第七十話「あなたがいなくなったら」
朝。
ファインが出かけた。ミリアーデ伯爵との非公式会談。ガルドが護衛についた。
「夕方には戻る。待っていてくれ」
「わかりました」
ファインが去った。
残されたのは、俺、フィオナ、麻衣。
ルーシェ家の別邸で、3人きり。使用人はいるが、気にならない。農村と同じ空気だった。
*
台所で昼飯を作った。
3人で。
麻衣が根菜を切った。
「何ミリだ」
「3ミリ」
確認した。3ミリだった。正確だった。
「……合格。満点だ」
「本当?」
「ああ」
「やった」
麻衣が小さくガッツポーズをした。令嬢の仮面を忘れていた。
フィオナが笑った。
「リリア様。3ミリ、おめでとうございます」
「ありがとう。長い道のりだった」
「3日ですけどね」
「3日で5ミリから3ミリに縮めたんだよ。改善率40%だよ」
「ランベルトさんの影響で改善率で語るようになってるね」
(改善率。麻衣が営業用語を使い始めた。伝染している)
汁物を作った。出汁は俺が取った。味付けはフィオナ。盛り付けは麻衣。
3人の分業が、自然にできるようになっていた。
「ランベルトさん。この味、農村のときと同じですね」
「同じ食材、同じ手順だ」
「でも、農村のときより、なんか落ち着く気がします」
「気のせいだろう」
「気のせいじゃないです。3人で作ると、味が変わるんですよ」
「味は変わらない。物理的に同じだ」
「物理的には同じでも、食べるときの気持ちが違うんです」
(食べるときの気持ち。フィオナは料理を感情で語る。クロードは構造で語り、ファインは原理で語る。フィオナだけが、感情で語る)
*
午後。
麻衣と2人きりになった。フィオナは庭で修行をしていた。
「お兄ちゃん」
「何だ」
「ファイン様が戻ってきたら、たぶん、ミリアーデの件は片付いてると思う」
「ああ」
「片付いたら、ファイン様が私と話したいって言ってた。お兄ちゃんのことも聞きたいって」
「ああ」
「お兄ちゃんは、何を話すの」
「……聞かれたことに答える。それだけだ」
「『ここにいるべきではなかった人間だ』って、クロード先輩に言ったのと同じ?」
「近いものになるだろう。ファインはもっと鋭いから、もう少し踏み込んだ答えが要るかもしれないが」
「踏み込んだ答え」
「……わからない。その場の空気で決める」
「営業マンらしくないね。事前準備しないの」
「営業マンの最終手段は、その場の直感だ。準備は9割。残り1割は、相手の目を見て決める」
「……佐藤課長の受け売り?」
「いや。俺のオリジナルだ」
「珍しい」
麻衣が窓の外を見た。フィオナが庭で光を灯していた。昼間の光。強い光。
「お兄ちゃん。フィオナ様のこと、どう思ってるの」
「……どう、とは」
「どう思ってるかって聞いてるの」
「……面白い人間だと思っている」
「面白い。……それだけ?」
「……それだけだ」
「嘘。お兄ちゃん、嘘つくとき、目が右に動くの知ってる?」
「……知らなかった」
「29年間見てきたんだよ。兄の嘘くらいわかるよ」
(29年間の観察データ。フィオナのカウントより古い)
「……面白い、以外の言葉が見つからない。今は」
「見つからない、ね。見つけたくないんじゃなくて」
「……見つけたくないわけではない。見つけてしまうと、面倒なことになる」
「面倒って何」
「……消失のリスクが上がる。糸が太くなる。物語の中心に近づく。全部繋がっている」
「お兄ちゃん。それって、フィオナ様のことを大事にすればするほど、お兄ちゃんが消えるってことだよね」
「……ああ」
「……それ、最悪の設定だよ」
「最悪だ」
沈黙が流れた。
「でも」
麻衣が言った。
「でも、糸が太ければ消えにくいって、お父さんの記録に書いてあったよね」
「ああ」
「つまり、フィオナ様と一緒にいることが、消えるリスクでもあり、消えないための防御でもある」
「ああ。両刃の剣だ」
「両刃なら、刃の向きを選ぶのはお兄ちゃんだよ」
(刃の向きを選ぶのは俺)
「……ああ。そうだな」
「選んでね。逃げないで」
「……逃げない」
*
