第六十八話「貴族院の朝」
朝、ルーシェ家の使用人に起こされた。
「ヴェルツ様。お支度の時間でございます」
起きた。横腹がまだ少し痛んだ。しかし昨日よりはいい。
服を着替えた。ルーシェ家が用意した貴族の正装。紺色の上着に白いシャツ。
鏡を見た。
(……似合わない)
(農村で大根を育てていた人間が、貴族の正装を着ている。コスプレだ。前世のハロウィンのほうがまだ馴染んでいた)
廊下に出た。フィオナがいた。学園の正装を着ていた。
「ランベルトさん。似合ってますよ」
「嘘だろう」
「嘘じゃないです。ちょっとだけ、農村のときと違いますけど」
「どう違う」
「肩が凝ってそうです」
(肩が凝っている。正装が窮屈だからだ。農村の作業着のほうが動きやすい)
麻衣がいた。令嬢の正装。完璧だった。こちらは本物だ。リリア・ルーシェとして育った体は、この服が日常だ。
「お兄……ランベルト殿。準備はよろしいですか」
「ああ」
「顔が硬いですよ。営業スマイルは」
「……今から作る」
営業スマイルを作った。鏡で確認した。
(営業スマイル。前世で毎朝確認していた笑顔。この世界でも同じことをしている。場所は変わっても、やることは変わらない)
*
貴族院は王城の一角にあった。
大きな議場。石造りの壁。高い天井。円形の席が並んでいる。100名以上が座れる。
今日の議題は複数あったが、ファインの宣言は午前の最初に入れてもらっていた。レオンの手配だった。
(レオンが日程を調整した。ファインから連絡が行っていたのだろう)
議場に入った。
視線が集まった。
ファイン・ルーシェの隣に、見知らぬ男が立っている。貴族たちが俺を見ていた。
(見られている。100人以上の貴族に。没落貴族のランベルト・ヴェルツが)
(逃げたい。正直に言えば、逃げたい)
(しかし、逃げない)
営業スマイルを維持した。
ファインが壇上に立った。
「本日は、ルーシェ家より一件の報告がございます」
議場が静かになった。
「先日来、妹リリア・ルーシェが辺境のヴェルツ家にて療養しておりました。体調不良のためです。現在は回復し、本日こちらに参っております」
麻衣が立ち上がった。完璧なお辞儀をした。
「リリア・ルーシェでございます。ご心配をおかけいたしました」
議場がざわめいた。「療養」の噂と「家出」の噂が交錯していたのだろう。しかし、令嬢が本人の口で「療養」と裏付けた。
「なお、療養期間中、ランベルト・ヴェルツ殿にリリアの保護をお願いしておりました。この場を借りて、感謝を申し上げます」
俺の名前が呼ばれた。
立ち上がった。
100人以上の貴族の視線が、俺に集まった。
(……ランベルト・ヴェルツの名前が、貴族院で読み上げられた。公的記録に残る。物語の中心に近づいた)
(消失のリスクが、今この瞬間、確実に上がった)
頭を下げた。何も言わなかった。言う必要がなかった。立っているだけが仕事だ。ファインにそう言われた。
ファインが続けた。
「また、リリアの療養中、街道上において武装した者による襲撃がありました。これはルーシェ家への明確な敵対行為であり、厳正に対処する所存です」
議場の空気が変わった。「襲撃」という言葉に、複数の貴族が顔色を変えた。
そのとき。
議席の一角から、声が上がった。
「ファイン殿。一つよろしいかな」
声の主は、50代の男だった。白髪交じり。痩せた顔。しかし、目が鷲のように鋭い。
(……この男か。ミリアーデ伯爵)
「療養とのことですが、ルーシェ家の令嬢が辺境の没落貴族のもとで療養するというのは、些か不自然ではありませんか」
議場がざわめいた。
「ヴェルツ家は失礼ながら、医療の設備もなく、療養に適した環境とは思えません。なぜもっと適切な場所を選ばなかったのか」
ファインが答えようとした。
その前に、別の声が割って入った。
「適切な場所であるかどうかは、私が保証しよう」
議場が静まった。
声は、最上段の席から聞こえた。
レオン・エルドリアが立ち上がっていた。王太子。22歳。この議場で最も高い席に座っている人間。
「私は以前、ヴェルツ家の農村を視察した。辺境ではあるが、空気は清涼で、食事は王都のどの屋敷にも劣らない。療養に適した場所であると、私が証言する」
(レオン。お前がここで出てくるのか)
「また、ランベルト・ヴェルツ殿は信頼に足る人物である。これも私が保証する」
ミリアーデ伯爵の顔が歪んだ。王太子の証言を否定することは、誰にもできない。
「さらに、街道上の襲撃についても、私は重大な関心を持っている。貴族の令嬢を武力で拘束しようとする行為は、王国法に照らして明白な犯罪である。心当たりのある者は、自ら名乗り出ることを勧める」
最後の一文は、ミリアーデ伯爵を見ながら言った。
議場が完全に静まった。
ミリアーデ伯爵は、何も言わなかった。座ったまま、口を閉じた。
(レオンが全てを持っていった。王太子の証言で療養を裏付け、襲撃を公的に問題化し、ミリアーデを牽制した。一石三鳥だ)
(営業で言えば、最終プレゼンの場で大口クライアントの社長が「この会社を信頼している」と一言言ったようなものだ。それだけで契約が決まる)
*
議場を出た。
廊下でレオンが待っていた。
「ランベルト」
「レオン殿下。ありがとうございます」
「礼は不要だ。ファインから事情は聞いている」
「殿下が出てくるとは思いませんでした」
「出ないわけにはいかないだろう。お前は前に私の領地で良い大根を育てていた。その恩がある」
「……大根の恩ですか」
「大根の恩だ。それと、あの汁物の恩もある」
(大根と汁物で王太子を動かした。前世の営業経験を全部合わせても、こんな成功事例はない)
「ランベルト。一つ言っておく」
「何でしょう」
「お前は変わったな。前に農村で会ったときとは、目が違う」
「……何が違いますか」
「前は、逃げる目をしていた。今は、逃げない目をしている」
(逃げない目)
「ミリアーデは今日で引っ込むだろう。しかし、完全にはあきらめない。注意しておけ」
「わかりました」
「それと、フィオナのことを頼む」
(フィオナのことを頼む)
(レオンが、俺にフィオナを頼んだ。王太子が当て馬にヒロインを託した)
「……俺にですか」
「お前以外に誰がいる」
レオンは振り返って、廊下を去っていった。
フィオナが横に立っていた。
「今の、聞こえてましたけど」
「……聞こえていたか」
「聞こえてました。レオン殿下、あなたに私を頼むって言ってましたね」
「……ああ」
「あなた、引き受けたんですか」
「……引き受けていない。何も答えていない」
「でも断ってもないですよね」
「……断ってない」
「じゃあ引き受けたのと同じですよ。あなた、断るときははっきり断る人ですから」
(……フィオナの観察力。断らなかった=引き受けた、と解釈された。営業マンとしては完敗だ)
「……ありがとう」
「何に対してですか」
「……わからない。しかし、言いたかった」
「14回目ですね。でも、理由がわからないのはノーカウントにします」
「ノーカウント」
「はい。次の、ちゃんとしたやつを待ちます」




