第三十話「この書を読みし者へ」
夜、書斎で本の続きを読んだ。
後半の観察日誌は、縁視の持ち主が何世代にもわたって書き継いだ記録だった。文体が途中で変わる。筆者が変わっているのだ。
最初の筆者は硬い文体で、事実だけを記録していた。2人目は少し感傷的で、糸の美しさについて書いていた。3人目は実務的で、糸の色と太さの変化パターンを表にまとめていた。
そして、最後のページ。
文体が、また変わった。
今までの記録とは違う。誰かが、読み手に向けて書いている文章だった。
「この書を読みし者へ」
「おそらく、あなたはヴェルツの血を引く者であろう。そうでなければ、この本はただの古い魔法書に過ぎず、わざわざ最後まで読む理由がない」
(……当たっている)
「私はアルベルト・ヴェルツ。この屋敷の前の主である。あなたがこの書を読んでいるということは、私はもうこの世にいないのだろう」
(アルベルト・ヴェルツ。ランベルトの父か)
「ヴェルツの体質について、一つだけ伝えておく」
「糸は呪いではない」
(……呪い)
「あなたが今、糸の存在を知って、恐れているなら。あるいは、糸のせいで自分の感情が信じられなくなっているなら。一つだけ覚えておいてほしい」
「糸は、あなたが誰かを大切に思うことを増幅する。しかし、大切に思っていない相手との糸は、決して太くならない」
「私にもその体質があった。妻との間に太い金色の糸があった。最初、私はそれを恐れた。この感情は本物なのか。体質が見せる幻なのか。糸がなければ、私はこの人を好きにならなかったのではないか」
「答えを出すのに、10年かかった」
(10年)
「10年経って、わかったことがある。糸があろうとなかろうと、私は妻を選んでいた。糸は理由ではなかった。結果だった」
「糸は、あなたが選んだ相手との間に育つ。選ばなかった相手との間には育たない。つまり、糸はあなたの選択を映しているのであって、強制しているのではない」
「選択を映している」
同じことが、本の前半にも書いてあった。「在るものを映す。在らぬものを作り出すことはない」。
父は、自分の言葉で同じことを書いていた。
「もう一つ」
「ヴェルツ家の者は、糸を恐れるあまり、人との関わりを避ける傾向がある。私もそうだった。若い頃、王都を離れ、この辺境に逃げてきた。人が少ない場所なら、糸が育たないと思った」
(逃げてきた)
(この屋敷に)
(俺と同じだ)
「しかし逃げた先で、妻と出会った」
「逃げた先に、答えがあった。逃げなければ出会えなかった」
「あなたが誰で、どんな状況にあるのか、私にはわからない。しかし、もし誰かとの糸に戸惑っているなら、その糸を恐れないでほしい。糸は、あなたがすでに選んだものの証だから」
「アルベルト・ヴェルツ。ランベルトの名を継ぐ者の幸福を祈って」
本を閉じた。
手が震えていた。
(ランベルトの父。アルベルト・ヴェルツ。この屋敷の前の主)
(この人も、逃げてきたのか。王都から。人との関わりから)
(そして逃げた先で、妻と出会った)
(俺と、同じだ)
書斎の窓から外を見た。離れの明かりが灯っていた。
(……父は、10年かかったと書いた)
(10年かけて、「糸は理由ではなく結果だった」と気づいた)
(俺は、どのくらいかかるのだろう)
*
翌朝、畑に出た。
フィオナが先にいた。大根の前にしゃがんで、葉を観察していた。
「おはようございます」
「……おはよう」
「今日、ちょっと目が赤くないですか」
「……夜更かしした」
「本ですか。あの古い本」
「……ああ」
「面白かったですか」
「……面白い、とは違う」
「じゃあ何ですか」
(考えさせられた。父の言葉に。父が逃げてきたことに。逃げた先で出会ったことに)
