第五十九話「帰ってきた場所」
農村が見えた。
丘の上から、畑と屋敷と離れが見えた。煙突から煙が出ている。エマが飯を作っているのだろう。
「……あれがあなたの家ですか」
麻衣が令嬢の声で言った。ガルドの騎士たちが近くにいるからだ。
「ああ。ヴェルツ家の農村別邸だ」
「思っていたよりも……静かなところですね」
「静かだ。大根しかない」
「大根」
「ああ。大根しかない」
フィオナが後ろから口を挟んだ。
「嘘ですよ。大根以外もありますよ。根菜と、葉野菜と、あと……まあ、大根が一番多いですけど」
(フォローになっていない)
*
屋敷の前で馬を降りた。
玄関が開いた。
エマが出てきた。
ニコニコしていた。
出発前と同じニコニコだった。変わっていなかった。
「おかえりなさいませ、坊ちゃま」
「……ただいま」
「フィオナ様も。おかえりなさいませ」
「ただいまです、エマさん」
エマの目が、麻衣に移った。
ニコニコが、ほんの一瞬だけ深くなった。
「こちらは」
「リリア・ルーシェ殿。事情があって、しばらくうちで預かる」
「……左様でございますか。リリア様、ようこそお越しくださいました」
「お世話になります。エマ様」
麻衣は完璧な令嬢のお辞儀をした。
エマはニコニコのまま麻衣を見ていた。何かを見ていた。
(エマは縁糸が見える。麻衣と俺の間の銀色の糸も見えているはずだ。兄妹の糸。説明していないのに、エマは全部わかっている)
「お部屋をご用意いたします。少々お待ちくださいませ」
「ありがとうございます」
エマが屋敷に入った。ニコニコのまま。
ガルドが3人の騎士と共に屋敷の外周を確認しに行った。護衛配置の確認だ。
3人きりになった。
麻衣が令嬢の仮面を少しだけ外した。
「……ランベルト殿」
「何だ」
「あのおばあちゃん、全部見えてるよね」
「ああ。全部見えている」
「怖い」
「怖くない。エマさんは味方だ」
「味方でも怖い。ニコニコしすぎ」
フィオナが笑った。
「リリア様、それ、みんな最初に思うんですよ」
*
畑を確認した。
大根は元気だった。
エマが水をやり、使用人のおじさんが草を取り、何事もなかったかのように畑は維持されていた。
(エマに任せておけば大丈夫だと思っていた。思った通りだった)
大根の前にしゃがんだ。葉を触った。
(……留守にしたのは数日だ。しかし、畑に戻ってきたとき、肩の力が抜けた。数日分ではない重さが、降りた)
フィオナが横にしゃがんだ。
「元気でしたね、大根」
「ああ」
「ちょっと葉が伸びましたね。3日見ないだけで変わりますね」
「成長期だからな」
麻衣が2人の後ろに立っていた。
「……あなたたち、大根にしゃがんで何してるの」
「確認だ」
「大根の確認を、2人でしゃがんでやる必要あるの」
「ある」
「ない」
フィオナと同時に答えた。俺が「ある」で、フィオナが「ない」だった。
「……どっち」
「あります。確認は2人でやったほうが正確です。……嘘です。別に1人でもできます。でも2人のほうがいいんです」
麻衣が小さく笑った。初めてだった。農村に来てから初めて、令嬢でも妹でもない、ただの笑いだった。
「……ランベルト殿。この場所、いいですね」
「ああ」
「大根しかないけど」
「大根しかない」
「でも、いい」
*
昼飯を作った。
台所に3人立った。俺とフィオナと麻衣。
これは初めてだった。
「リリア。お前、料理できるのか」
「……リリアとしての記憶はある。令嬢だから、基本的にはしない。でも、前世では自炊してた」
「フリーランスの自炊レベルか」
「カップ麺とコンビニ弁当がメインだったけど」
「それは自炊ではない」
「たまにパスタ茹でてた」
「茹でるだけは料理ではない」
フィオナが横で聞いていた。
「リリア様。私、最初は包丁も持てなかったですよ。ランベルトさんに教わって、今は野菜くらい切れます」
「……フィオナ様が切れるなら、私も切れるはずだよね」
「はず、ですけど……令嬢の手で包丁は大丈夫ですか」
