第三十四話「見すぎです」
癖がついた。
いつからか、フィオナの横を見る癖がついた。
正確には、フィオナと自分の「間」を見ている。フィオナの右肩あたりの空間。何もない。何も見えない。しかし、そこに金色の糸があるはずだ。
エマはそこを見てニコニコしている。麻衣はそこに太い糸を見た。
俺には見えない。何も見えない。空気だ。
しかし見てしまう。
朝飯を作りながら、フィオナの横を見た。
畑で水をやりながら、フィオナの横を見た。
丘に行く道すがら、フィオナの横を見た。
3日目に、言われた。
「あなた最近、私のこと見すぎです」
「……見ていない」
「見てます。ずっとこっち見てますよ」
「見ていない。……お前の横を見ていた」
「横?」
(しまった)
「横って何ですか。私の横に何かあるんですか」
「……ない」
「ないのに見るんですか」
「……癖だ」
「癖ですか。変な癖ですね」
「変だな。自覚はある」
フィオナは少し首を傾げた。
「まあ、横でもいいですけど」
「何がだ」
「見てくれるなら」
(見てくれるなら、横でもいい)
(……それはどういう意味だ。見られること自体は嫌ではないということか)
(解釈が難しい。営業先で「横でもいいですよ」と言われたら、「正面から見てほしい」の婉曲表現だ)
(フィオナが婉曲表現を使うとは思えないが)
「本当は私のこと見てるんじゃないですか」
「見ていない。横だ」
「横って、具体的にどのへんですか」
「……右肩の上あたりの空間だ」
「右肩の上」
フィオナは自分の右肩を見た。何もない。当然だ。
「何もないですけど」
「だから何もないと言っている」
「何もないのにじっと見るの、だいぶ怪しいですよ」
(怪しい。確かに怪しい。「何もない空間をじっと見る男」は客観的に見て怪しい)
*
昼飯を作った。
フィオナが炒め物を担当した。最近、炒め物が上達している。火の扱いに慣れてきた。
俺は汁物を作りながら、フィオナの横を見た。
見ている自覚があった。見ないようにしようと思うと、余計に見てしまう。
(……この症状は何だ。糸を意識しすぎている。見えないものを見ようとしている)
(フィオナが言ったじゃないか。見えないもの自体を見ようとしなくていい。結果を見ればいいと)
(しかし結果を見ると、フィオナを見ることになる)
(つまりどちらにしても見ることになる。横か正面かの違いだけだ)
「ランベルトさん」
「何だ」
「また見てますよ」
「……すまない」
「謝らなくていいですけど。見るなら、右肩の上じゃなくてこっち見てください」
フィオナが自分の顔を指した。
(こっち。つまり顔。フィオナの顔を見ろと言っている)
目を合わせた。
フィオナの目は茶色だった。知っていた。しかし、真正面から見ると、少し金色に近い茶色だった。
(……金色)
(関係ない。目の色と糸の色は関係ない)
「ほら、そっちのほうがいいじゃないですか」
「……何がだ」
「目が合うと、話しやすいです」
(目が合うと話しやすい)
(こちらは話しにくいのだが)
炒め物が完成した。2人分。
*
午後、エマに呼び止められた。
廊下で、エマが洗濯物を抱えて立っていた。ニコニコしていた。いつも通りのニコニコだ。
「坊ちゃま」
「何だ」
「最近、フィオナ様のお傍をじっと見つめていらっしゃいますね」
(……エマにも気づかれている)
「見つめていない」
「左様でございますか。しかし、フィオナ様のお傍と申しますか、お二人の間あたりを」
エマは洗濯物を抱えたまま、にっこりした。
「坊ちゃま。いくら見つめても、見えませんよ」
(……)
「見えません」。エマはそう言った。
エマには見えている。金色の糸が。俺とフィオナの間に伸びている、太い金色の糸が。
エマにはそれが見えていて、俺には見えない。
俺がじっと見つめている空間に、エマには何が見えているのか。
「……エマさん。今、どのくらいだ」
「何がでございましょう」
「……わかっているだろう」
エマはニコニコした。
「坊ちゃまが、お気にされ始めてから。さらに太くなっておりますよ」
(気にし始めてから太くなった)
(つまり、糸を意識したこと自体が、糸を太くしている)
(距離を測ったことも。横を見たことも。全部、糸を太くしていたのか)
「……逆効果だったということか」
「逆効果と仰いますか」
「……いや。なんでもない」
「逆効果ではございません。坊ちゃまが糸を気にされるのは、フィオナ様のことを気にされているからです。それは素晴らしいことでございますよ」
「素晴らしくない。俺は当て馬だ」
「当て馬のお方が、金色の糸の太さを気にされるのでございますか」
(……返す言葉がない)
エマはニコニコしたまま、洗濯物を持って去っていった。
(エマはいつもそうだ。核心を突いてから去る。反論する暇を与えない。営業先の重役と同じ手法だ)
*
夕方、丘でフィオナの修行を見た。
今日は見ないようにしよう。横ではなく、正面を。いや、正面も危険だ。空を見よう。
空を見上げた。青い空。雲が少し。風が穏やかだ。
フィオナが光を放った。光が視界の端に入った。
空を見たまま、光だけを感じていた。
「……今日は空ばっかり見てますね」
「空がきれいだ」
「昨日までは私の横ばっかり見てたのに。今日は空ですか。忙しいですね」
「忙しくない」
「忙しいですよ。視線が。あっちこっち行って」
フィオナは光を消した。修行終わりだ。
「ランベルトさん」
「何だ」
「どっちがいいか、決めてください」
「何の話だ」
「見るか、見ないか。昨日は見すぎて、今日は見なさすぎです。私、どっちでもいいですけど、ちょっとフラフラされると落ち着かないです」
(落ち着かない)
(フィオナが落ち着かないと言っている。俺の視線が不安定だから)
「……すまない」
「だから謝らなくていいです。決めてくれればいいんです」
「……見る」
口から出た。考えるより先に出た。
「見る?」
「ああ。見る。……お前のことを見る。横ではなく」
フィオナは一瞬、目を丸くした。
それから、少し笑った。
「はい。じゃあ見てください」
(……何を宣言しているんだ、俺は)
(「お前のことを見る」と宣言した。営業のプレゼンでもこんな恥ずかしい宣言はしたことがない)
丘を下りた。
フィオナの背中を見た。横ではなく。空間ではなく。背中を。
(見えない糸を探すのをやめよう。見えないものは見えない)
(その代わり、見えるものを見よう。フィオナの背中を。フィオナの料理を。フィオナの光を)
(父の手紙。「糸は在るものを映す」)
(在るものを見よう。映されたものではなく、在るものそのものを)
*
夕飯を一緒に作った。
フィオナの横ではなく、フィオナの手元を見た。包丁の動き。鍋をかき混ぜる手。味見をする口元。
「今日は変な方向見ないですね」
「見ない。お前の手元を見ている」
「手元。料理の確認ですか」
「……ああ。料理の確認だ」
「料理の確認にしては、ちょっと真剣すぎません?」
(真剣すぎる。自覚はある)
食べた。美味かった。フィオナの炒め物は確実に上達している。
食器を洗った。
離れの明かりが灯った。
今夜は、明かりを見た。横の空間ではなく。明かりそのものを。
明かりの向こうにフィオナがいる。糸は見えない。しかしフィオナは見える。
(見えないものを探すのをやめた)
(見えるものを見ることにした)
(それは逃げかもしれない。見えない糸から、見えるフィオナへの逃避かもしれない)
(しかし、今はそれでいい)
(見えるものだけで十分だ。十分すぎるくらい、そこに在る)




