第六十話「台所の新人」
朝。台所に3人立った。
俺、フィオナ、麻衣。
「今日はフィオナがリリアに料理を教える。俺は監督だ」
「監督って何をするんですか」
「見ている」
「見てるだけですか」
「見ているのが一番難しい。営業でも、新人教育は見守りが9割だ」
「出た。営業」
麻衣が小声で言った。「また営業だよ」
フィオナが笑った。「慣れますよ。この人、1日に5回は営業って言います」
「5回は言わない」
「言います。数えてます」
(数えているのか。ありがとうだけでなく、営業の回数まで)
*
本日の献立。根菜の汁物。葉野菜の炒め物。漬物。
「まず、汁物の出汁から」
フィオナが干し肉を鍋に入れた。水を注いだ。
「これで弱火にして、30分待ちます」
「30分」
「はい。待つのが大事です。ランベルトさんが言ってました。『出汁は待つ仕事だ。営業と同じで、急かすと逃げる』って」
「それ、ランベルト殿の言葉ですか?」
「はい」
「……出汁が逃げるの。営業と同じで」
「はい」
麻衣が俺を見た。
「ランベルト殿。出汁を営業に例えて、この世界の方に伝わるのですか?」
「フィオナには伝わっている」
「フィオナ様が特殊なんじゃない?」
(特殊。フィオナが特殊なのは否定しない)
出汁が取れるまでの間に、葉野菜を切った。麻衣の担当だ。
「リリア様。包丁はこう持ちます。右手でしっかり。左手は猫の手にして」
「猫の手」
「指を丸めて、爪を引っ込めるんです。こう」
フィオナが手本を見せた。麻衣が真似た。
「こう?」
「もう少し丸めて。……そうです。上手です」
「前世でパスタ茹でてただけの人間にしては上手でしょう」
「パスタって何ですか」
「……別の世界の食べ物です」
「別の世界にも食べ物があるんですね」
「あります。めちゃくちゃあります」
(麻衣がフィオナの前で「別の世界」の話をしている。フィオナは深く聞かない。受け入れている。「別の世界の話」をする人たちが、この台所には2人いる。フィオナはそれを知っている。知った上で、猫の手を教えている)
麻衣が葉野菜を切った。
幅がばらばらだった。
「……リリア様。もう少し均一に」
「均一って言われても。感覚が」
「感覚が3ミリじゃないからです。昨日も言いましたけど」
「3ミリは無理。5ミリでいい?」
「5ミリだと火の通りが変わります」
「……フィオナ様、厳しくない?」
「ランベルトさんよりは優しいです」
「ランベルト殿より厳しい方がこの台所にいるのですか」
「います」
俺は壁にもたれて見ていた。監督だ。見ているのが仕事だ。
(麻衣がフィオナに料理を教わっている。妹が、フィオナに。この光景は、半年前には想像しなかった)
(フリーランスデザイナーが、乙女ゲームのヒロインに包丁の持ち方を習っている。言語化すると状況がおかしい)
*
炒め物に取りかかった。
「火加減は中火です。強すぎると焦げます」
「中火。これくらい?」
「もう少し弱めて。……はい。そこ」
麻衣が野菜を鍋に入れた。じゅっと音がした。
「混ぜます。木べらで」
「どのくらいの頻度で」
「感覚です。焦げそうなとき混ぜれば大丈夫です」
「感覚。フィオナ様、意外と感覚派ですね」
「最初はランベルトさんに秒数を教わりました。でも、途中から感覚のほうが正確になりました」
「秒数を教えるランベルト殿と、感覚で超えるフィオナ様」
「はい。たぶん、理屈で入って感覚に移行するのが、一番上達が早いんだと思います」
(フィオナが料理の教育論を語っている。半年前は包丁も持てなかった人間が)
炒め物が完成した。味見をした。
「……塩が足りない」
「足します」
「ちょっと待て。リリア、味見してみろ」
麻衣がすくって味見した。
「……十分じゃない?」
「お前の舌が濃い味に慣れているだけだ。前世のコンビニ弁当の後遺症だ」
「コンビニ弁当の後遺症って。ひどい」
「事実だ。この家の味は薄味基調だ」
フィオナが塩を少しだけ足した。
