第二十九話「なぜ断れないのか」
なぜだ。
朝、畑で大根を見ながら考えていた。
なぜ、俺はフィオナを断れなかったのか。
最初の日。フィオナが「また来ていいですか」と聞いた。断るつもりだった。しかし「どうぞ」と言った。
離れに住むと言い出したとき。断るべきだった。しかし「好きにしろ」と言った。
料理を教えてほしいと言われたとき。教える理由はなかった。しかし出汁の取り方を見せた。
修行を見てほしいと言われたとき。丘に行く意味はなかった。しかし隣に座った。
全部だ。
フィオナの頼みを、一度も断っていない。
(なぜだ)
以前は「俺が弱いから」だと思っていた。営業マン気質が抜けず、断ることができない。性格の問題だと。
しかし今は、別の可能性を知っている。
縁の糸。ヴェルツ家の体質。感情を抑えても糸が育つ。制御できない。
(糸が俺を操作しているのか)
(フィオナに頼まれるたびに断れないのは、金色の糸が俺の判断を歪めているからなのか)
大根に水をやった。水は大根にかかった。大根は黙っていた。
(大根には断られたことがない。大根は何も頼んでこないからだ)
(フィオナは頼んでくる。そして俺は断れない)
(その「断れない」は、糸か、俺か)
*
朝飯を作った。
フィオナが出汁を取った。安定している。もう指導の必要はない。
「今日の出汁もいいな」
「ありがとうございます。合格ですか」
「合格だ」
「やった」
フィオナの「やった」は小さかった。最初の頃のような大きな喜びではなく、日常に馴染んだ小さな満足だった。
(この「やった」に、俺の胸が少しだけ温かくなる)
(それは糸の作用か。それとも、俺自身の感情か)
(本には「在るものを映す」と書いてあった。「在らぬものを作り出すことはない」と)
(ならば、この温かさは、もともと在るものなのか)
食べながら、過去のことを思い出していた。
前世の営業時代。客に頼まれれば断れなかった。残業も断れなかった。飲み会も断れなかった。あのときの「断れない」は、弱さだった。自分を守る壁がなかった。
フィオナに対する「断れない」は、あれとは違う気がする。
営業時代は「断りたいのに断れなかった」。フィオナに対しては、「断りたいと思っていない」ときがある。
思っていないのに、頭が「断るべきだ」と言っている。当て馬だから。ゲームの脇役だから。関わらないほうが安全だから。
頭が言っている。しかし手は2人分の飯を作り、足は丘に迎えに行き、口は「合格だ」と言う。
(頭と体が、ずっとずれている)
(そのずれの正体が、糸なのか)
*
午前中、畑仕事をしながら、検証してみた。
フィオナが離れから出てきた。
「あの、今日の修行、少し早めに行ってもいいですか」
断ってみよう。試しに。
「……今日は午後にしてくれ。畑の手入れが」
「あ、そうですか。じゃあ午後で」
フィオナはあっさり引き下がった。
断れた。
(……断れたぞ)
断れた。フィオナの頼みを、初めて断った。
しかし。
30分後、畑仕事をしながら、フィオナのことを考えていた。
(フィオナは今、離れで何をしているのだろう。本を読んでいるのだろうか。修行が早く行きたかったのは、何か理由があったのだろうか)
(……待て。なぜフィオナのことを考えている)
(断ったのに。断れたのに。断った後に、相手のことを考え続けるのは、断れたことになるのか)
大根の葉を整えた。
1時間後、離れに行った。
「フィオナ」
「はい?」
「……午前中でも構わない。行くぞ」
「え、いいんですか。畑の手入れは」
「……終わった」
「早くないですか」
「早く終わった」
フィオナは少し首を傾げたが、笑った。
「ありがとうございます」
丘に行った。
(……結局、断れていない。形式的には断ったが、1時間で撤回した)
(これは糸のせいか)
(違う。糸のせいにしたいだけだ)
*
丘で修行を見た。
フィオナの光は安定していた。
光を見ながら、考えた。
レオンが来たとき。断れなかった。しかしレオンは王太子だ。断る選択肢がそもそもない。
シャールが来たとき。修繕を断ろうとした。しかしシャールは「直したい」と言って勝手に始めた。断る隙がなかった。
クロードが来たとき。断ろうとした。しかしクロードは営業スマイルで隙を作らなかった。同業者に断り方が通じなかった。
ファインが来たとき。断る理由がなかった。学術調査に断る正当性がない。
(攻略対象に対しては、「断れない理由」がそれぞれあった。状況が断らせなかった)
(フィオナに対しては、状況は関係ない)
(フィオナが「また来ていいですか」と言ったとき、状況的には断れた。王太子でもない。勝手に始めるわけでもない。営業スマイルで隙を消すわけでもない)
(フィオナはただ聞いた。俺はただ答えた)
(そこに糸があったかどうかは、わからない)
(しかし、糸がなくても同じ答えだった気がする)
修行が終わった。
「今日も良かった。光の質が安定している」
「最近、丘に来ると安心するんですよ」
「丘の空気がいいんだろう」
「丘の空気もですけど」
フィオナは草の上に手をついて、空を見上げた。
「あなたがいると、余計なこと考えないで済むんです」
「余計なこと」
「学園のこととか、将来のこととか、自分の魔力がどこまで伸びるかとか。ここにいると、今のことだけ考えられる」
(今のことだけ)
「それは、環境のおかげだ」
「そうですかね」
「そうだ」
「じゃあ、あなたも環境の一部ですね」
(環境の一部)
(俺はフィオナにとって「環境」か。丘や風や空と同じカテゴリに入れられている)
(……悪くない位置づけだ。人間として意識されるより、環境として存在するほうが安全だ)
(安全なのだが)
(「環境の一部」と言われて、少しだけ物足りなく感じたのは)
(気のせいだ)
*
夕飯を作った。2人分。
食べながら、フィオナが言った。
「今日、午前中に一回断りましたよね」
「……ああ」
「初めてじゃないですか。断ったの」
「……そうかもしれない」
「でも、結局来てくれましたよね」
「……畑が早く終わっただけだ」
「嘘ですよね。あの量の手入れ、1時間じゃ終わらないですよね」
(……農作業の所要時間を把握されている)
「……終わったんだ」
「はいはい」
「はいは一回でいい」
「はい」
フィオナは笑った。
「でも、嬉しかったです」
「何がだ」
「断ったあとに、来てくれたこと。断らなかったときより、なんか嬉しかったです」
(断ったあとに来たほうが嬉しい)
(それは、なぜだ)
「断ろうとしたのに、来たってことは、来たかったってことじゃないですか」
(……来たかった)
(来たかったのか、俺は。フィオナの修行を見に、丘に)
答えなかった。
食器を洗った。2枚。
離れの明かりが灯った。
(なぜ断れないのか)
(答えは出なかった。しかし、問いの形が変わった)
(「なぜ断れないのか」ではなく、「なぜ断りたくないのか」)
(その問いに答えるには、もう少し時間がかかりそうだった)




