第七十四話「器の数」
麻衣が去って、3日が経った。
農村は静かだった。前と同じ静けさだ。しかし、前と同じではない。台所に立つと、わかる。
2人分の出汁と、3人分の出汁では、鍋の大きさが違う。3人分に慣れた手が、2人分の分量を一瞬迷う。
「ランベルトさん。出汁、多くないですか」
「……ああ。少し多い」
「癖になってますね。3人分の」
「すぐ戻る」
「戻さなくてもいいですよ。多い分は明日に回せばいいので」
(多い分を明日に回す。フィオナの提案は常に実用的だ)
大根の出荷をした。クロードへの15本。中継街の商人に預けた。クロードからの返信が翌日届いた。
「受領しました。品質は申し分なし。冬大根の種を手配中。3日後にお届けします」
(クロードは止まらない。大根の取引が動き続けている。営業案件は、止まると死ぬ。動き続けることが正しい)
*
午後、丘でフィオナの修行を見た。
光は安定していた。持続時間は前より長い。しかし、フィオナの表情が少しだけ曇っていた。
「どうした」
「……学園のことを考えてました」
「学園」
「はい。……もうすぐ新学期なんです」
(新学期。フィオナは王立学園の特待生だ。農村にいるのは修行のための一時逗留。学園に戻る時期が来ている)
「いつだ」
「あと10日くらいです」
「10日」
「はい。……戻らないと、特待生の資格に影響が出るかもしれなくて」
(特待生の資格。フィオナにとって学園は生活の基盤だ。平民出身のフィオナが学園にいられるのは、特待生の資格があるからだ)
「戻るべきだ」
「……はい」
「修行はどこでもできる。しかし、学園の資格は一度失ったら取り戻せない」
「わかってます。……わかってるんですけど」
フィオナが畑を見た。大根の畝を。
「ここを離れるの、前より難しくなってますね」
(前より難しい。以前はフィオナが来る側だった。今は離れる側だ。来るのと離れるのでは、重さが違う)
「また来ればいい。学園の休みのたびに」
「……はい。来ます」
*
夕方。使用人が手紙を持ってきた。
王城の封蝋。レオンの紋章。
(レオンから手紙。公式の封書だ)
開いた。
「ランベルト・ヴェルツ殿。本書をもって、正式にお願いする」
「フィオナ・エルストが王立学園に復帰するにあたり、貴殿にフィオナの護衛役をお願いしたい。身分は王太子直轄の特別護衛とする。報酬は王城より支給する。期間は学園在学中とする」
「フィオナの安全は、貴殿に託す。前にも言ったが、お前以外に適任はいない」
「追伸。農村の大根を持ってきてくれ。あれは美味かった」
手紙を折りたたんだ。
(レオンが正式に護衛役を命じてきた。王太子直轄。報酬あり。これは私的な頼みではない。公的な任命だ)
(つまり、俺が王都に行く理由が公的に生まれた)
(没落貴族のランベルト・ヴェルツが、王太子の名のもとで、ヒロインの護衛として王都に赴任する)
(……当て馬が、ヒロインの護衛)
(ゲームの設計者が聞いたら、笑うだろう。あるいは、泣くだろう)
フィオナに見せた。
「これ」
「レオン殿下からだ。護衛役の正式な依頼だ」
フィオナが読んだ。
「……護衛」
「ああ。お前が学園に戻るとき、俺も王都に行く。護衛として」
「護衛って、何をするんですか」
「お前のそばにいる」
「それ、今と何が変わるんですか」
(……何も変わらない。場所が変わるだけだ。農村から王都に移るだけだ)
「場所が変わる」
「場所が変わっても、やることは同じですよね。畑はないですけど」
「畑はない。しかし、ヴェルツ家の別邸がある。シャールが修繕した」
「あ。シャールさんが直してくれたところですね」
「ああ」
「台所はありますか」
「ある」
「じゃあ大丈夫です」
(台所があれば大丈夫。フィオナの判断基準は明確だ)
エマに報告した。
「坊ちゃま。王都にいらっしゃるのですね」
「ああ。護衛として。フィオナの」
「左様でございますか」
エマがニコニコした。深いニコニコだった。
「お父様と同じです」
「何が」
「お父様も、王都に行かれたとき、誰かを守るために行かれました」
「……母を」
「はい。奥様を。坊ちゃまは、フィオナ様を」
(エマは俺とフィオナを、父と母に重ねている。言わないでほしい。意識するとまずい)
「エマさん。畑を」
「お任せください。何度でもお任せください」
*
夜、書斎で天井を見た。
(王都に行く。今度は緊急ではない。計画的に行く)
(農村を離れる。大根を離れる。エマを離れる)
(しかし、帰る場所は残る。ここが帰る場所だ。それは変わらない)
食器のことを考えた。
(農村では4つだった。俺、フィオナ、エマ、使用人。王都では何人分必要になるだろう)
(ヴェルツ家の別邸に住む。俺とフィオナ。2つ)
(しかし、王都にはレオンがいる。シャールがいる。クロードがいる。ファインがいる。麻衣がいる)
(来るだろう。あいつらは来る。止めても来る。料理を食べに来る。壁を直しに来る。帳簿を持って来る。妹の顔を見に来る)
(何人分の器が必要だ。計算できない。来る人間の数が読めない)
(……営業マンとしては、見積もりが甘すぎる案件だ)
窓の外に、離れの明かり。
(フィオナがいる。王都でも、フィオナがいる。隣に)
(護衛という名目で、隣に)
明かりが消えた。




