第五十話「書けなかった手紙」
手紙を書こうとした。
11通目。麻衣への返信。
「麻衣へ。分析を受け取った。ゲーム削除と消失が同じ現象であるという仮説を、俺も支持する」
そこまで書いて、筆が止まった。
次に書くべきことはわかっていた。麻衣が手紙の最後に書いた不穏な動き。ファインの追及。ルーシェ家周辺の異変。
書くべきことは、「大丈夫か」だ。
しかし、その先がある。
「大丈夫でなかったら、俺はどうする」
(王都に行く。物語の舞台に。逃げてきた場所に、戻る)
その言葉を書けなかった。
紙を置いた。明日書こう。
*
朝の畑は穏やかだった。
大根が育っていた。クロードとの取引用に品質管理をしている分は、あと2週間で収穫だ。
フィオナが横で水をやっていた。
「今日は何しますか」
「畑の手入れ。昼飯を作る。午後はお前の修行を見る」
「いつも通りですね」
「いつも通りだ」
(いつも通り。この言葉が、これほど重く感じたことはない)
水をやった。大根は黙っていた。
「ランベルトさん」
「何だ」
「……なんか今日、静かですね。いつもより」
「いつも静かだろう」
「いつもの静かと違います。考えごとの静かです」
(フィオナは俺の沈黙の質を区別している)
「……手紙を書こうとして、書けなかった」
「リリア様に?」
「ああ」
「何が書けなかったんですか」
「……聞くべきことがある。しかし、聞いてしまうと、動かなければならなくなる」
「動く。……どこかに行くってことですか」
「……可能性の話だ」
フィオナは水桶を置いた。
「行くなら、言ってくださいね。先に」
「……ああ」
「黙って行ったら、怒りますよ」
「……行かない。まだ」
*
昼飯を作った。
根菜の煮込み。干し肉の炒め物。漬物。3品。
いつもの味だ。フィオナと2人で作った味だ。
エマが台所に来た。
「坊ちゃま。良い香りですね」
「エマさんも食べるか」
「いただきます」
4人分を盛った。俺、フィオナ、エマ、使用人のおじさん。
食卓に4つの器が並んだ。
(1つから始まった。2つになった。3つになった。今は4つ)
エマがニコニコして食べた。
「お父様のお味に、少し似てきましたね」
「父の味」
「はい。お父様も、誰かのために作るとき、こういう味をお出しになりました。温かくて、少しだけ塩が強い」
「……塩が強いか」
「強いのが良いのです。汗をかいた後に食べると、ちょうどいい」
フィオナが言った。
「確かに、ランベルトさんの料理、修行の後だと最高なんですよ。普段はちょっとしょっぱいなって思うときあるんですけど」
「……しょっぱいと思っていたのか」
「ちょっとだけ。でも修行の後にちょうどよくなるから、結果オーライです」
(結果オーライ)
(しょっぱい料理が、フィオナの修行後の体にちょうど合う。偶然か。それとも、無意識にフィオナの生活に合わせて味を調整していたのか)
エマがニコニコしていた。何かを見ていた。
*
午後。丘でフィオナの修行を見た。
光は安定していた。持続時間が前より長い。
(伸びている。確実に伸びている。蔵の地下で光を持ったとき、もっと長く持ちたいと思ったのだろう。それが目標だったのか)
修行が終わった。丘を下りた。
夕方の空が広かった。
「ランベルトさん」
「何だ」
「ここ、いい場所ですね」
「ああ」
「ここに来てから、もうだいぶ経ちましたね」
「ああ」
「私、ここが……」
フィオナが何かを言いかけて、止めた。
「何だ」
「……なんでもないです。帰りましょう」
(言いかけて止めた。フィオナが言葉を飲み込むのは珍しい)
帰り道を歩いた。距離は30センチ。
*
夕飯を作った。簡素に。汁物と漬物だけ。
フィオナは「今日はあっさりですね」と言って、文句は言わなかった。
食器を洗った。2枚。
フィオナが離れに帰った。明かりが灯った。
書斎に戻った。
手紙の続きを書こうとした。
「麻衣へ。ルーシェ家周辺の動きについて、詳細を」
そこまで書いて、また止まった。
(詳細を聞いてどうする。聞いて、危険だとわかったら。俺は)
筆を置いた。
窓の外を見た。
離れの明かりが灯っている。
畑に大根が育っている。
村は静かだ。
(この場所が、俺の逃げた先だった。ここで大根を育てて、静かに生きるはずだった)
(しかし)
外で音がした。
馬の蹄の音。夜に馬が来ることは、この村ではない。
窓から見た。
門の前に馬が止まった。乗っていたのは王都の制服を着た伝令だった。使用人が応対している。
(王都からの伝令。夜に。通常の手紙ではない)
廊下に出た。使用人が走ってきた。
「ヴェルツ様。王都から急使です。ルーシェ家の封書です」
封書を受け取った。
ルーシェ家の家紋。しかし、麻衣の筆跡ではない。
ファイン・ルーシェの筆跡だった。
(ファインが、俺に直接手紙を送ってきた)
封を切った。
1行だけだった。
「リリアがいなくなった。心当たりがあるなら教えろ」
手が止まった。
(リリアがいなくなった)
(麻衣がいなくなった)
離れの明かりが見えた。フィオナはまだ起きている。
書けなかった手紙が、机の上に残っていた。
書く必要がなくなった。




