第四十六話「消された名前」
朝、蔵に降りた。フィオナが横にいた。約束通り、迎えに来た。
手のひらに光を灯して、石段を十二段下りた。地下の部屋は昨日と同じ。机の上に箱。蓋に「これを読む者へ」。
箱を開けた。中身は書類だった。古い紙が何十枚も、丁寧に重ねられている。虫食いはない。一番上に、父の字で目録があった。
「記録一覧。一、ヴェルツ家の起源と縁の魔法。二、縁糸成長体質の歴史。三、消された者たちの名簿。四、消失の条件と法則。五、私の推論」
「全部読むんですか」
「ああ。一つずつ」
「じゃあ私、光を持ってます。読みやすい角度にします」
(読みやすい角度、ときた。……この部屋で一番落ち着いているのは、フィオナかもしれない)
フィオナが光の位置を変えた。紙の上に、柔らかい光が落ちた。
*
一つ目。「ヴェルツ家の起源と縁の魔法」。
大半は書斎の本と同じだった。だが、本になかった一節があった。
「ヴェルツ家の縁糸成長体質は、祝福であると同時に、呪いでもあった。糸が太く育つということは、絆が深まるということだ。しかし、その絆が強すぎるとき、世界はバランスを保とうとする」
「一つの糸が太くなりすぎると、他の糸が細くなる。一人の者に縁が集中すると、周囲の者の縁が希薄になる。ヴェルツ家の者は糸が三倍の速さ・三倍の太さで育つ。それゆえ、誰かと深く結ばれると、周囲の人間関係のバランスが崩れる」
「……何が書いてあったんですか」
「ヴェルツ家の糸が太くなると、周囲のバランスが崩れるらしい」
「悪い影響ですか」
「わからない。続きを読む」
*
二つ目。「縁糸成長体質の歴史」。
歴代当主と配偶者の記録。誰と結ばれ、糸の色と太さがどうだったか。全員が太い金色で結ばれていた。
だが七代前から、名前の横に小さな丸印がついていた。意味は「消失」。
「ヴェルツ家の歴史の中で、何人かが『世界から忘れられた』。名前を失い、顔を失い、記録から消えた。彼らは死んだのではない。存在が、薄くなった。消失した者に共通するのは、ヴェルツ家の中でも特に強い糸を持っていたことだ」
エマの言った「忘れられる者」。帳簿の空白。全部、これだ。
「糸が強すぎた者が、消える」
「……ランベルトさん?」
「……糸が強すぎると消える、と書いてある」
「あなたの糸も、強いんですか」
「俺には見えない。だが、エマもリリアも『太い』と言った」
「だったら、あなたも消えるかもしれないってことですか」
「……そう書いてある」
フィオナの光が、少しだけ揺れた。
「……続き、読んでください」
声が、硬かった。
*
三つ目。「消された者たちの名簿」。
名前が並んでいた。だが大半は読めなかった。かすれているのではない。文字そのものが薄くなっている。「忘れられる」とは、記録の中でもこうなるのか。
かろうじて読めた名前が三つ。リヒト・ヴェルツ、四代前。エルザ・ヴェルツ、六代前。もう一つは、最初の一文字だけ。「ラ」。八代前。
名簿の横に、父の注釈。
「この名簿の名前は、年々薄くなっている。私が最初に読んだ三十年前は、もう少し鮮明だった。放置すれば、全ての名前が消える。消された者たちの存在を、世界が忘れようとしている」
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四つ目。「消失の条件と法則」。父が独自に分析した記録だった。
「一、消失は『糸が太い者』に起こる。ただし、太い糸の持ち主全員が消えるわけではない」
「二、消失した者に共通するのは、『物語の中心に近づいた者』である。抽象的だが、他に言葉が見つからない」
父はこの世界がゲームだとは知らない。それでも「物語の中心」という言葉を使っている。
「三、消失は段階的に進む。まず周囲が名前を思い出しにくくなり、次に顔が曖昧になり、最後に記録からも消える」
「四、消失を止める方法は確認できていない。ただし、強い糸で結ばれた相手がいる場合、消失の速度は遅くなるという記録がある」
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五つ目。「私の推論」。
「ヴェルツ家の者は強い糸を持つ。強い糸は世界のバランスを崩す。崩れると、世界はそれを修正しようとする。修正の方法は、『糸が強すぎる者を消す』こと。つまりヴェルツ家の者は、誰かと深く結ばれるほど、世界から消えやすくなる」
紙を置いた。フィオナの光が揺れていた。
「何て書いてあったんですか。最後の」
「……ヴェルツ家の人間は、誰かと深く結ばれるほど、存在が消えやすくなる」
長い沈黙が落ちた。フィオナの光だけが、部屋を照らしていた。
「それ、あなたに当てはまるんですか」
「……当てはまるかもしれない。太い糸があって、深く結ばれていて、だから消える」
フィオナが紙を見た。読めないだろう。古い文字だ。それでも、見ていた。
「八回目。……でも、数えるのはあとにします。今は、これを読んで。ランベルトさん。消させませんよ」
静かな声だった。怒りでも悲しみでもない。決意だった。
「お父さんは、止める方法はわからないけど、強い糸があれば遅くなるって書いたんですよね。じゃあ、糸を強くすればいいんじゃないですか。あなたが消えないくらい強い糸で繋がってれば」
「そんなに単純な話じゃ――」
「単純でいいです。難しいことはあなたが考えてください。私は、あなたが消えないようにするだけです」
フィオナは立ち上がった。
「帰りましょう。昼飯、まだですよ」
(世界の法則の話の直後に、昼飯。……フィオナの優先順位は、いつも正しい)
*
石段を上がり、蔵を出た。日差しが眩しい。フィオナは台所に直行した。
俺は入口で、少し動けなかった。
ゲームの文脈も、ヴェルツ家の体質の全容も知らないフィオナが、「消させない」と言った。難しい設定も世界のバランスも関係なく、ただ「消えるかもしれない」という事実に、「消させない」と答えた。強い。
台所に行った。フィオナが鍋をかき混ぜていた。隣に立つ。距離は三十センチもない。
頭の中で、父の記録が一つの形に組み上がっていく。深く結ばれるほど、消える。だが、強い糸があれば、消失は遅くなる。
――矛盾している。いや、矛盾ではない。残酷なだけだ。
俺がフィオナから離れれば、糸は細る。細い糸では、消失を遅らせられない。逃げれば逃げるほど、消えるのが早くなる。逆に、繋がれば繋がるほど消えやすくなるが、その太い糸だけが、消失を食い止める。
逃げても消える。繋がっても消える。だが、繋がったときだけ、消えるのを遅らせる手がある。
当て馬として、退場フラグから逃げ続けてきた。逃げることが、唯一の生存戦略だった。その俺の前に、生まれて初めて、「逃げてはいけない」理由が、はっきりと立っていた。
「ランベルトさん、火、強すぎませんか」
「……ちょうどいい。出汁が立つ」
鍋に向き直った。逃げないと決めるのが先か、糸の正体を暴くのが先か。順番は、まだ決められない。だが、逃げるという選択肢が消えたことだけは、もう動かなかった。




