第三十三話「3メートルの攻防」
仮説を立てた。
糸は一緒にいる時間と感情の強度で太くなる。ヴェルツ家の体質で3倍速い。制御できない。
ここまでは確定事実だ。
しかし本には「距離によって細くなることはない」とも書いてあった。距離は関係ない。
(本当か)
(本が正しいとは限らない。あの本は何世代も前の記録だ。誤りがある可能性がある)
(営業マンとして、情報は検証する。検証できない情報は信じない)
(検証しよう)
方法は単純だった。距離を取る。
フィオナとの物理的な距離を広げて、何かが変わるか確認する。具体的には、3メートル。
(3メートル。営業時代のソーシャルディスタンスは1.5メートルだった。その倍だ。安全圏と言っていい)
朝、畑に出た。フィオナより先に。
*
大根に水をやっていると、離れの戸が開いた。
「おはようございます」
フィオナが出てきた。今日も寝癖がついていた。
「おはよう」
距離を確認した。畑の端から離れまで、約5メートル。十分だ。
「朝ごはん、何にしますか」
「……汁物でいい。先に作り始めておく」
「手伝います」
「いい。今日は一人で作る」
フィオナが少し目を丸くした。
「一人で? 珍しいですね」
「たまにはいいだろう」
「はあ。じゃあ、待ってます」
フィオナは離れに戻った。
(……一人で作ると言っただけで、距離が取れた。簡単だ)
台所に入った。根菜を切って、鍋に火をかけて、出汁を取った。一人で。
一人で作る汁物は、静かだった。フィオナの「それ、もう少し薄く切ったほうがいいですか」がない。「塩、入れすぎじゃないですか」がない。
(静かだ)
(前は一人で作っていた。半年間ずっと一人だった。静かで当たり前だった)
(それが今、不自然に感じる)
汁物ができた。2人分。
(……2人分作っている。距離を取ると言いつつ、2人分作っている)
フィオナを呼んだ。
「できたぞ」
「はい」
フィオナが台所に来た。食卓に座った。
俺は反対側の端に座った。普段より1席分遠い。
フィオナは一口飲んで、箸を止めた。
「……出汁、ちょっと薄くないですか」
「……そうか」
「薄いです。私が作るときの半分くらいです」
(半分。出汁が薄い。一人で作ると味見の基準が狂うのか)
(いや、単にフィオナが味見するときの「もう少し」を、無意識に計算に入れていたのだ)
「明日は一緒に作ります」
「……ああ」
フィオナは汁物を飲み干した。薄いと言いながら飲み干した。
「あと、何で遠くに座ってるんですか」
「……遠くない」
「遠いです。いつもより椅子一個分遠い。数えました」
(数えた。椅子の数を数えている)
「……たまたまだ」
「たまたまですか」
「たまたまだ」
「ふうん」
フィオナの「ふうん」には、「信じてません」が詰まっていた。
*
午前中、畑仕事をした。
フィオナが手伝いに来た。
3メートルを維持した。フィオナが大根の畝にしゃがむと、俺は別の畝に移動した。
フィオナが水桶を持ってこちらに来ると、俺は向こうの畝に移動した。
フィオナが向こうの畝に来ると、俺はまた別の畝に移動した。
「……あなた、避けてます?」
「避けていない」
「避けてますよ。私が行くと逃げるじゃないですか」
「逃げていない。効率的に畝を回っているだけだ」
「効率的に私から離れてるだけじゃないですか」
(……バレている)
「距離、計ってます?」
「計っていない」
「3メートルくらい維持してますよね。私、測りましたよ。歩幅で」
(歩幅で測った。この女、歩幅で3メートルを検出した)
「気のせいだ」
「あなたの『気のせい』は全部気のせいじゃないって、前に自分で認めましたよね」
(……過去の発言を正確に覚えている。営業先の顧客より記憶力がいい)
「フィオナ。畑の話をしよう」
「距離の話のほうが面白いです」
「面白くない。大根の話をしよう。大根が育っている」
