第七十五話「逃げるのをやめた日」
出発の日。
3度目だ。1度目はep……いや、最初は半年前。王都から逃げて、ここに来た。2度目は麻衣を助けるために、ここから出た。
3度目。
今回は、逃げるのでも、走るのでもない。選んで行く。
*
朝、畑に出た。最後の水やり。
大根に水をやった。クロードから届いた冬大根の種は、出発前に蒔いておいた。エマが育てる。帰ってくる頃には芽が出ているだろう。
「大根。しばらく留守にする。3度目だ」
大根は黙っていた。
「お前はいつも黙っている。しかし、帰ってくるたびに育っている。それでいい」
大根は黙っていた。
「冬大根の種も蒔いた。俺がいなくても育つ。……いなくても育つが、帰ってきたら味を見る。まずかったら、お前のせいだ」
大根は黙っていた。
(大根に責任を転嫁している。前世の営業部でもそうだった。うまくいかないと、とりあえず資料のせいにした。大根は資料より文句を言わない)
フィオナが後ろに立っていた。
「……大根と話してましたか」
「話していない」
「話してましたよ。聞こえてました。『まずかったらお前のせいだ』って」
「……独り言だ」
「独り言を大根に向かって言うんですか」
「大根は聞いてくれる」
「私も聞きますよ」
「お前は聞いた上で突っ込む。大根は聞くだけだ」
「突っ込まれたくないんですか」
「……突っ込まれたくないわけではない」
「じゃあいいですね」
(よくない。しかし、否定する理由もない)
*
弁当を作った。
2人分。握り飯。三角。
しかし、1つだけ丸いのを混ぜた。
「……丸いのがありますね」
「リリアのだ」
「リリア様のって、リリア様いないですよ」
「わかっている。しかし、丸い握り飯のほうが、弁当の見た目が良い。三角だけだと均一すぎる」
「……均一すぎるのがダメなんですか」
「営業資料と同じだ。完璧すぎると印象に残らない。少しだけ異質なものがあるほうが、記憶に残る」
「握り飯に営業理論を持ち込まないでください」
「持ち込む。握り飯は営業だ」
フィオナが笑った。
(今日のカウントは後で。まだ出発していない)
*
荷物をまとめた。
今回は少し多い。農村に住むのではなく、王都に住む。長期になる。
服。書籍。蔵の鍵はエマに預ける。大根の出荷記録はクロードに送っておく。
書斎の机を片付けた。
書けなかった手紙の残骸が、引き出しの奥にあった。あの夜、破いた紙片。
(あのとき、麻衣に「大丈夫か」と書けなかった。書けなかったから、走った)
(今回は、書ける。書く必要がある手紙がないだけだ。全部、直接言える距離にいる)
紙片を捨てた。
*
エマに挨拶した。
「坊ちゃま。3度目でございますね」
「ああ。3度目だ」
「1度目はお逃げになりました。2度目はお走りになりました。3度目は」
「……歩いて行く」
「歩いて」
「ああ。急いでいない。逃げてもいない。ただ、行く」
エマがニコニコした。3度目の見送りのニコニコ。しかし、質が違った。
1度目は、目が潤んでいた気がする。
2度目も、目が潤んでいた気がする。
3度目は、潤んでいなかった。代わりに、誇らしそうだった。
「坊ちゃま」
「何だ」
「鍵を、お預かりしなくてよろしいのですか」
「……ああ。今回は預けない」
「なぜでございましょう」
「帰ってくるからだ。すぐに。長くても数ヶ月だ。鍵を預けるほどの期間ではない」
「……左様でございますか」
エマのニコニコが、さらに深くなった。
「お父様は、鍵をお預けになりました。戻るかどうかわからなかったからです」
「俺は戻る。確実に。大根の冬の収穫があるからだ」
「大根の収穫のために」
「ああ。それと、エマさんの味噌汁が食べたくなったとき」
「……お上手でございますね。お父様より、お上手です」
「上手ではない。事実だ」
エマは深くお辞儀をした。
