼差しでギアブレードを握り直した。晴れた視界の向こうでは、未だ濃霧の中に白霧鹿の巨体が揺らめいている。目を細めて霧の切れ目へ視線を滑らせたその時、不意に大角の片側が光膜の内側に入り込み、鮮明な輪郭を浮かび上がらせた。
「そこかっ……!」
シンは泥を蹴って大きく身を翻し、迫る突進を紙一重でかわした。巨獣が術環の内側へ大きく踏み込むと同時に、シンはギアブレードを頭上へ振りかぶり、親指でレバーを強く弾いた。重みを増した剣先が急激に沈み込み、振り下ろされた黒鉄の刀身が唸りを上げる。
厚い刃が片角の付け根へ叩き込まれ、そのまま角を根元から切り飛ばす。振り抜かれた一閃は勢いを失うことなく巨体を大きく切り裂き、宙へ跳ね上がった角は湿原の上で大きな弧を描いた。遅れて大きく傾いた巨体が重い音を響かせ、その場へ崩れ落ちた。
辺りを覆っていた霧が薄れ、踏み荒らされた湿原の地面が少しずつ姿を現していく。草葉の形を見比べていたアオは、少し離れた泥地の中に伸びる深緑色の葉を見つけて声を上げた。
「あっ、ありました!」
アオは膝をつき、細い茎を傷つけないように根元からまどろみ草を摘み取っていく。くるりと巻いた若芽の先で銀露が揺れ、身を寄せるたび甘い香りが微かに漂った。
「これで全部揃いましたね!」
弾んだ声が背後から届く中、シンは倒れ伏した白霧鹿を見下ろしていた。残された片角に目立った損傷はなく、表面には虹色の波紋が広がっている。
「……この角も持って帰るか。高く売れるかもしれない」
角の根元に刃を当て、自重を掛けながら押し込む。切り離された断面には、虹色の層が幾重にも重なり、内部まで広がっていた。
アオは採取袋へまどろみ草を収めると、シンの隣に駆け寄り、その手元を覗き込んだ。
「綺麗な角ですね! 白霧鹿は防壁から漏れ出すマナを吸って育つので、年輪みたいに魔力の層が重なるんです。これなら、強力な魔導具の核としても使えそうですよ!」
シンはわずかに口元を緩めて頷くと、切り離した角を布で包み、荷へ括り付けた。
素材を回収し終えた二人は、そのまま湿原をあとにした。
◇──◇──◇
湿原から戻った二人は、夕暮れの差し込む大魔導院の回廊を抜け、古代遺物研究所の扉をくぐった。奥へ続く通路へ足を踏み出した矢先、アオの足が不意に止まる。
前方から、深紺のローブを纏った老人が裾を揺らしながら歩いてくる。胸元の記章が歩みに合わせて小さく揺れ、すれ違う研究員たちが慌てて道を開く中、太く整えられた白眉の下で鋭い眼差しが真っ直ぐにアオを射抜く。その隣では、モモが落ち着かない様子で視線を泳がせている。
「し、所長……!」
アオは引き攣った声を漏らして半歩後ずさる。白眉の老人はその顔を見るなり、大きく息を吐き出した。
「戻っておったか。……来なさい」
低く言い残すと、近くの執務室へ向かって歩き出す。その後を追おうとしたアオの前で、モモが申し訳なさそうに眉を下げ、胸元で小さく手を合わせた。
「アオさんすみません、バレちゃいました……!」
アオは眉を下げて微笑み、首を横に振ると、足早に所長の後を追った。執務室の前で立ち止まった白眉の老人は、一度だけシンへ視線を向ける。
「モモから話は聞いておる。君も入りなさい」
シンは肩を竦めると、そのままアオたちに続いて執務室へ足を踏み入れた。
机の向こう側へ回り込んだ所長は杖を握ったまま立ち止まり、アオへ視線を向ける。室内には重い沈黙だけが広がり、アオの喉が小さく鳴った。張り詰めた空気に背筋が強張ったその時、杖が石床を強く打ち据え、重々しい音が室内を震わせた。
「お前と言う奴は、上の許可も得ずにグリーダまで飛び出して行きおって……!」
「ひっ!」
アオは肩を跳ねさせ、反射的に首を竦める。所長は杖を握ったまま身を乗り出した。
「ただの平研究員が、申請書の一枚も通さず勝手な調査へ向かうなど言語道断じゃ! しかも『グリーダの遺跡に何かが隠されている』などと、根拠の薄い仮説を振り回しおって!」
指先が机上の書類を叩くたび、積み上がった紙束がかすかに震え、叱責の声もさらに大きくなった。
「大魔導院の、ひいてはこの古代遺物研究所の予算がどこから出ていると思っておる! 調査隊を動かすにも人を雇うにも、すべて相応の裏付けが必要なんじゃ!」
矢継ぎ早に浴びせられる叱責に、アオの視線が忙しなく揺れた。胸元のポーチを押さえた手も落ち着かず、何か言い返そうとして開いた口からは掠れた息しか漏れない。
見かねたシンは深く息を吐き、話を遮るように一歩前へ出る。荷袋の脇へ括り付けていた長い布包みを外すと、執務机の上へ横たえた。
「……アオの魔法のおかげでこれを手に入れた。役に立てられないか」
怒声がぴたりと止まり、皺だらけの手が恐る恐る布をめくる。その下から巨大な角が姿を現した途端、老人の目が大きく見開かれた。




