第6章 復活(3)
防壁へ辿り着いた頃には、太陽はすでに頭上近くまで昇っていた。セレストルを囲む巨大な防壁のふもとには白い岩場が広がり、岩肌には陽光を受けた金色の筋が無数に浮かび上がっている。
「正午まであと数分もないぞ!」
シンが空を見上げながら声を張った。
「わかってます!」
荒くなった呼吸を整える間もなく、アオは腰のポーチから採掘用の道具を取り出した。岩肌に浮かぶ金色の筋を見定め、その中でもひときわ強く輝く一角へ向かって駆け寄る。
岩肌の前へ膝をついたアオは、採掘道具の刃先を鋭く隙間へ滑り込ませた。柄を慎重に傾けながら結晶の周りを削り、内部から淡い金色の光を放つ拳ほどの石を切り出すと、素早く小瓶の蓋を開けて透明な薬剤をその表面へ塗布した。
「マナが霧散しないように定着させる薬剤です。……よし、これで……!」
言葉が終わるのとほぼ同時に、岩面を覆っていた金色の輝きが目に見えて陰り始めた。
アオが顔を上げると、防壁の影が岩肌へ差し始めていた。陽紋は影の広がりとともに急速に色を失い、周囲の岩へ溶け込むように消えていく。しかし、掌へ収まる結晶だけは表面に金色の紋様を浮かべ、規則的な律動を刻みながら揺らめいていた。
「……間一髪だったな」
シンが肩の力を抜きながら呟く。
「よかった、間に合いました……!」
アオは胸を撫で下ろすと、結晶を目の高さまで持ち上げた。淡く揺らめく金色の紋様をしばらく見つめた後、陽紋晶を慎重に採取袋へ収める。
シンはアオの隣に足を運び、先ほどまで金色に輝いていた岩面に触れる。しかしそこに残されていたのは冷たい岩の感触だけで、そのまま手を滑らせてみても、ざらついた肌触りとともに白い岩粉が指先を汚すだけだった。
「午後には岩と同化する結晶か。……妙な性質の石だな」
低く漏らした声とともに手を離し、指先に白く残った粉を軽くはたき落とす。
アオは採取袋を肩に提げながら顔を上げた。
「残るはまどろみ草だけですね! 行きましょう!」
「ああ」
シンは短く返事をすると、次の目的地に向かって歩き出した。アオは胸元のポーチを軽く押さえてひとつ頷き、軽快な足取りでその後を追った。
◇──◇──◇
セレストル外周を取り囲む防壁を抜けた先で、二人は深い霧に包まれた湿原へ足を踏み入れた。足元の地面は水を多く含み、踏み締めるたび靴底が柔らかく沈み込む。背丈の低い草木の間には浅い水溜まりが無数に広がり、白灰色の霧が地表を撫でるように漂っていた。奥へ進むにつれて遠くの地面の境目は曖昧に滲み、湿原のあちこちで揺れる淡紫色の細い花からは甘く痺れるような香気が漂ってくる。
アオは足元に広がる花々へ目を落とすと、その先を辿るように霧の奥へ視線を向けた。
「まどろみ草はこのあたりに生えているはずです。でも、こんなに霧が濃いなんて……。それに、マナの流れもいつもと違うような……」
その声が霧の中へ吸い込まれると、前方の白い帳が大きく揺らぎ、巨大な影が音もなく姿を現した。枝分かれした虹色の大角を頭上へ広げた巨躯の魔獣──白霧鹿が、濃い霧の向こうに輪郭を浮かべ、濡れた鼻先から白い吐息を漏らしていた。
悠然と佇む巨獣の姿を目にした途端、アオは息を呑んで足を止めた。
「白霧鹿……! 霧で視界や距離感を惑わせる魔物です! まどろみ草はここにしか生えてないのに……!」
シンはその巨体を見据えたまま背の布包みを解き、ギアブレードを引き抜いた。黒鉄の刀身を肩の高さに構え直すと、柄を握る指へ力を込めた。
「……だったら斬り伏せるだけだ」
言葉と同時にシンは低く身体を沈め、湿地を蹴り裂いて一気に間合いを詰めた。泥水を跳ね上げながら踏み込み、黒鉄の刀身が大きく弧を描く。しかし、横薙ぎに振るわれた刃に手応えはなく、その巨体はなお数歩先に立っていた。
踏み込みの感覚と視界の距離が噛み合わない。シンは舌打ち混じりに眉根を寄せ、刃を引き戻しながら周囲の霧を睨む。
「……チッ、目測が狂うな。思ったより遠いか……?」
その声が落ちた途端、白霧の奥に見えていた巨大な枝角が目前へ迫った。空間を飛び越えた錯覚を起こすほど唐突な突進に、シンは目を見開く。
「なっ……!?」
咄嗟にギアブレードを盾状へ構えるが、激突した衝撃が腕から肩へ突き抜け、シンの身体が湿原の地面を滑る。泥を削りながら押し飛ばされるも、剣先を地面へ突き立てて勢いを殺し、片膝を突いたまま態勢を立て直した。
濃霧の中で再び鹿の影が揺らぐ。距離感が定まらないまま角の輪郭だけが近づいては離れ、視界そのものが歪んでいた。
「アオ! 相殺の術環は使えないのかっ!?」
アオは顔を上げると、濃密な霧へと意識を向け、その流れを確かめるように息を詰めた。湿原全体を満たす魔力は、朽枝の星祷院で感じたものに近い濃度まで高まっている。
「この場所なら……。やってみます!」
巨獣が再び地を蹴り、立ち込める霧の向こうから目の前に飛び込んでくる。シンは迫る角を真正面から受け止め、ギアブレードの刃へ全体重を預けながら泥の中で踏み止まった。金属と角がぶつかり合う衝撃音が湿原へ鋭く響き、足元の泥水が弾け飛ぶ。
「アオ! 今だっ!」
アオは古木の弓を構え、弦を引く指先を固く握り込んだ。
「相殺の術環……展開!」
透明感を帯びた白い矢が放たれ、霧を裂きながら飛翔する。しかしその矢は白霧鹿の横を大きく逸れ、湿地の奥へ消えていった。
「どこを狙ってる! そっちじゃないぞ!」
苛立ちを滲ませて振り返ったシンの視界で、矢の軌道上だけ霧が薄く剥がれ落ちる。白く霞んでいた空間の奥で、その巨体が一瞬だけ鮮明に浮かび上がった。




