第六十六話「その名を呼ぶ声」
橋を渡った。
戦闘の痕跡を残して、北に進んだ。ファインの判断で、橋から離れた場所で休息を取ることになった。
街道沿いの川辺に馬を止めた。
俺は馬から降りようとして、横腹が痛んだ。
「……っ」
「降りるの手伝います」
フィオナが腕を差し出した。
「大丈夫だ。自分で降りられる」
「大丈夫じゃないです。顔、歪んでます」
(顔が歪んでいる。営業スマイルが維持できていない。それはまずい)
フィオナの腕を借りて降りた。川辺の木の根に座った。
フィオナが俺の服をめくった。
「ちょっと見せてください」
「見せるほどの傷では」
「見せてください」
横腹に、紫色の痣ができていた。拳の形がはっきり残っていた。
「……これ、折れてません?」
「折れていない。たぶん。呼吸で痛みが増さないから、骨は無事だ」
「なんでそんなの知ってるんですか」
「……前世で肋骨を折ったことがある。引っ越しの荷物を運んでいるときに」
「引っ越しで肋骨を」
「大きな段ボールだった」
(前世の怪我の話で場を和ませようとしている。営業マンの癖だ。痛いときほど笑い話を出す)
フィオナが川で布を濡らしてきた。冷たい布を横腹に当てた。
「冷やしたほうがいいです。修行で打撲は何回もあったので」
「修行で打撲するのか」
「光の制御を失敗すると、反動が体に来るんです」
「聞いていなかった」
「言ってなかったですから。……大したことないですし」
(大したことない、と言う。フィオナも麻衣と同じだ。「大丈夫」と言う人間は、だいたい大丈夫ではない)
冷たい布が心地よかった。痛みが少し引いた。
「ランベルトさん」
「何だ」
「さっき、走ってましたよね。リリア様のところに」
「ああ」
「武器もなくて、相手は傭兵で。なんで走ったんですか」
「妹を守るためだ。ファインにも同じことを聞かれた」
「それはわかります。でも、あなたが殴られたとき、私」
フィオナの声が止まった。
「お前が、何だ」
「……心臓が止まるかと思いました」
(心臓が止まるかと思った)
「止まっていない。俺のも、お前のも」
「わかってます。でも、あの一瞬、本当に……」
フィオナの手が震えていた。冷たい布を持つ手。
(フィオナが震えている。戦闘中は震えていなかった。光を灯していた。冷静だった。しかし、終わった後に、震えている)
(戦闘中は気が張っていた。終わって、緊張が切れた。そして、恐怖が来た)
「……すまない。心配をかけた」
「心配じゃないです」
「心配ではないのか」
「心配より、怒ってます」
「怒る」
「あなたが殴られたのが、怒りです。あなたは走るべきじゃなかった。私が光で止めるべきだった」
「昼間の光では足りなかったろう」
「足りなかった。だから怒ってるんです。自分に」
(自分に怒っている。フィオナは、自分の光が足りなかったことに怒っている)
「フィオナ。お前の光は十分だった」
「十分じゃなかったです。あなたが殴られた。私の光が足りなかったから」
「違う。相手が多すぎただけだ」
「多くても、もっと強い光なら止められた。もっと広い範囲に、もっと長い時間」
フィオナの目が、何かを決めた目になった。
「ランベルトさん。修行の目標、言います」
「……今か」
「今です。もうすぐ達成できそうだったんですけど、間に合わなかった」
「目標とは」
「昼間でも、夜と同じ強さの光を出すこと」
(昼間でも夜と同じ強さ)
「蔵の地下で光を持ったとき、あの暗さなら私の光は十分でした。でも昼間の陽光の下では、私の光は弱くなる。だから、昼間でも通用する光を出せるようになりたかった」
「それが、ずっと言っていた目標か」
「はい。あなたが消えるかもしれないって知ったときに決めました。あなたを守るための光を、いつでも出せるようになる。それが目標でした」
(俺を守るための光)
(フィオナの修行の目標は、俺を守ることだった)
「……今日、間に合わなかった」
「間に合わなかった。でも、もう少しだった。あと少し」
「間に合わなくても、お前の光は役に立った。最初に灯したとき、男たちの動きが一瞬止まった。あの一瞬がなければ、ガルドの対応が遅れていた」
「……一瞬だけですよ」
「一瞬で十分だ。営業でも、最初の一瞬で相手の注意を引ければ、その後の展開が変わる」
「また営業ですか」
「また営業だ」
フィオナは少しだけ笑った。震えが止まっていた。
「……ランベルトさん。王都に着いたら、もっと修行します」
「ああ」
「次は間に合わせます」
「次がないのが一番だが」
「ないほうがいいです。でも、あったときのために」
(あったときのために。フィオナは「次の危機」を想定して修行する。いつの間にか、フィオナは「守られる側」から「守る側」に移行し始めている)
*
少し離れた場所で、ファインと麻衣が座っていた。
令嬢と義兄の距離。1メートルほど。近くもなく、遠くもない。
麻衣の声が聞こえた。令嬢の声だった。
「ファイン兄様。怪我はありませんか」
「ない。お前こそ、腕は」
「少し痣ができただけです」
「見せてみろ」
「……大丈夫です」
「見せろと言っている」
麻衣が腕を差し出した。ファインが確認した。
「……痣が深い。薬を塗る」
「自分でやります」
「黙って出せ」
ファインが懐から小瓶を出した。薬草の軟膏。魔法師は薬草にも詳しい。
麻衣の腕に、ファインが薬を塗った。
その間、2人とも無言だった。
俺は見ていた。横腹が痛いのを忘れるくらい、穏やかな光景だった。
(ファインは麻衣の腕に薬を塗っている。義兄が妹の傷を手当てしている。当たり前のことだ。しかし、麻衣にとっては「推しが自分の腕に触れている」ということでもある)
(麻衣の耳が赤い。令嬢の仮面の下で、29歳のオタクが死んでいる)
フィオナが小声で言った。
「リリア様、耳赤いですね」
「見ないでくれ」
「見えます。私の目はいいので」
*
休息が終わった。
馬に乗った。横腹が痛んだが、我慢した。
フィオナが後ろに座った。いつもより少しだけ、強く腰を掴んだ。
「……強くないか」
「強いです。わざとです。落ちたら困るので」
「俺が落ちるのか」
「傷があるのに無理してるでしょう。落ちそうになったら、私が支えます」
(支える。後ろに座った人間が、前の人間を支える。物理的には不可能に近い。しかし、フィオナの手の力は、確かに支えになっていた)
北に向かった。
午後の日差しが街道を照らしていた。
BGMは止んでいた。戦闘が終わったからだ。
代わりに、風の音が聞こえた。穏やかな風。
(王都まで、あと半日)