「これでどうですか」
俺が味見した。
「ちょうどいい」
「私もそう思います」
麻衣がもう一度味見した。
「……うん。確かに、さっきより美味しい。少しの差なのに」
「少しの差が大きい。営業も同じだ。提案書のフォントを1ポイント変えただけで契約が取れたことがある」
「それは営業の話をしたいだけでしょ」
「……否定はしない」
*
昼飯を5人分盛った。俺、フィオナ、麻衣、エマ、ガルド。
ガルドは食卓で少し居心地悪そうにしていた。騎士が没落貴族の食卓で食事をするのは、作法として微妙なのだろう。
「遠慮するな。量はある」
「……いただきます」
ガルドが汁物を一口飲んだ。
「……これは」
「根菜の出汁だ」
「出汁の取り方が……失礼ですが、どこで学ばれたのですか」
(クロードと同じ質問が来た。この質問、何回目だ)
「独学だ」
「独学で、この味を」
「ああ。暇だったもので」
フィオナが横で小さく笑った。「その回答、もう何回目ですか」
「……数えていない」
「数えてます。6回目です」
(独学の回答が6回目。ありがとうが10回。営業が1日5回。フィオナは何でも数える)
麻衣が炒め物を食べながら言った。
「ガルド殿。この炒め物は、私とフィオナ様が作りました」
「リリア様が。……これは驚きです」
「ランベルト殿の台所は教育的でして」
「……教育的」
ガルドの目が俺とフィオナと麻衣を見比べていた。没落貴族と、ヒロインと、令嬢が、台所で一緒に料理をしている状況を、処理しきれていない顔だった。
エマがニコニコしていた。いつもの席で。何も言わず。しかし、目が全てを見ていた。
*
午後。
麻衣と書斎で2人きりになった。
「明日、ファイン様が来る」
「ああ」
「準備は」
「……昨日の戦略会議の通り。政敵の情報を先に渡す。追及は棚上げにしてもらう。リリアの家出は『療養』として体裁を整える」
「ファイン様への答えは」
「『自分の中に変化があった。混乱して逃げた。嘘はない』。これで押す」
「……うん。たぶん、それが一番いい」
「お前は、ファインの前で普通にしていろ。令嬢のまま。変に取り繕うな。ファインは嘘を見抜く人間だ」
「知ってるよ。推しだもん」
「推しの前で緊張しすぎるなよ」
「無理。推しの前で緊張しない人間いないよ」
(推し。麻衣にとってファインは「推し」だ。物語のキャラクターとしての推し。しかし同時に、この世界では義兄だ。推しと義兄が同一人物。それは、麻衣にとって最も複雑な関係だ)
「ランベルト殿」
「何だ」
「明日、もしファイン様が『お前は本当にリリアか』って聞いてきたら」
「戦略通り答えろ」
「もしそれが通じなかったら」
「俺が出る」
「出てどうするの」
「営業する」
「……ランベルト殿は本当にそれしかないのですね」
「それしかない。しかし、それで今まで乗り切ってきた」
麻衣が少しだけ笑った。
「……うん。確かに。クロード先輩も、あの男たちも、ランベルト殿の営業で乗り切りました」
「ファインも乗り切る」
「根拠は」
「ない。兄だからだ」
「……また兄」
「兄だ」
「……うん。兄だね」
*
夜。書斎で天井を見た。
明日、ファインが来る。
(整理しよう)
(ファインが来る。麻衣の追及が来る。政敵の情報を渡す。体裁を整える。麻衣を守る)
(同時に、俺がランベルト・ヴェルツとして表舞台に出ることになる。ルーシェ家の令嬢の保護者として。名前が知られる。物語の中心に近づく)
(消失のリスクが上がる)
(しかし、妹が危ないのに、消失のリスクを理由に逃げるわけにはいかない)
窓の外を見た。
離れの明かりが灯っていた。フィオナが起きている。
隣の客室にも明かりがあった。麻衣が起きている。
(2人とも起きている。眠れないのだろう。俺も眠れない)
(しかし、ここにいる。農村にいる。畑がある。大根がある。台所がある)
(帰る場所がある)
(だから、明日がどうなっても、帰れる場所がある)
目を閉じた。




