表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
俺、当て馬なんで逃げます。――なんでついてくるんですか、ヒロインさん  作者: よるの 余白
II「縁糸と秘密」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

30/75

第三十話「この書を読みし者へ」


 夜、書斎で本の続きを読んだ。


 後半の観察日誌は、縁視の持ち主が何世代にもわたって書き継いだ記録だった。文体が途中で変わる。筆者が変わっているのだ。


 最初の筆者は硬い文体で、事実だけを記録していた。2人目は少し感傷的で、糸の美しさについて書いていた。3人目は実務的で、糸の色と太さの変化パターンを表にまとめていた。


 そして、最後のページ。


 文体が、また変わった。


 今までの記録とは違う。誰かが、読み手に向けて書いている文章だった。



「この書を読みし者へ」


「おそらく、あなたはヴェルツの血を引く者であろう。そうでなければ、この本はただの古い魔法書に過ぎず、わざわざ最後まで読む理由がない」


 (……当たっている)


「私はアルベルト・ヴェルツ。この屋敷の前の主である。あなたがこの書を読んでいるということは、私はもうこの世にいないのだろう」


 (アルベルト・ヴェルツ。ランベルトの父か)


「ヴェルツの体質について、一つだけ伝えておく」


「糸は呪いではない」


 (……呪い)


「あなたが今、糸の存在を知って、恐れているなら。あるいは、糸のせいで自分の感情が信じられなくなっているなら。一つだけ覚えておいてほしい」


「糸は、あなたが誰かを大切に思うことを増幅する。しかし、大切に思っていない相手との糸は、決して太くならない」


「私にもその体質があった。妻との間に太い金色の糸があった。最初、私はそれを恐れた。この感情は本物なのか。体質が見せる幻なのか。糸がなければ、私はこの人を好きにならなかったのではないか」


「答えを出すのに、10年かかった」


 (10年)


「10年経って、わかったことがある。糸があろうとなかろうと、私は妻を選んでいた。糸は理由ではなかった。結果だった」


「糸は、あなたが選んだ相手との間に育つ。選ばなかった相手との間には育たない。つまり、糸はあなたの選択を映しているのであって、強制しているのではない」


「選択を映している」


 同じことが、本の前半にも書いてあった。「在るものを映す。在らぬものを作り出すことはない」。


 父は、自分の言葉で同じことを書いていた。


「もう一つ」


「ヴェルツ家の者は、糸を恐れるあまり、人との関わりを避ける傾向がある。私もそうだった。若い頃、王都を離れ、この辺境に逃げてきた。人が少ない場所なら、糸が育たないと思った」


 (逃げてきた)


 (この屋敷に)


 (俺と同じだ)


「しかし逃げた先で、妻と出会った」


「逃げた先に、答えがあった。逃げなければ出会えなかった」


「あなたが誰で、どんな状況にあるのか、私にはわからない。しかし、もし誰かとの糸に戸惑っているなら、その糸を恐れないでほしい。糸は、あなたがすでに選んだものの証だから」


「アルベルト・ヴェルツ。ランベルトの名を継ぐ者の幸福を祈って」



 本を閉じた。


 手が震えていた。


 (ランベルトの父。アルベルト・ヴェルツ。この屋敷の前の主)


 (この人も、逃げてきたのか。王都から。人との関わりから)


 (そして逃げた先で、妻と出会った)


 (俺と、同じだ)


 書斎の窓から外を見た。離れの明かりが灯っていた。


 (……父は、10年かかったと書いた)


 (10年かけて、「糸は理由ではなく結果だった」と気づいた)


 (俺は、どのくらいかかるのだろう)



 *



 翌朝、畑に出た。


 フィオナが先にいた。大根の前にしゃがんで、葉を観察していた。


「おはようございます」


「……おはよう」


「今日、ちょっと目が赤くないですか」


「……夜更かしした」


「本ですか。あの古い本」


「……ああ」


「面白かったですか」


「……面白い、とは違う」


「じゃあ何ですか」


 (考えさせられた。父の言葉に。父が逃げてきたことに。逃げた先で出会ったことに)


