第四十五話「蔵の鍵」
クロードとの商談の翌日、屋敷の整理を始めた。
理由は単純だ。クロードが大根の取引を提案してきた。取引をするなら、出荷の記録を整理する必要がある。出荷の記録は蔵にある。
(営業時代、契約前の書類整理は基本中の基本だった。社内のファイルが整理されていないと、見積もりすら出せない)
蔵は屋敷の裏手にあった。石造りの小さな建物。普段は農具と保存食を入れている。
鍵を開けて中に入った。
棚が並んでいた。農具。種の袋。干し肉の保存箱。季節の道具。
奥の棚に、出荷の帳簿が積まれていた。10年分ほど。ほこりをかぶっている。
帳簿を引き出した。下の段を確認した。
そこで、手が止まった。
棚の奥に、扉があった。
蔵の中に、もう一つの扉。石壁に嵌め込まれた木製の扉だ。
(……こんな扉、あったか?)
農具を移動させて、扉の前に立った。
小さな扉だった。高さは俺の胸ほど。腰をかがめないと入れない。
取手を引いた。動かなかった。鍵がかかっている。
鍵穴を見た。普通の鍵穴ではなかった。形が複雑で、細かい彫刻が施されている。
(……これは、ただの保管庫の鍵ではない)
彫刻を指でなぞった。模様があった。蔓のような、糸のような曲線が絡み合っている。
(糸のような模様)
*
エマに聞いた。
台所でエマがお茶を入れていた。ニコニコしていた。
「エマさん。蔵の奥に扉がある。知っているか」
エマのニコニコが、ほんの一瞬だけ止まった。
前にもあった。帳簿の空白を聞いたとき。同じ反応だ。
「……ご存知でしたか」
「今日、蔵を整理していて見つけた。鍵がかかっている」
「はい。あの扉は、先代のお父様が封じたものでございます」
「封じた」
「はい。『ここは開けるな』と仰いました。私に鍵を預けて、『坊ちゃまが必要とするまで開けるな』と」
(坊ちゃまが必要とするまで)
「父はいつ、そう言った」
「坊ちゃまがお生まれになる前でございます」
「俺が生まれる前」
「はい。先代のお父様は……あの扉の奥にあるものを、とても大切にしておいででした。しかし同時に、怖れてもおいででした」
「怖れる」
「はい。『この中にあるものは、ヴェルツ家の全てだ。しかし、開ける時を間違えると、全てが壊れる』と」
(開ける時を間違えると、全てが壊れる)
「……今は、その時か」
エマは俺をまっすぐ見た。ニコニコの裏に、長い時間の重さがあった。
「坊ちゃま。先代のお父様は、もう一つ仰っていました」
「何を」
「『坊ちゃまが、自分が何者かを問い始めたら。そのときが、鍵を渡すときだ』と」
背筋が震えた。
「自分が何者か」
「はい。先代のお父様は、坊ちゃまがいつかその問いを持つことを、知っておいででした」
(父は知っていた。俺がこの問いにたどり着くことを。「忘れられる者」のことを。帳簿の空白のことを。全部、知っていた)
「鍵を」
「はい」
エマがエプロンのポケットに手を入れた。
小さな鍵が出てきた。金属の鍵。古い。しかし、錆びていない。丁寧に手入れされていた。
(エマは、ずっとこの鍵を持っていたのか。俺が問い始めるのを、待っていたのか)
「お父様の言葉を、もう一つだけお伝えしてもよろしいでしょうか」
「ああ」
「『怖がるな』」
(怖がるな)
(また。30話の本と同じ言葉だ)
「ありがとう、エマさん」
「いいえ。お父様からの、長い伝言でございました」
エマはニコニコの表情に戻った。
俺は鍵を握った。冷たかった。
*
昼飯を食べた。
フィオナと2人で台所に立った。昨日の南方香辛料を少しだけ使った。
「……今日のほうが、昨日より美味しいですね」
「分量を覚えたからだ」
「覚えるの早いですね。何でもすぐ覚えますよね」
「慣れだ」
「慣れ。……あなたの『慣れ』って、普通の人の10倍くらい早いですよ」
(10倍。フィオナにもそう見えているのか。クロードに指摘されたのと同じことを、フィオナは「すごい」と受け取り、クロードは「おかしい」と受け取った)
「ランベルトさん」
「何だ」
「今日、蔵で何か見つけました?」
「……なぜわかった」
「朝から顔が変わってるんですよ。いつもと違う目をしてる」
