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俺、当て馬なんで逃げます。――なんでついてくるんですか、ヒロインさん  作者: よるの 余白
III「リリア死亡フラグ」

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第七十三話「おはよう」


 朝、ファインが迎えに来た。


 騎馬1頭。護衛なし。1人で来た。


「迎えに来た」


「ありがとうございます。ファイン殿」


「礼は不要だと何度も言っている」


「何度言われても言います。営業の基本です」


「また営業か」


 フィオナが横で手を挙げかけて、やめた。カウントするか迷って、やめた。


 (フィオナがカウントを自粛した。ファインの前では空気を読んでいる。読めるのか)



 *



 麻衣が荷物をまとめた。小さな袋一つ。来たときと同じ量だ。


 しかし、中身が少し違っていた。


「ランベルト殿。これを」


 令嬢の声で、俺に小さな包みを渡した。


「何だ」


「乾燥した大根です。薄切りにして干したものです。エマ様に教わりました」


「干し大根を」


「はい。王都に持って帰って、出汁に使います。この大根がなくなったら、また送ってください」


「……わかった」


 (麻衣が農村の大根を王都に持ち帰る。出汁に使う。80点の料理を90点にするために。この大根が繋がりになる)


 ファインが横で聞いていた。


「リリア。大根の出汁か」


「はい。ファイン兄様もお気に召すと思います」


「私の好みを知っているのか」


「……知っています。ファイン兄様は、濃い出汁のほうがお好みです」


 ファインが少しだけ目を細めた。


「……そうだ。よく知っているな」


 (麻衣がファインの食の好みを知っている。ゲームの知識か。それとも、この世界でリリアとして過ごした記憶か。たぶん、両方だ)



 *



 門の前で見送った。


 麻衣がファインの馬に同乗した。令嬢の姿勢で。


「ランベルト殿。お世話になりました」


「こちらこそ」


「フィオナ様。ありがとうございました。料理、練習します」


「3ミリ、忘れないでくださいね」


「忘れません」


 麻衣が俺を見た。令嬢の目。しかし、その奥に、妹がいた。


 口が動いた。声にはならなかった。


 (読唇。前世で覚えた技術ではないが、29年間見てきた妹の口の動きは読める)


 「またね、お兄ちゃん」


 俺は頷いた。小さく。


 ファインが馬を出した。


「ランベルト殿。また会おう。話は、まだ終わっていない」


「ああ。いつでも」


「いつでも、か。……楽しみにしている」


 馬が去った。街道に出て、北に向かった。小さくなっていく。


 エマが門の前に立っていた。ニコニコしていた。


「リリア様、お元気そうでしたね」


「ああ。元気だった」


「お父様がいらしたら、喜ばれたでしょうね。こんなにたくさんのお客様がいらしたのは、この屋敷では初めてでございます」


「……ああ。そうだな」


「坊ちゃま」


「何だ」


「糸が、また増えました」


「……見えるのか」


「見えます。坊ちゃまの糸は、王都に行く前よりも、たくさんの方と繋がっています。太い糸も、細い糸も」


 (糸が増えた。レオン、シャール、クロード、ファイン、ガルド。全員との間に糸が育った。フィオナとの糸は、さらに太くなっているのだろう)


「消失のリスクは」


「上がっております。しかし、同時に」


「同時に」


「消えにくくもなっております。これだけ多くの方が坊ちゃまを覚えていてくだされば」


 エマはニコニコした。


「坊ちゃまは、もう消えません」


「根拠は」


「ございません。ただの老人の勘でございます」


 (老人の勘。フィオナの根拠なしと同じだ。しかし、エマの勘は55年分の重みがある)



 *



 2人きりになった。


 フィオナと俺。


 畑に出た。大根に水をやった。


 隣に、フィオナがいた。


 いつもの距離。30センチ。自然にそうなる。


「ランベルトさん」


「何だ」


「静かですね」


「ああ。静かだ」


「王都は騒がしかったですね」


「ああ」


「農村は静かですね」


「ああ」


「……これでいいですか」


「何が」


「これで。2人で。大根に水をやって。静かに。……これでいいですか」


 (これでいいか)


「……ああ。これでいい」


「よかった」


 大根に水をやった。水は大根にかかった。


 (半年前、ここで大根に水をやっていた。フィオナが来た。「あなた、ここに住んでるんですか」と言った)


 (それから、たくさんのことが起きた。縁糸。削除の真実。消失の恐怖。クロードの追及。蔵の記録。麻衣の危機。王都。貴族院。ファイン。レオン。シャール。戦闘。BGM。握り飯。3ミリ。カウント)


 (全部が終わって、俺はここにいる。同じ場所で。同じ大根に水をやっている。隣に同じ人間がいる)


 (しかし、同じではない。半年前の俺は、逃げていた。今の俺は、逃げていない。ここにいることを、選んでいる)



 *



 翌朝。


 目が覚めた。


 窓から光が入っていた。農村の朝日。王都の朝日とは質が違う。柔らかい。


 畑に出た。


 大根が並んでいた。朝露がついていた。


 水桶を持って、水をやり始めた。


 離れの戸が開いた。


 フィオナが出てきた。寝癖がついていた。


「おはようございます」


「……おはよう」


 同じだった。最初と同じだった。


 同じ言葉。同じ場所。同じ朝。


 しかし、全てが違っていた。


 フィオナの声は、前より少しだけ柔らかかった。


 俺の返事は、前より少しだけ短くなかった。


 距離は、前より近かった。


「今日は何しますか」


「畑の手入れ。昼飯を作る。午後はお前の修行を見る」


「いつも通りですね」


「いつも通りだ」


「いつも通りが、一番いいですね」


「……ああ。一番いい」


 大根に水をやった。水は大根にかかった。


 大根は黙っていた。


 (俺、当て馬なんで逃げます)


 (半年前、そう思った)


 (今は違う)


 (俺は当て馬ではなかった。逃げなくてよかった。ここにいて、よかった)


 (まだ言葉にできないことがある。まだ見えない糸がある。まだ答えが出ていない問いがある)


 (しかし、朝が来た。フィオナが「おはようございます」と言った。俺は「おはよう」と答えた)


 (それだけで、今は十分だ)


 朝日が、畑を照らしていた。



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