「……先代が、手紙を残していた」


「手紙? 本の中に?」


「最後のページに。読む人への手紙だ」


「何て書いてあったんですか」


 少し迷った。


「……怖がるな、と」


「怖がるな?」


「ああ。何かを知って、怖くなっても、怖がるな、と」


 フィオナは首を傾げた。


「変な手紙ですね」


「変な手紙だ」


「でも、良い手紙じゃないですか」


「……なぜだ」


「怖がってる人に、怖がるなって言うのって、優しいじゃないですか。怖いのをわかってるから言えるんですよ、それ」


 (怖いのをわかっているから言える)


 (父も怖かったのだ。糸が。感情が。自分の選択が)


 (怖かった人が、「怖がるな」と書いた)


「……そうだな。良い手紙だ」


「その人、あなたのことよく知ってたんですね」


「……会ったことはない。しかし、知っていたのかもしれない」


 (父は、ランベルトを知らないまま死んだ。しかし、ランベルトの名を継ぐ者が同じ問題にぶつかることを、知っていた)


 フィオナは立ち上がって、大根の土を払った。


「私も手紙もらったら、ちゃんと読みますね」


「誰からだ」


「あなたから。もし、何か伝えたいことがあったら」


 (俺から手紙)


「……伝えることはない」


「今はなくても、いつか出てくるかもしれないですよ」


「出てこない」


「出てこなくてもいいです。でも、出てきたら、ちゃんと読みますから」


 フィオナはそれ以上何も言わず、台所に向かった。


 畑に一人残った。


 大根を見た。


 (父は10年かかった)


 (俺は、まだ数ヶ月だ)


 (しかし、数ヶ月で、もうここまで来ている)


 (ここまで、とは。どこまでだ)


 大根は黙っていた。答えてくれない。いつも通りだ。



 *



 午後、エマに聞いた。


「エマさん。父のことを覚えているか」


 エマの手が少しだけ止まった。


「……もちろんでございます」


「父は、どんな人だった」


「お優しい方でした。しかし、人を遠ざける方でもございました」


「遠ざける」


「王都にいた頃は、人付き合いをなさらなかったそうです。こちらに来てからも、しばらくはお一人でした」


「しばらく」


「お母様と出会ってから、変わられました」


 (父の手紙と同じだ)


「どう変わった」


「……笑うようになりました。坊ちゃまのように、仕事用ではない笑顔で」


 (仕事用ではない笑顔)


 (フィオナがかつて言った言葉と同じだ。「仕事用じゃなさそうな顔してるときありますよ」)


「坊ちゃまもお父様もそっくりでいらっしゃいます」


「何がだ」


「逃げていらしたのに、逃げた先で大切な方を見つけるところが」


 エマはニコニコしていた。


「坊ちゃま。お父様は10年かかりました。坊ちゃまは、もう少し早いかもしれませんね」


「……本を読んだのか」


「いいえ。お父様から、直接聞いておりました。『10年かかった。息子には、もっと早く気づいてほしい』と」


 (……父が、そう言っていたのか)


 (会ったことのない父が。ランベルトの名を持つ、俺のことを)


「……エマさん」


「はい」


「俺は父より早いだろうか」


「早いと思います」


「根拠は」


「フィオナ様がいらっしゃいますから。お母様より、だいぶ……押しが強うございます」


 (……否定できない)


 エマはニコニコしたまま、台所を出ていった。



 *



 夜、書斎で本をもう一度開いた。


 父の手紙を、もう一度読んだ。


「糸は、あなたがすでに選んだものの証だから」


 (すでに選んだ)


 (俺は、いつ選んだのだろう)


 (「どうぞ」と言ったとき。「合格だ」と言ったとき。粥を作ったとき。迎えに行ったとき。「おかえり」と言ったとき)


 (全部だ。全部が選択だった)


 (糸のせいではなく、俺が選んでいた)


 本を閉じた。


 窓の外で、離れの明かりが灯っていた。


 今夜は、明かりを見ることに、言い訳をしなかった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