第二十六話「この本棚、奥が深くないですか」
フィオナが戻ってきてから、日常が少しだけ変わった。
変わった、と言っても大きな変化ではない。朝起きて、畑に出て、フィオナが「おはようございます」と言って、大根に水をやって、飯を作って、食べて、修行に行って、帰ってきて、飯を作って、食べて、寝る。
同じだ。
しかし「同じ」の質が変わった。
以前は「毎日の繰り返し」だった。今は「戻ってきた日常」だった。
一度失って、取り戻した日常は、繰り返しとは違う。毎朝の「おはようございます」が、少しだけ重い。重いというか、温度がある。
(……気のせいだろう。フィオナは変わっていない。俺も変わっていない)
(変わっていない、はずだ)
*
3日目の朝、雨が降った。
畑仕事はできない。修行も中止。フィオナは離れから出てきて、「暇ですね」と言った。
「ああ。雨の日はやることがない」
「本とか読まないんですか」
「……本」
屋敷に書斎がある。ヴェルツ家の先代が使っていたらしい。俺がここに来たとき、すでに本棚には古い本が並んでいた。ほとんど読んでいない。
「書斎がある。使っていないが」
「見てもいいですか」
「好きにしろ」
フィオナと一緒に書斎に入った。
埃っぽかった。窓が小さく、光が少ない。本棚は壁一面を覆っていた。古い本が隙間なく並んでいる。
フィオナが本棚を見回した。
「すごいですね。全部古い」
「先代の蔵書だろう。中身は確認していない」
「確認してないんですか。半年も住んでて?」
「畑と飯で忙しかった」
「忙しくても本棚は見るでしょう普通」
「普通ではなかったらしい」
フィオナは本棚を端から眺め始めた。指で背表紙をなぞりながら、タイトルを読んでいる。
「農業概論。辺境地誌。魔力場基礎理論。……堅い本ばっかりですね」
「貴族の書斎だからな」
「あ、これ料理の本じゃないですか。『辺境の食文化と保存技術』」
「……あるのか」
「ありますよ。読みます?」
「後で見る」
フィオナは本棚の奥のほうに手を伸ばした。本棚の奥行きが深く、手前の本の裏に別の本が隠れていた。
「この本棚、奥が深くないですか。奥にも本がありますよ」
フィオナが手前の本を数冊抜いた。
奥から、古い本が出てきた。
表紙は革装で、かなり古びていた。金色の箔押しで文字が書かれていたが、半分以上が剥落していた。
読める部分を見た。
「……『縁の……法の……』」
「読めないですね」
「読めない。古い字体だ」
中を開いた。
ページは黄ばんでいたが、文字は読めた。この世界の共通語で書かれている。ただし文体が古い。
最初のページに、こう書いてあった。
「縁の魔法とは、人と人とのあいだに在る見えざる糸を視る術、およびその糸に関わる魔法体系の総称なり」
(……縁の魔法)
(見えざる糸)
(糸)
エマが何度も言っていた「糸」だ。
「糸が増えた」「糸が太い」「糸がきれい」「糸が複雑」。
エマが見ていたのは、これか。
「……どうしたんですか。固まってますよ」
「……いや。何でもない」
「何でもなくない顔してますよ」
「……この本、借りる」
「あなたの家ですよ」
「……そうだった」
本を持って書斎を出た。
フィオナは不思議そうな顔をしていたが、それ以上は聞かなかった。
*
昼飯を作って食べた。フィオナは料理の本を読みながら「こんな保存方法があるんですね」と言っていた。
俺は上の空だった。
食後、フィオナが修行に行こうとしたが、雨はまだ止んでいなかった。
「止まないですね」
「ああ」
「じゃあ、もう少し本読みます。あなたも読むんですよね。さっきの古い本」
「……ああ」
フィオナは居間のソファに座って、料理の本を開いた。
俺は書斎に戻って、古い本を開いた。
最初のページの続き。
「縁の糸は、全ての生者のあいだに在り。この世に生きる者は、誰もが微かなる糸の感応を持つ。ただし鮮明に視ることができるのは稀なり。素質ある者が長き歳月を経るか、あるいは濃き縁の場に身を置き続けることで、視る力は研ぎ澄まされる。なお、まれに生まれながらにして鮮明に視る者あり。これを先天性縁視と呼ぶ」
(縁の感応。この世界の人間には、微かに糸を感じる力がある。エマはそれが特に鋭いのだ。ヴェルツ家に数十年仕えて、濃い縁の場にさらされ続けた結果か)
「糸の色は関係の種類により異なる。金色は恋慕。白金色は友誼。白色は契約。銀色は血縁。その他、様々な色が存在す」
(金色は恋慕)
(エマが言っていた色。あの食卓で「金色と、青と、赤と、緑」と言った)
(金色。誰と誰の間の金色だ)
ページをめくった。
「糸の太さは、関係の深さに比例す。共に過ごす時間、感情の強度、信頼の積み重ねにより太くなる。距離によって細くなることはない」
(距離によって細くならない)
(エマが以前言ったことと同じだ。「距離では変わらない。関係の深さで変わる」)
さらにページをめくった。
「特筆すべきは、縁の魔法発祥に関わりし一族の体質なり。当該家系の者は、糸が他者より速く、太く育ちやすい。感情を抑えても糸は育つ。これは体質であり、意思によって制御することができない」
(感情を抑えても糸は育つ)
(制御できない)
本を閉じた。
(この本は、ヴェルツ家の書斎にあった。ヴェルツ家の先代の蔵書だ)
(「縁の魔法発祥に関わりし一族」)
(ヴェルツ家が、その一族なのか)
(俺は、ランベルト・ヴェルツだ)
(ランベルト・ヴェルツの体質として、糸が速く太く育ちやすい)
(感情を抑えても)
(……制御できない)
*
雨が止んだ。
夕方になっていた。フィオナが料理の本を持って台所に来た。
「新しいレシピ見つけたんですけど、試してもいいですか」
「……ああ。いいぞ」
「本当ですか。干し果実の煮物なんですけど」
「好きにしろ」
「……あなた、さっきからずっと変ですよ」
「変ではない」
「変です。また目を合わせなくなってる」
(……また、か)
フィオナがヒロインだと知ったとき、目を合わせられなくなった。今度は、糸のことを知った。
フィオナとの間に、金色の糸があるかもしれない。
いや。エマの反応を見る限り、ある。確実にある。
そして俺の体質は、その糸を制御できない。
「……すまない。少し考え事をしていた」
「いつも考え事してますよね」
「そうだな」
「教えてくれないんですよね」
「……そのうち、話せるときが来たら」
フィオナは「はあ」と溜息をついた。呆れの溜息だったが、怒ってはいなかった。
「まあいいです。干し果実、どこにありますか」
「棚の上だ」
「取ってください」
「……自分で取れ」
「届かないんです」
棚の上に手を伸ばして、干し果実の袋を取った。フィオナに渡した。
手が触れた。
(……今、糸が太くなっただろうか)
(見えないからわからない)
(見えないことが、こんなに落ち着かないとは思わなかった)
フィオナは干し果実を鍋に入れて、煮始めた。
俺は横で立っていた。
いつもの距離だった。しかし、いつもの距離に、見えない糸があるかもしれないという知識が加わった。
窓の外で、雨上がりの空が赤く染まっていた。




