第三十二話「見えないものを、信じるということ」
翌朝、目が覚めた。
天井は同じだった。石造りのアーチ。見慣れた天井。毎朝見る天井だ。
しかし昨日と同じ天井が、少しだけ違って見えた。
(……麻衣の手紙)
机の上に、昨夜折りたたんだ手紙がある。安い紙。封蝋なし。「お兄ちゃんへ」で始まる手紙。
(金色の糸がある。太い。とても)
(麻衣が見た。エマも見ている。本にも書いてあった。父も経験した)
(4つの証拠がある。営業なら十分だ。顧客の購入意思を示す証拠が4つあれば、商談は成立する)
(しかし商談の相手は、俺自身だ)
起き上がった。顔を洗った。畑に出た。
*
大根に水をやった。
水は大根にかかった。大根は黙っていた。いつも通りだ。
(大根には糸がない。たぶん。植物には縁の糸は生えないだろう。本にも「生者のあいだ」としか書いていなかった)
(大根が楽だ。大根との間には金色の糸がない)
(大根は営業先でもなく、攻略対象でもなく、ヒロインでもない)
(大根は大根だ。安心する)
離れの戸が開いた。
「おはようございます」
フィオナが出てきた。寝癖がついていた。髪の右側が跳ねている。
「おはよう」
普通に答えた。普通だ。何も変わっていない。
(……今、糸が動いただろうか)
(「おはよう」と言っただけで糸は太くなるのか。ならないだろう。さすがに挨拶で太くなったら、この世界の住人は全員太い糸だらけだ)
(わからない。見えないからわからない)
「今日は何作りますか」
「……汁物と、漬物でいい」
「了解です」
フィオナが台所に向かった。
俺はフィオナの背中を見た。
フィオナの背中と、俺の間に、金色の糸があるらしい。
見えない。何も見えない。いつもと同じ背中だ。ショートヘアの後ろ姿。飾り気のない服。台所に向かう足取り。
(見えない。しかし在る)
(在ると知ったうえで見る背中は、知らなかったときと同じか)
(……同じではない)
*
台所で汁物を作った。
フィオナが出汁を取った。根菜を切った。俺が味を見た。
「塩、もう少し」
「はい」
フィオナが塩壺に手を伸ばした。同時に、俺も手を伸ばした。
指が触れた。
フィオナは何も言わなかった。「あ、すみません」と言って塩壺を渡した。
(……今の接触で、糸は太くなったか)
(見えない。わからない)
(前は、手が触れても何も考えなかった。いや、少し考えた。少しだけ考えて、すぐ忘れた)
(今は忘れられない。糸があるかもしれないと思うと、忘れられない)
「……あなた、昨日から変ですよ」
「変ではない」
「変です。目が泳いでます」
「泳いでいない」
「泳いでます。塩壺を見て固まる人、初めて見ました」
(……塩壺を見て固まっていたのか。いや、塩壺ではなくフィオナの指を見ていた)
(指を見ていた、と認めるのはさらにまずい)
「考え事だ」
「また考え事ですか。あなたの考え事、多すぎません?」
「多い。認める」
「何を考えてるんですか」
「……見えないものについて考えていた」
フィオナは首を傾げた。
「見えないもの?」
「ああ。見えないのに在るものを、どうやって信じるか」
「変な話ですね。でも、見えないものなんて世の中いっぱいありますよ」
「たとえば」
「風。見えないけど、吹いたらわかるじゃないですか。髪が揺れたり、葉っぱが飛んだり」
(風)
(見えないけど、結果は見える)
「あとは魔力。私の光の魔力も、使う前は見えないですけど、使えば見えます」
「……そうだな」
「見えないものが在るかどうかは、結果を見ればわかるんじゃないですか。見えないものそのものを見ようとしなくても」
(結果を見ればわかる)
フィオナはあっさりと、核心を突いた。
見えないものそのものを見ようとしなくていい。結果を見ればいい。
(糸は見えない。しかし結果は見える)
(フィオナの料理が上手くなった。俺が毎朝2人分の飯を作っている。丘に行くのが日課になっている。離れの明かりを確認してから寝ている)
(全部、結果だ)
「……お前は、たまにすごいことを言う」
「え、何がですか」
「何でもない。汁物、仕上げるぞ」
「はい」
汁物を仕上げた。2人分。器は2つ。
*
午後、丘でフィオナの修行を見た。
光は安定していた。今日は特に良い。持続時間が長く、光の質に濁りがない。
BGMは聞こえなかった。毎回聞こえるわけではないらしい。
風が吹いた。草が揺れた。フィオナの髪が揺れた。
(風は見えない。しかし草が揺れる)
(糸は見えない。しかし、何が揺れている)
フィオナが光を消して、こちらを振り返った。
「今日はどうでしたか」
「良かった。安定している」
「本当ですか」
「嘘は言わない」
「あなた、嘘は言わないけど、隠し事はしますよね」
(……鋭い)
「何の話だ」
「昨日から。手紙が来てから、ずっと何か隠してます。ファイン先輩の話だけじゃないですよね」
「……前にも言ったが、いつか話す」
「いつかって、いつですか」
「……わからない」
フィオナは少し黙った。
それから、草の上に座ったまま、空を見上げた。
「まあ、いいです。あなたの『いつか』は信じてますから」
(信じている)
(見えないものを信じる、とフィオナは言った)
(俺の「いつか」は形もなく、期限もなく、何も見えない。それを信じると言った)
「……ありがとう」
「え、急にどうしたんですか。気持ち悪いですよ」
(気持ち悪い。礼を言ったら気持ち悪いと返された)
「……忘れてくれ」
「忘れません。あなたがありがとうって言ったの、たぶん初めてです。記念です」
(記念にされた)
丘を下りた。夕日が赤かった。
*
夜、書斎で一人になった。
父の手紙のページを開いた。もう何度も読んだ。
「糸は、あなたがすでに選んだものの証だから」
麻衣の手紙を開いた。
「自分の気持ちを糸のせいにしないでください」
フィオナの言葉を思い出した。
「見えないものが在るかどうかは、結果を見ればわかるんじゃないですか」
(3人が、別の言葉で同じことを言っている)
(糸は結果だ。原因ではない。俺が選んだ結果が、糸として在る)
(ならば、見えなくていい。見えなくても、結果は見えている)
窓の外で、離れの明かりが灯っていた。
営業マンは数字しか信じなかった。目に見えるデータ。グラフ。売上報告。見えるものだけが真実だった。
しかし今、見えないものを信じようとしている。
(まだ信じきれてはいない。しかし、否定もできなくなった)
明かりを見ていた。明かりは見えた。
その向こうの糸は見えなかった。
しかし在ることは、もう疑わなかった。