「……先代が、手紙を残していた」
「手紙? 本の中に?」
「最後のページに。読む人への手紙だ」
「何て書いてあったんですか」
少し迷った。
「……怖がるな、と」
「怖がるな?」
「ああ。何かを知って、怖くなっても、怖がるな、と」
フィオナは首を傾げた。
「変な手紙ですね」
「変な手紙だ」
「でも、良い手紙じゃないですか」
「……なぜだ」
「怖がってる人に、怖がるなって言うのって、優しいじゃないですか。怖いのをわかってるから言えるんですよ、それ」
(怖いのをわかっているから言える)
(父も怖かったのだ。糸が。感情が。自分の選択が)
(怖かった人が、「怖がるな」と書いた)
「……そうだな。良い手紙だ」
「その人、あなたのことよく知ってたんですね」
「……会ったことはない。しかし、知っていたのかもしれない」
(父は、ランベルトを知らないまま死んだ。しかし、ランベルトの名を継ぐ者が同じ問題にぶつかることを、知っていた)
フィオナは立ち上がって、大根の土を払った。
「私も手紙もらったら、ちゃんと読みますね」
「誰からだ」
「あなたから。もし、何か伝えたいことがあったら」
(俺から手紙)
「……伝えることはない」
「今はなくても、いつか出てくるかもしれないですよ」
「出てこない」
「出てこなくてもいいです。でも、出てきたら、ちゃんと読みますから」
フィオナはそれ以上何も言わず、台所に向かった。
畑に一人残った。
大根を見た。
(父は10年かかった)
(俺は、まだ数ヶ月だ)
(しかし、数ヶ月で、もうここまで来ている)
(ここまで、とは。どこまでだ)
大根は黙っていた。答えてくれない。いつも通りだ。
*
午後、エマに聞いた。
「エマさん。父のことを覚えているか」
エマの手が少しだけ止まった。
「……もちろんでございます」
「父は、どんな人だった」
「お優しい方でした。しかし、人を遠ざける方でもございました」
「遠ざける」
「王都にいた頃は、人付き合いをなさらなかったそうです。こちらに来てからも、しばらくはお一人でした」
「しばらく」
「お母様と出会ってから、変わられました」
(父の手紙と同じだ)
「どう変わった」
「……笑うようになりました。坊ちゃまのように、仕事用ではない笑顔で」
(仕事用ではない笑顔)
(フィオナがかつて言った言葉と同じだ。「仕事用じゃなさそうな顔してるときありますよ」)
「坊ちゃまもお父様もそっくりでいらっしゃいます」
「何がだ」
「逃げていらしたのに、逃げた先で大切な方を見つけるところが」
エマはニコニコしていた。
「坊ちゃま。お父様は10年かかりました。坊ちゃまは、もう少し早いかもしれませんね」
「……本を読んだのか」
「いいえ。お父様から、直接聞いておりました。『10年かかった。息子には、もっと早く気づいてほしい』と」
(……父が、そう言っていたのか)
(会ったことのない父が。ランベルトの名を持つ、俺のことを)
「……エマさん」
「はい」
「俺は父より早いだろうか」
「早いと思います」
「根拠は」
「フィオナ様がいらっしゃいますから。お母様より、だいぶ……押しが強うございます」
(……否定できない)
エマはニコニコしたまま、台所を出ていった。
*
夜、書斎で本をもう一度開いた。
父の手紙を、もう一度読んだ。
「糸は、あなたがすでに選んだものの証だから」
(すでに選んだ)
(俺は、いつ選んだのだろう)
(「どうぞ」と言ったとき。「合格だ」と言ったとき。粥を作ったとき。迎えに行ったとき。「おかえり」と言ったとき)
(全部だ。全部が選択だった)
(糸のせいではなく、俺が選んでいた)
本を閉じた。
窓の外で、離れの明かりが灯っていた。
今夜は、明かりを見ることに、言い訳をしなかった。