「大丈夫。中身はフリーランスだから。手は強い。デザインペンを1日12時間握ってた手だよ」
(デザインペン。前世の話をフィオナの前でしている。しかし、フィオナはゲームの文脈を知らない。「別の世界の話」として流れている)
麻衣に根菜を渡した。
「切れ。薄く」
「薄くってどのくらい」
「3ミリ」
「3ミリ……。感覚でやっていい?」
「感覚が3ミリなら」
麻衣が根菜を切り始めた。
5ミリだった。
「厚い」
「厚い? これで?」
「厚い。フィオナ、見本を」
フィオナが根菜を切った。3ミリ。正確だった。
「……フィオナ様、上手ですね」
「毎日やってますから」
「毎日」
「毎日です。ランベルトさんと一緒に」
麻衣が俺をちらっと見た。
(見るな。その目で見るな。兄の料理教室を観察するな)
「もう一回やる。見てろ」
麻衣がもう一度切った。4ミリ。
「まだ厚い」
「1ミリの差でしょ」
「1ミリは大きい。煮込み時間が変わる」
「……ランベルト殿、料理に厳しくないですか?」
「厳しくない。基準が正確なだけだ」
フィオナが笑っていた。
「リリア様。最初はみんなそう言うんですよ。でも、この人の料理を食べると、なぜ3ミリなのかわかります」
「わかるの?」
「わかります。食べたらわかります」
煮込みを作った。根菜と干し肉の煮込み。農村の味。南方の香辛料を少しだけ加えた。
4人分を盛った。俺、フィオナ、麻衣、エマ。
食卓に4つの器が並んだ。
(出発前にも4つだった。あのときは俺、フィオナ、エマ、使用人のおじさん。今は俺、フィオナ、麻衣、エマ。メンバーが変わったが、数は同じだ)
麻衣が一口食べた。
「……」
「どうだ」
「……美味しい。びっくりするくらい美味しい。何これ」
「根菜の煮込みだ。フィオナの味付けだ」
「フィオナ様が味付け……。……なるほど。この味は、確かに3ミリじゃないと出ない」
「わかったか」
「わかった。悔しいけど」
フィオナが笑った。
「リリア様、明日は一緒に味付けしましょうか」
「……うん。教えて」
「私も教わった側なんですけどね」
エマがニコニコしていた。4人の食卓を見ていた。
「にぎやかになりましたね」
「ああ。にぎやかだ」
「お父様もお喜びになるでしょう」
「……そうか」
「はい。お父様は、この食卓に人が増えることを、いつも望んでいらっしゃいました」
*
午後、ガルドがファインへの伝令を出した。合流地点の変更。ヴェルツ家の農村で待つ、と。
「ファイン殿は明日の昼頃には到着するでしょう」
「明日の昼」
「はい」
(明日。ファインが来る。麻衣にとって最大の試練だ)
夕方、丘に出た。フィオナと2人で。修行の付き添い。
いつもの場所だった。いつもの丘だった。
フィオナが光を灯した。
光は、出発前よりも強くなっていた。持続時間も長い。旅の間にも修行を続けていた成果だ。
「……伸びたな」
「はい」
「目標に近づいているか」
「少しだけ」
「目標は何だ」
「……まだ秘密です。でも、もうちょっとです」
修行が終わった。丘を下りた。
夕焼けが畑を照らしていた。大根の葉がオレンジ色に染まっていた。
「ランベルトさん」
「何だ」
「帰ってきましたね」
「ああ」
「ここ、やっぱりいいですね」
「ああ」
「出発する前に、言いかけて止めたこと、覚えてますか」
(あのとき。出発の前日。丘を下りながら、フィオナが何か言いかけて止めた)
「……ああ。覚えている。お前が何か言いかけて止めた」
「今なら言えます」
「何だ」
「ここが、私の帰る場所になってました」
(帰る場所)
フィオナは真っ直ぐ前を見ていた。畑を。大根を。屋敷を。
(フィオナにとって、ここが「帰る場所」になっていた。いつからだ。いつの間にだ)
「……ありがとう」
「10回目です」
「10回目か」
「はい。やっと2桁ですね」
「……ああ」
(10回目。カウントが2桁に乗った。しょうもない記録だ。しかし、フィオナがこの数を覚え続けていることの意味は、しょうもなくはない)