「大根はいつも育ってます。それより、なんで距離取ってるんですか」
(理由を聞かれた。正直に答えるわけにはいかない。「お前との間に金色の糸があって、近くにいると太くなるかもしれないから距離を取っている」とは言えない)
「……健康のためだ」
「何の健康ですか」
「……精神の」
「精神の健康のために私から3メートル離れるんですか。失礼じゃないですか」
(失礼。確かに失礼だ。フィオナの立場から見れば、いきなり距離を取られたら気分が悪い)
「……すまない。距離は関係ない。忘れてくれ」
「忘れません。面白いので」
(面白がっている。フィオナは俺の異常行動を面白がっている)
*
午後、丘に行った。
フィオナが修行を始めた。俺はいつもの場所に座ろうとして、3メートル離れた場所に座った。
フィオナが光を放った。
光が、揺れていた。
いつもと違う。安定しない。出力は十分なのに、焦点が定まらない。
5分経っても安定しなかった。
「……今日はダメですね。集中できない」
「環境は同じだろう」
「同じじゃないですよ。あなた、遠いんですよ」
(遠い。3メートルが遠い、と言っている)
「前に言いましたよね。あなたがいると集中できるって。遠くにいたら意味ないんですよ」
(意味がない。3メートル離れたら意味がない)
(……フィオナの修行は、俺の距離に影響を受けるのか)
(それは糸の影響か。それとも、単にフィオナが俺を目印にして集中しているだけか)
(どちらにしても、3メートル離れたことでフィオナの修行に支障が出ている。それは俺の本意ではない)
「……わかった」
立ち上がって、いつもの場所に座った。フィオナの斜め後ろ。2メートルもない距離。
フィオナが光を放った。
安定した。一瞬で。
「……やっぱり。近いほうがいいです」
(一瞬で安定した)
(距離は関係ない、と本に書いてあった。糸は距離で細くならない)
(しかし、フィオナの光は距離で変わる)
(糸と光は別の話かもしれない。しかし、結果は同じだ。近くにいたほうがいい)
修行が終わった。
フィオナは草の上に手をついて、息を整えていた。
「ランベルトさん」
「何だ」
「距離の実験、結果出ましたか」
「……実験ではない」
「実験ですよ。朝から変でしたもん」
「……結論は出た」
「何ですか」
「距離は、関係なかった」
フィオナは少し笑った。
「最初からそう言えばいいのに」
「最初はわからなかった」
「今はわかったんですか」
「……わかった。近くにいても変わらない」
「近くにいて、ください」
フィオナはあっさりと言った。
あっさり言った言葉が、静かに刺さった。
「……ああ」
丘を下りた。2人の距離は、1メートルもなかった。
*
夕飯を一緒に作った。
フィオナが出汁を取った。俺が根菜を切った。台所の距離は50センチもない。
「出汁、見てください」
「……ああ。いい濃さだ」
「でしょう。朝のは薄かったですもんね」
(朝の汁物は薄かった。一人で作ったから)
(一人で作ると味が落ちる。2人で作ると味が上がる。それも結果だ)
「ランベルトさん」
「何だ」
「3メートル離れたの、ちょっと悲しかったですよ」
「……すまない」
「でも戻ってきたから、いいです」
食器を洗った。2枚。肩が触れる距離で。
(……本は正しかった。距離は関係ない。糸は距離で変わらない)
(しかし、俺は変わった。3メートル離れて、わかったことがある)
(離れると、落ち着かない。台所が静かで、畑が広くて、丘が遠い)
(それは糸のせいか)
(糸のせいではない。俺がそう感じているだけだ)
(……結局、検証の結果は「距離は関係ない」ではなく「離れたくない」だった)
(それは仮説の検証としては失敗だ。しかし、別の何かの検証としては、成功している気がする)
離れの明かりが灯った。
今夜は距離を測らなかった。




