第三十五話「どこを見ればいい」
見えるものを見ると決めてから、数日が経った。
何が変わったかと言えば、何も変わっていない。朝起きて、畑に出て、フィオナが「おはようございます」と言って、飯を作って、食べて、修行に行って、帰ってきて、飯を作って、食べて、寝る。
同じだ。同じ日常だ。
しかし、同じ日常を見る目が変わった。
正確には、見る先が変わった。糸を探していた目が、フィオナを見るようになった。すると、今まで見落としていたものが見えた。
たとえば、朝。
フィオナが台所に入ってくるとき、まず俺の位置を確認する。目が俺を捉えてから、棚に手を伸ばす。
(……あれは何だ。俺の位置を確認してから動いている)
(台所の導線を確認しているだけかもしれない。ぶつからないように)
たとえば、畑。
フィオナが水桶を持ってくるとき、俺がいる畝の隣の畝から水をやり始める。遠い畝からではなく、隣から。
(隣から始めるのは効率的だからだ。たぶん)
たとえば、夕飯。
フィオナが食器を並べるとき、俺の器を先に置く。自分のは後。
(それは礼儀だ。家主が先。礼儀として当然だ)
(全部、合理的な理由がある。全部、説明がつく)
(しかし、説明がつくことと、それだけが理由であることは、違う)
*
昼飯を作った。
今日は新しい料理に挑戦した。フィオナが書斎から見つけてきた料理本のレシピ。干し肉と根菜の炊き合わせ。
「これ、手順が多いですね」
「ああ。先に干し肉を戻して、根菜を別に下茹でしてから合わせる」
「分担しましょう。私が根菜やります」
「頼む」
2人で台所に立った。
背中合わせで作業した。俺が干し肉を鍋に入れているとき、フィオナが後ろで根菜を切っていた。
狭い台所で、ぶつからなかった。
(……ぶつからない)
フィオナが振り返って鍋に近づくタイミングで、俺が一歩横にずれた。フィオナが棚に手を伸ばすタイミングで、俺がかがんだ。
無意識だった。
2人の動きが噛み合っていた。いつからだ。いつからこんなに噛み合うようになった。
「ランベルトさん」
「何だ」
「私たち、ぶつからなくなりましたよね」
(フィオナも気づいていた)
「最初の頃、よくぶつかってましたよね。棚の前とか、鍋の前とか」
「ああ。お前が動きを読めなかった」
「私が? あなたが避けなかっただけですよ」
「……そうだったか」
「そうです。でも今は、なんか自然に避けますよね。私が動く前に、あなたがもう動いてる」
(俺がフィオナの動きを予測している)
(営業時代、上司の動きに合わせて資料を出す癖がついていた。それと同じだ。相手の行動パターンを覚えて先回りする)
(営業スキルだ。営業スキルの応用だ。それ以上の意味はない)
「相手の動きに合わせるのは得意なんだ。前職の癖だ」
「前職? 貴族の前の仕事って何ですか」
「……なんでもない」
「また隠し事ですか」
「隠し事ではない。……うまく説明できないだけだ」
フィオナは鍋をかき混ぜながら、ふうん、と言った。
炊き合わせが完成した。2人分。
食べた。
「……美味い」
「美味しいですね。でもこれ、一人じゃ作れないですよ。手順が多すぎて」
「そうだな。2人いないと厳しい」
「じゃあ、2人で作るしかないですね。これからも」
(これからも)
(フィオナが「これからも」と言った。未来を含む言葉だ)
「……ああ。これからも」
(俺も言ってしまった)
フィオナは少し笑って、炊き合わせをもう一口食べた。
*
午後、丘で修行を見た。
フィオナの光は今日も安定していた。持続時間がさらに伸びている。
風が吹いていた。草が揺れていた。フィオナの髪が揺れていた。
(どこを見ればいい)
ふと、そう思った。
糸を見るのはやめた。フィオナを見ると決めた。しかし「フィオナを見る」とは、何を見ることなのか。
顔か。手か。背中か。光か。
(全部だ。全部見ている。朝の台所での動き。畑での足取り。丘での光。食卓での笑顔)
(全部見て、全部覚えている。覚えようとしなくても覚えている)
(営業時代、顧客の癖を覚えるのは仕事だった。上司の好みを把握するのは生存戦略だった)
(フィオナの動きを覚えるのは何だ。仕事ではない。生存戦略でもない)
(では何だ)
フィオナが光を消した。
「ランベルトさん」
「何だ」
「今日は普通に見てくれましたね」
「普通に見ていた」
「横とか空とか見ないで」
「見ない。お前を見ていた」
「……なんか慣れてきましたけど、毎回言われるとちょっと照れます」
(照れます、と言った。しかし顔は照れていない。困ったような、少し嬉しそうな顔だ)
丘を下りた。
*
夜、書斎で本を読み返していた。
縁の魔法の書。後半の観察日誌。何度も読んだ箇所を、もう一度。
目が疲れた。本を閉じた。
そのまま椅子に座って目を閉じた。
――暗転した。
画面が見えた。
モニターの画面。暗い部屋で光っている。隣に麻衣がいる。コントローラーを握っている。
(これは……前世の記憶か)
画面に文字が流れていた。縦に流れる文字。名前が並んでいる。
エンドロール。
ゲームのエンドロールだ。
麻衣が「やっと終わった」と言った。「最後のルートだよ、これ」。
文字が流れていた。名前が、いくつも。
そして――
目が覚めた。
書斎の椅子に座ったままだった。首が痛い。寝落ちしていた。
(……エンドロール)
(ゲームのエンドロールの夢を見た。名前が流れていた)
(……俺の名前は、あったか)
思い出せなかった。夢の細部は、目覚めた瞬間にほどけていく。名前が流れていた。いくつも。しかし「ランベルト・ヴェルツ」の名前があったかどうか。
(覚えていない。見えなかったのか、見落としたのか、なかったのか)
窓の外を見た。離れの明かりは消えていた。深夜だ。
(なぜ今、エンドロールの夢を見た)
首をさすりながら、寝室に移動した。
ベッドに横になった。天井を見た。
(どこを見ればいい、と思っていた)
(フィオナを見ると決めた。しかし今夜、別のものが見えた)
(エンドロール。流れていく名前。そして、俺の名前が、あったのかなかったのか)
目を閉じた。
瞼の裏で、文字の残像が薄く流れていた。