(目が変わっている。フィオナは俺の目の変化を読む)
「……蔵の奥に扉があった。鍵がかかっていた。エマさんが鍵を持っていた」
「扉? 蔵の中に?」
「ああ。父が封じた部屋らしい。『坊ちゃまが必要とするまで開けるな』と」
「……それ、開けるんですか」
「……開けるつもりだ」
「いつ」
「……今日の午後」
フィオナは箸を置いた。
「私も行っていいですか」
「……危険かもしれない」
「危険って何ですか。蔵の奥の部屋ですよね。怪物が出るわけじゃないでしょう」
(怪物は出ない。しかし、ヴェルツ家の秘密が出る可能性がある。俺が何者かの答えに近い何かが)
「……出てくるのは、たぶん書物だ。古い記録」
「じゃあ危険じゃないですよね。私も行きます」
「なぜだ」
「あなた一人で暗い部屋に入って、また暗い顔で戻ってくるの、見たくないです」
(暗い顔で戻ってくるのを見たくない)
「……わかった。一緒に来い」
*
午後。
蔵に入った。フィオナが後ろについてきた。
農具を移動させて、奥の扉の前に立った。
フィオナが扉を見た。
「……模様、ありますね。この扉」
「ああ。糸のような曲線だ」
「糸」
「ヴェルツ家の紋章に近い。縁の魔法に関係する模様だろう」
フィオナが模様を見つめた。少し長く。
「……なんか、この模様」
「何だ」
「光ってません? ほんの少しだけ」
俺は目を凝らした。見えなかった。模様は石に彫られた曲線にしか見えない。
「……俺には見えない」
「気のせいかもしれません。でも、なんか、うっすら金色に……」
(金色)
(フィオナに金色の光が見えている。俺には見えない)
(この扉の模様は、縁糸に関連するものなのか。フィオナの光の魔力が反応しているのか)
「……行くぞ」
鍵を鍵穴に入れた。
回した。
かちり、と音がした。
扉が、少しだけ開いた。
中から、古い紙と埃の匂いが漏れた。
暗い。
フィオナが手のひらに光を灯した。小さな光。修行で身につけた技だ。
光に照らされた扉の奥には、狭い石段があった。下に続いている。
(地下だ。ヴェルツ家の地下に、封じられた部屋がある)
「ランベルトさん」
「何だ」
「一緒に行きましょう」
フィオナが先に一歩、石段を踏んだ。
(先に行くのか)
俺も続いた。
石段は12段だった。
その先に、もう一つの扉があった。
しかし、今度は鍵がかかっていなかった。
押した。
開いた。
フィオナの光が、部屋を照らした。
小さな部屋だった。書斎の半分ほどの広さ。石壁。石床。湿気は少ない。保存に適した環境だ。
部屋の中央に、木の机があった。
机の上に、箱があった。
箱の蓋に、文字が彫られていた。
古い文字だった。読みにくい。しかし、読めた。
「ヴェルツ家の記録。これを読む者へ」
(これを読む者へ)
(また。父の本と同じ形式だ)
箱の横に、封書が置かれていた。封蝋。ヴェルツ家の家紋。
父の手紙だ。
フィオナが横に立っていた。光を持ったまま、静かに待っていた。
「……開けるぞ」
「はい」
封書を取った。
蝋を割った。
中から、1枚の紙が出てきた。
「ランベルトへ。この箱の中にあるものは、ヴェルツ家が代々守り続けてきた記録だ。縁の魔法の起源。ヴェルツ家の血が持つ意味。そして、この家系から『消された者たち』の名前」
(消された者たちの名前)
「全てを読め。そして、怖がるな」
「お前がこの記録にたどり着いたということは、お前はもう問い始めている。自分が何者なのかを」
「答えはこの箱の中にある。ただし、答えが出ても、お前はお前だ。それだけは忘れるな」
「父より」
手紙を折りたたんだ。
フィオナが横で、静かに光を持っていた。
「……ランベルトさん」
「ああ」
「お父さん、あなたのこと、よく知ってたんですね」
「……会ったことはない。しかし、知っていたらしい」
箱を見た。蓋には「これを読む者へ」と彫られている。
(答えがこの中にある)
(明日、読む。今日は、ここまでだ)
蔵を出た。フィオナが光を消した。
夕方の日差しが眩しかった。
「……ありがとう」
「7回目です」
フィオナが少しだけ笑った。
「明日も一緒に行きますからね」
「……ああ」




