第四十七話「もう一つの記録」
翌朝、蔵に降りた。フィオナが横にいた。
「昨日の続きですね」
「ああ」
「今日も光、持ちます」
石段を下りた。12段。
地下室の箱は、昨日のままだった。蓋を開けた。
昨日読んだ5つの記録を取り出した。その下に、もう1枚の紙があった。箱の底に貼り付くように置かれていた。
(見落としていたのか。いや、5つの記録が上に重ねられていて見えなかった)
紙を取り出した。薄い。古い。5つの記録よりもさらに古い紙だった。
文字が違う。父の字ではない。もっと古い筆跡で、文体も異なる。
「リヒト・ヴェルツの日誌。王暦284年」
(リヒト・ヴェルツ。昨日の名簿にあった名前だ。4代前)
*
日誌は短かった。数ページ分。しかし、内容は重かった。
「私の名前が、人々の記憶から消え始めている」
「最初に気づいたのは、村の商人だった。3年取引を続けている相手が、私の名前を忘れた。『ヴェルツ様、ですよね。お名前は……えっと』」
「次に、使用人が2人、私の顔を見て一瞬戸惑った。すぐに思い出したが、あの戸惑いは本物だった」
「妻は覚えている。いつも通り私の名前を呼ぶ。しかし、町に行くと知人が私を素通りする」
(名前が消え始める。顔が曖昧になる。しかし、妻は覚えている)
「私は縁の魔法の書を読んだ。答えがあった。『糸が太い者は、世界のバランスに干渉する。干渉が大きくなると、世界は修正する。修正とは、存在を薄くすることだ』」
「しかし、薄くならない部分がある。妻との糸だ。妻が私を覚えている限り、私は消えない」
(妻が覚えている限り、消えない)
「もし妻が先に逝ったら、私は完全に消えるだろう。そのとき、この日誌も消えるかもしれない。しかし、もし消えずに残ったなら」
「この日誌を読んでいるのは、私と同じ体質を持つヴェルツ家の者だろう」
「一つだけ伝える。消失は怖い。しかし、糸がある限り、完全には消えない。糸を持っていてくれる相手を、手放すな」
日誌はそこで終わっていた。
フィオナが光を持ったまま、黙っていた。
「……読めました?」
「ああ」
「何て書いてあったんですか」
「先祖の日記だ。消失を経験した人の」
「その人は、消えたんですか」
「……わからない。日記はここで終わっている。名簿には名前が残っていた。しかし、薄くなっていた」
「じゃあ、完全には消えなかったんですね」
「……たぶん」
「奥さんが覚えていたから?」
(フィオナに日記の中身を話していないのに、核心を突いた)
「……お前は、なぜそう思った」
「昨日読んだ記録に書いてあったでしょう。強い糸があれば遅くなるって。覚えている人がいる限り、消えないんだと思います」
(フィオナは記録を読めない。しかし、昨日俺が口頭で伝えた内容を、正確に覚えている)
「……ああ。そうだ」
「じゃあ、あなたも消えません。覚えている人、いますから」
「誰だ」
「私です。あとエマさん。あとリリア様。あとレオン殿下。シャール。クロード先輩」
「……多いな」
「多いです。だから消えません」
フィオナの声は、昨日より明るかった。決意が確信に変わっている。
(フィオナは怖くないのか。俺が消えるかもしれないと知って)
(いや。怖いからこそ、「消えない」と言い切っているのだろう。怖さを認めた上で、否定している)
*
蔵を出た。昼飯を作った。
フィオナが具材を切った。俺が味を調えた。いつもの手順だ。
エマが台所に来た。
「坊ちゃま。蔵の記録は、お読みになりましたか」
「全部読んだ。リヒトの日誌も」
「……左様でございますか」
エマのニコニコが、少しだけ深くなった。安堵だった。
「お父様は、あの記録を坊ちゃまに読んでほしいと仰っていました。しかし同時に、読まずに済むなら、それが一番良いとも仰っていました」
「読まずに済まなかった」
「はい。坊ちゃまが問い始めてしまいましたから」
「エマさん。一つ聞いていいか」
「何でございましょう」
「俺に消失の兆候は見えるか」
エマが俺をまっすぐ見た。長い時間、見ていた。
それからニコニコした。
「坊ちゃまの糸は、日に日に太くなっております。お父様のときよりも遥かに太い」
「それは消失のリスクが高いということではないのか」
「はい。しかし、同時に、消失を止める力も強いということでございます」
「……どういうことだ」
「糸が太いということは、坊ちゃまのことを強く覚えている方がいらっしゃるということです。その方が覚えている限り、坊ちゃまは消えません」
エマはフィオナをちらりと見た。
フィオナは根菜を切りながら、こちらを見ていなかった。見ていないふりをしていた。耳は聞いていた。包丁の速度が少し落ちていた。
「……ありがとう、エマさん」
「いいえ。お父様のお気持ちをお伝えできて、私も安心しました」
エマはニコニコのまま台所を出ていった。
*
午後、書斎で手紙を書いた。
10通目。
内容を整理した。
「麻衣へ。ヴェルツ家の蔵に封じられた記録を発見した。以下を報告する」
「一、ヴェルツ家には『消失』という現象がある。糸が強すぎる者が、世界から忘れられていく」
「二、消失した者の名簿が存在する。名前は薄くなっている。世界が忘れようとしている」
「三、消失の条件は『物語の中心に近づいた者』。この表現は父の言葉だ」
「四、4代前のリヒト・ヴェルツが消失を経験した日記が残っていた。名前を忘れられ始めたが、妻が覚えていたため完全には消えなかった」
「五、父の推論。ヴェルツ家の者は、誰かと深く結ばれるほど存在が消えやすくなる。しかし、強い糸があれば消失は止められる」
「質問。お前はゲームの知識を持っている。ゲームの中で『データが削除される』ことと、この世界で『存在が消失する』ことは、同じ現象の別の見え方ではないか」
(この質問が核心だ。ゲームの中と外。データの削除と世界の消失。同じことを、違う側から見ているだけではないか)
「それから、もう一つ」
「俺の糸は太いらしい。エマが言った。日に日に太くなっている、と」
「お前の分析を聞かせてくれ」
4つ目の質問は、今回も書かなかった。「俺は消えるのか」は、自分で考えるべきだと思った。
封をした。
手紙を出しに行った。フィオナが畑にいた。
「手紙ですか」
「ああ」
「リリア様に?」
「ああ」
「記録のこと、全部書いたんですか」
「……ああ」
「私より先に、リリア様に話したんじゃないですよね」
「……記録の中身は、昨日と今日、全部お前に話した」
「話しました。でも、分析はリリア様に聞くんでしょう」
「……お前にはできない分析だ」
「わかってますよ。でも、返事が来たら私にも教えてくださいね」
「……ああ。約束する」
「約束、増えましたね」
「増えた」
「全部覚えてますよ」
「……ああ」
フィオナは畑に戻った。
大根に水をやっていた。
(手紙を出した。返事は数日後だろう)
(その間、俺は大根に水をやり、飯を作り、丘で光を見る)
(日常は変わらない。しかし、日常の意味が変わった)
(俺はいま、消えるかもしれない存在として、日常を過ごしている)