「行ってらっしゃいませ。何度でも。何度でもお待ちしております」
「ああ。行ってくる」
*
門を出た。
馬に乗った。フィオナが後ろに座った。
1度目は馬車だった。エマと2人で。
2度目は馬だった。フィオナが後ろにいた。
3度目も馬だった。フィオナが後ろにいた。
「ランベルトさん」
「何だ」
「3度目の出発ですね」
「ああ」
「1度目は、逃げてきたんですよね。王都から」
「ああ」
「2度目は、リリア様を助けに走ったんですよね」
「ああ」
「3度目は」
「歩いて行く。エマにもそう言った」
「歩いて。……それ、いいですね」
「何がいい」
「逃げてもないし、走ってもない。普通に行くってことですよね」
「ああ。普通に」
「普通が一番だと思います」
馬を進めた。
振り返った。農村が見えた。畑が見えた。大根の葉が風に揺れていた。エマが門の前で手を振っていた。
(1度目に振り返ったとき、ここは「逃げ場所」だった)
(2度目に振り返ったとき、ここは「帰る場所」だった)
(3度目に振り返ったとき、ここは「俺の場所」だった)
前を向いた。街道が北に延びていた。
フィオナの手が腰にあった。前回ほど強くない。普通の力。
「ランベルトさん」
「何だ」
「王都に着いたら、まず何をしますか」
「台所を確認する」
「台所」
「ああ。ヴェルツ家の別邸の台所。シャールが修繕したはずだが、台所まで直したかどうかわからない」
「シャールさんなら直してますよ」
「台所は壁とは違う。直し方が違う」
「じゃあ確認しましょう。……あ、でも」
「何だ」
「王都でも、この味ですか。農村と同じ味ですか」
「同じだ。場所が変わっても味は変わらない。前にも言った」
「言いました。……じゃあ大丈夫です」
「何が大丈夫だ」
「味が同じなら、どこにいても帰ってる感じがするってことです」
(どこにいても帰ってる感じがする。味が帰る場所を運ぶ)
(フィオナにとって、俺の料理が「帰る場所」の味になっている。場所ではなく、味で)
「……ありがとう」
「17回目です」
「17回目か」
「はい。でも、これからもっと増えますよ。王都のほうがいろいろありますから」
「いろいろあるのか」
「あると思います。大変なことも、面白いことも」
「面白いことがあるといいが」
「ありますよ。あなたの周りには、面白いことが集まるので」
(面白いことが集まる。俺が集めているのではなく、集まってくる。レオンも。シャールも。クロードも。ファインも。フィオナも)
(なぜ集まるのだろう)
(わからない。しかし、逃げていた頃は、何も集まらなかった。逃げるのをやめたら、全部集まった)
街道が北に伸びていた。
風が穏やかだった。
(俺、当て馬なんで逃げます)
(そう思って逃げた日がある。しかし、逃げるのをやめた日がある。今日ではない。もっと前だ。いつだったか。麻衣が危ないと知ったとき。フィオナが「行きましょう」と言ったとき。大根に「すまん」と言ったとき)
いや。
(逃げるのをやめた日は、一日ではなかった。少しずつ、少しずつ、やめていた)
(フィオナの「おはようございます」で少し。エマのニコニコで少し。麻衣の手紙で少し。クロードの「なるほど」で少し。レオンの「大根を頼んだぞ」で少し。シャールの壁の修繕で少し)
(全部の合計が、「逃げるのをやめた日」になった)
(今日ではない。今日は、その全部を持って、歩いて行く日だ)
フィオナが後ろで小さく笑った。
「何がおかしい」
「何もおかしくないです。あなたの背中が、前より広く見えるだけです」
「背中の広さは変わっていない」
「変わってますよ。……たぶん、背負っているものが増えたから」
(背負っているもの。大根。料理。糸。帰る場所。守るべき人。守りたい人)
(重い。しかし、重くない。分散されているから。チーム営業だから)
馬が北に進んだ。
王都が、また近づいていた。