夕方。ファインが戻った。
「終わった」
「結果は」
「ミリアーデは引いた。鉱山の財務情報を突きつけたら、交渉の余地がなくなった。リリアに手を出さないという確約を書面で取った」
「……書面。速いですね」
「クロードの情報が正確だったおかげだ。あの男は優秀な商人だな」
(クロードの情報がファインの外交力で武器になった。商人と魔法師のコンビネーション。営業で言えば、情報提供部門と交渉部門の連携だ)
「これで、リリアの身は安全だ」
麻衣が隣にいた。令嬢の表情のまま、しかし目が潤んでいた。
「ファイン兄様。ありがとうございます」
「礼は不要だ。妹を守るのは兄の仕事だ」
(妹を守るのは兄の仕事だ。俺と同じことを言っている)
「ランベルト殿。お前にも感謝する。お前がリリアを保護していなければ、こうはいかなかった」
「いいえ。俺は立っていただけです」
「立っていただけ、か。……立ち方が良かったのだろう」
ファインが少しだけ笑った。
*
夜。
ルーシェ家の別邸の屋上に出た。
フィオナがいた。先にいた。
「あ。ランベルトさん」
「……先に来ていたか」
「星を見てました。王都でも星は見えるんですね。農村ほどじゃないですけど」
「農村ほどじゃない。明かりが多いからな」
「でも、見えることは見えますね」
並んで立った。屋上の縁。王都の夜景が広がっていた。
風が吹いた。フィオナの髪が揺れた。
「ランベルトさん」
「何だ」
「今日、リリア様と話してましたよね」
「ああ」
「何を話してたんですか」
「……いろいろだ」
「いろいろ。……私のこと?」
(……この女の直感は何なのだ)
「……少し」
「少し。……何て言ってましたか」
「……面白い人間だと言った」
「面白い。……前にも聞きましたよ、それ」
「ああ。前にも言った」
「それだけ?」
「……それだけだ」
フィオナは少し黙った。
「……私も、一つだけ言っていいですか」
「何だ」
「ずっと、言おうか迷ってたことがあるんです」
「言え」
「言います」
フィオナが俺を見た。まっすぐに。星明かりの中で。
「あなたがいなくなったら、困ります」
(あなたがいなくなったら、困る)
静かな声だった。怒りでも泣きでもなかった。事実を述べる声だった。
「料理が食べられなくなるから、じゃないです。修行の隣にいてくれるから、でもないです。カウントが止まるから、でもないです」
「……」
「あなたがいなくなったら、私は、帰る場所がなくなるんです」
(帰る場所がなくなる)
「農村は残ります。畑も残ります。エマさんもいます。でも、あなたがいなかったら、そこは帰る場所じゃないんです。あなたがいるから、帰る場所なんです」
(俺がいるから、帰る場所)
「だから、消えないでください。いなくならないでください。……それだけです」
風が吹いた。
何も言えなかった。
営業マンとして、適切な返答を考えるべきだった。しかし、営業スマイルは出てこなかった。
代わりに、言葉が出た。営業マンではなく、ランベルト・ヴェルツとして。
「……消えない」
「根拠は」
「ない」
「ないのに?」
「ない。しかし、消えない。お前が帰る場所を、なくすわけにはいかない」
フィオナの目が揺れた。
しかし、泣かなかった。代わりに、少しだけ笑った。
「……ありがとう」
「……お前が言うのか」
「私だって言いますよ。たまには」
「カウントするか」
「しません。これは、私のありがとうですから。あなたのカウントとは別です」
屋上の風が、穏やかに吹いていた。
王都の夜景が広がっていた。農村とは全く違う景色だった。
しかし、隣にいる人間は同じだった。
(俺は当て馬なんで逃げます、と言った。半年前に)
(今、俺は逃げていない。王都にいる。妹を守った。攻略対象が周りにいる。フィオナが隣にいる)
(物語の中心に立っている。台詞3行の、削除されたキャラクターが)
(当て馬でもいい。そう思った。しかし、もう当て馬ではないのかもしれない)
(まだわからない。しかし、少なくとも、逃げない)
星が見えた。農村ほどではなかったが、見えた。




