第二十七話「エマさん、全部見えていたんですか」
翌朝、エマを呼んだ。
フィオナが修行に出た後だ。丘に向かうのを確認してから、居間でエマと向かい合った。
テーブルの上に、あの古い本を置いた。
エマは本を見た。ニコニコが、少しだけ固まった。
「……坊ちゃま。その本は」
「昨日、書斎で見つけた。フィオナが本棚の奥から引っ張り出した」
「……さようでございますか」
「『縁の魔法の書』だ。縁の糸について書いてある」
エマは黙っていた。ニコニコは維持していたが、目の奥が少しだけ揺れていた。
「エマさん。聞きたいことがある」
「……はい」
「お前が見ていたのは、これか。縁の糸か」
エマは少し間を置いた。
それから、ゆっくりと頷いた。
「はい。私には、糸が見えます」
「……いつから見えていた」
「若い頃から、ぼんやりとは。人の周りに何かがあるのは感じておりました。しかし、はっきりと見えるようになったのは、こちらにお仕えしてからです」
「ヴェルツ家に来てからか」
「はい。ヴェルツ家は縁の糸が濃いお家です。そのお傍に数十年もおりますと、目が慣れるとでも申しましょうか。先代のお父様からも糸のことを教えていただきました。知識を得てからは、さらにはっきりと」
「……俺の糸も見えていたのか」
「はい」
エマのニコニコが、少し和らいだ。隠していたことを打ち明ける安堵のような表情だった。
「坊ちゃまの糸は、最初はとても細うございました。お一人でこちらに来られたとき、銀色の糸が一本だけ」
「銀色」
「リリア様との糸です。血縁の糸。あれだけは、最初からしっかりとございました」
(麻衣との糸。銀色。血縁。転生後も残っている糸だ)
「それ以外は」
「ほとんどございませんでした。使用人たちとの白い糸が少し。しかしとても細く」
(一人だったからだ。俺は意図的に人間関係を避けていた。当て馬としての安全のために)
「フィオナ様がいらしてからです」
「……何が」
「糸が増え始めたのは」
エマは手を膝の上に置いた。
「フィオナ様がいらした最初の日、坊ちゃまとフィオナ様の間に、とても細い金色の糸が見えました」
「……金色」
「はい。金色は」
「知っている。本に書いてあった」
金色は恋慕。
エマは頷いた。
「最初はほんとうに細い糸でした。しかし日を追うごとに太くなりました。フィオナ様が料理を覚えるたびに。畑を見るたびに。丘に修行に行くたびに」
「……毎日太くなっていたのか」
「毎日ではございません。しかし、確実に。お二人が一緒にいる時間が長いほど」
(一緒にいる時間が長いほど、糸が太くなる)
(俺がフィオナとの距離を取れなかったのは、ただ俺が弱かったからではない)
(ヴェルツ家の体質として、糸が勝手に育っていたからだ)
「……エマさん」
「はい」
「なぜ教えなかった」
エマは少し黙った。
「……坊ちゃまがお聞きにならなかったからです」
「聞かなかったのは、知らなかったからだ」
「はい。存じております。しかし、糸のことは……お話しするタイミングが難しいのです」
「タイミング」
「糸が見える者が、見えない者に糸の話をすると、関係が変わってしまうことがあります。知らなくてよかった距離感が、知ったことで壊れる」
(……確かにそうだ。俺は今、フィオナとの糸が金色だと知った。その知識が、もう俺の目を変えている)
「先代のお父様は、糸のことをよくご存知でした。いえ、お教えくださったのはお父様です。しかし坊ちゃまには黙っておくようにと。『時が来れば、あの子は自分で知る』と仰って」
「……父が、そう言っていたのか」
「お母様も同じお考えでした。坊ちゃまの糸を気にかけていらっしゃいました。『あの子の糸が増える日が来るといいけれど』と」
(……母が、俺の糸を)
(前世の記憶ではなく、この世界の母の記憶だ。ランベルトの母が、ランベルトの糸を心配していた)
「エマさん」
「はい」
「今、俺とフィオナの糸は、どのくらいだ」
エマはニコニコした。今日一番のニコニコだった。
「坊ちゃま。お二人の糸は、私がこれまで見た中で、最も太い金色の糸でございます」
(最も太い)
「……それは、その」
「素晴らしいことでございますよ」
「素晴らしい、のか」
「はい。とても」
エマは立ち上がった。
「お茶を入れてまいりますね」
「……ああ」
「坊ちゃま」
「何だ」
「糸のことを知っても、何も変わりません。糸はずっと前からあったのです。知らなかっただけで」
(知らなかっただけで、あった)
(ずっと前から)
*
午後、フィオナが修行から戻ってきた。
「ただいまです」
フィオナが「ただいま」と言うのが自然になっていた。
「おかえり」
「今日は長かったです。光がなかなか安定しなくて」
「……そうか」
「あなたが見にこなかったからですかね」
「……関係ないだろう」
「わかんないですよ。あなたがいると集中できるんですよ。前に言いましたよね」
(俺がいると集中できる)
(それは、糸と関係があるのだろうか)
(ヴェルツ家の体質。糸が速く太く育つ。近くにいるほど太くなる)
(フィオナが俺の近くにいると集中できるのは、糸が何かを伝えているのか)
わからなかった。
「昼飯、作るぞ」
「はい。今日は何ですか」
「干し果実の煮物の残りと、汁物」
「昨日のやつ美味しかったですよね。レシピ通り作っただけなのに」
「お前が見つけたレシピだ。手柄はお前のものだ」
「えへへ」
(「えへへ」。フィオナがそんな声を出すのは初めて聞いた)
(……糸が太くなった気がする。見えないからわからないが)
昼飯を作って、食べた。2人で。器は2つ。
食器を洗っているとき、フィオナが聞いた。
「あの本、読み終わったんですか」
「……どの本だ」
「昨日の古い本。金色の文字のやつ。すごい集中して読んでましたよね」
「……ああ。読んだ」
「面白かったですか」
「面白い、というか」
「というか?」
「……考えさせられる内容だった」
「何の本なんですか」
「……魔法の本だ。古い魔法の」
「魔法? 私でも読めますか」
「……お前が読んでも面白くないと思う」
「そうですか。じゃあいいです」
フィオナはあっさり引き下がった。
(フィオナにはまだ言えない。糸のことは、まだ)
(知ったら、何かが変わってしまう)
(エマの言葉。「知らなくてよかった距離感が、知ったことで壊れる」)
(今のこの距離を、壊したくなかった)
*
夜、書斎で本の続きを読んだ。
後半は具体的な記述が多かった。縁視の持ち主が記録した観察日誌のような内容。
「太き金色の糸を持つ者同士は、互いの感情に無意識に影響を与え合う。一方が悲しめば他方も沈み、一方が笑えば他方も軽くなる」
(互いの感情に影響を与え合う)
(フィオナが俺の近くにいると集中できるのは、これか)
(俺がフィオナの近くにいると落ち着くのも、これか)
「ただし、糸は感情を強制しない。糸は在るものを映すのみ。在らぬものを作り出すことはない」
(在るものを映す)
(在らぬものを作り出すことはない)
(つまり、糸がフィオナを俺に好きにさせているのではない。もともとある感情を、糸が映しているだけだ)
(……もともとある感情)
本を閉じた。
窓の外で、離れの明かりが灯っていた。
フィオナが起きている。
糸が見えなくても、明かりが見える。明かりが灯っているということは、フィオナがそこにいるということだ。
(糸が在るものを映すなら)
(俺のフィオナに対する感情は、もともと在るものなのか)
考えるのをやめた。今日は考えることが多すぎた。
しかし、離れの明かりからは目を逸らさなかった。




