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俺、当て馬なんで逃げます。――なんでついてくるんですか、ヒロインさん  作者: よるの 余白
II「縁糸と秘密」

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第二十五話「おはようございます」


 3日が経った。


 朝起きて、畑に出て、大根に水をやって、飯を作って、食べて、畑仕事をして、飯を作って、食べて、寝る。


 全部一人だ。


 フィオナがいた頃と同じ作業を、同じ順番でやっている。しかし、隣に誰もいない。


 「おはようございます」がない。


 出汁を取る人がいない。


 「合格」を待つ人がいない。


 石の上に座る人がいない。


 丘で光る人がいない。


 離れの明かりが灯らない。


 3日分の「ない」が、積み重なっていた。



 *



 4日目の朝。


 畑に出た。


 大根に水をやった。


 (……フィオナの返事はまだ来ない)


 延長申請の結果が出るまで3日程度と聞いた。もう4日経っている。


 (結果が出ているはずだ。手紙が届くまでの時間を考えると、あと1〜2日で何らかの連絡があるだろう)


 (認められていれば、戻ってくる)


 (認められていなければ)


 大根の葉を見た。風が吹いた。


 (……大根は逃げない。フィオナも逃げなかった。俺だけが逃げてきた)


 (そして今、フィオナがいなくなった)


 (逃げてきた俺のところから、フィオナがいなくなった)


 麻衣からの手紙も来ていなかった。ファインの件があるから、手紙の頻度を控えているのかもしれない。


 一人で煮物を作った。一人で食べた。一人で片付けた。


 午後、丘には行かなかった。



 *



 5日目。


 畑に出た。


 大根に水をやった。


 何もなかった。


 6日目。


 同じだった。



 *



 7日目の朝。


 畑に出た。


 大根に水をやった。


 朝の空気は澄んでいた。大根の葉に朝露がついていた。


 しゃがんで、大根の根元を確認した。2本目の収穫時期が近い。もう少し待てば、抜ける。


 (……一人で抜くか)


 前は二人で抜いた。「せーの」で。フィオナが作った掛け声で。


 一人で抜いても、大根は同じだ。味も同じだろう。


 しかし「せーの」は一人では言えない。


 大根の葉を見ていた。


 風が吹いた。


 朝の光が畑を照らした。


 (……平和だ。平和で、静かで、誰もいない)


 (俺が望んだ生活だ。一人で、大根を育てて、静かに暮らす。当て馬の運命から逃げて、ここで畑を見る)


 (望んだ通りの生活が、ここにある)


 (しかし)


 (望んだ通りの生活が、こんなに静かだとは思わなかった)



 *



 昼前だった。


 村の入口のほうから、馬車の音が聞こえた。


 (馬車。誰だ。レオンか。シャールか。クロードか)


 しかし馬車の音は屋敷には来なかった。村の広場で止まったようだった。


 気にしないことにした。畑仕事を続けた。


 大根の葉を整えた。水をやった。


 10分ほど経った。


 足音が聞こえた。


 畑の向こうから、誰かが走ってきた。


 (走っている?)


 顔を上げた。


 フィオナだった。


 走っていた。息を切らしていた。髪が乱れていた。旅の荷物を背負ったまま走っていた。


 畑の前で止まった。息が荒かった。


「――おはようございます」


 フィオナは、息を切らしながら、そう言った。


 大根の前で。


 俺が、しゃがんで大根を見ている前で。


「……おはよう」


「延長、認められました」


「……そうか」


「3日で済むって言ったのに、1週間もかかっちゃいました。事務手続きが遅くて」


「……そうか」


「戻ってきました」


「……見ればわかる」


 フィオナは荷物を下ろした。肩で息をしていた。汗をかいていた。


「……走ってきたのか」


「馬車が村の広場までだったので。そこから走りました」


「走る必要はなかっただろう」


「……なんか、走りたかったんです」


 フィオナは畑を見た。大根を見た。それから、俺を見た。


「大根、元気ですね」


「ああ。2本目がもうすぐ抜ける」


「……一人で抜いてないですよね」


「抜いていない」


「よかった」


 フィオナの「よかった」は、出汁が合格だったときの安堵と同じ声だった。しかし、少しだけ深かった。


「……待ってたんですか」


「待っていない。大根の収穫時期がまだだっただけだ」


「……大根の話をしてるんじゃないですよ」


「俺は大根の話をしている」


「嘘つき」


 フィオナは笑った。走ってきた直後の、汗をかいた顔で笑った。


 風が吹いた。大根の葉が揺れた。


 エマが屋敷の窓からこちらを見ていた。ニコニコしていた。今日のニコニコは、今までで一番うれしそうだった。



 *



 離れにフィオナの荷物を運んだ。


 フィオナは離れの中を見回した。布団が畳んであった。窓が開けてあった。フィオナが出発前に整えた通りだった。


「……変わってないですね」


「変える理由がない」


「掃除とか、してくれたんですか」


「エマがした」


「エマさんに感謝しないと」


 フィオナは布団を広げた。旅の荷物を片付けた。


「……ただいま、です」


「……ああ」


「言わないんですか」


「何を」


「おかえり、です」


 (……おかえり)


 (フィオナが「ただいま」と言った。これは「帰ってきた」という意味だ。帰ってきたということは、ここが「帰る場所」だということだ)


 (クロードが言った「家の味」。帰りたくなる味。フィオナは、ここに帰ってきた)


「……おかえり」


 言った。


 声が少し小さかった。しかし、聞こえたはずだ。


 フィオナは布団の上に座って、少しだけ目を伏せた。


「……ありがとうございます」


「礼を言うことではない」


「おかえりって言ってもらったの、初めてなので」


 (初めて)


 フィオナは平民だ。王立学園の寮にいた。帰る家がどこにあるのか、俺は聞いたことがなかった。


「……フィオナ」


「はい」


「昼飯を作る。何がいい」


「……何でもいいです」


「何でもいい、は困る」


「じゃあ、大根の煮物。最後に食べた、あれ」


「ああ。作る」


 離れを出た。


 台所に向かった。


 大根を取りに畑に行った。2本目の大根は、もう抜ける時期だった。


 (一人で抜くか)


 一人で抜いた。


 「せーの」は言わなかった。次に一緒に抜くときのために、取っておいた。


 台所に戻って、大根を切った。出汁を取った。煮物を仕込んだ。


 器を2つ出した。


 2つ。


 手が迷わなかった。



 *



 昼飯を食べた。2人で。


 大根の煮物は美味かった。フィオナは黙って食べた。食べ終わってから「美味しかったです」と言った。


 食器を洗った。2枚。


 洗いながら、フィオナが言った。


「……あの」


「何だ」


「学園に戻ってる間、ずっと考えてたことがあるんです」


「何を」


「出汁の取り方を忘れないように、毎日頭の中で復習してました」


「……律儀だな」


「でも、復習してるとき、出汁のことだけじゃなくて」


 フィオナは食器を拭く手を止めた。


「この台所のこととか、畑のこととか、大根のこととか、あなたのこととか」


「……」


「全部一緒に思い出しちゃうんです。出汁だけ思い出すことができないんです」


 フィオナは食器を棚に戻した。


「……変ですよね」


「変ではない」


「変です。だって、出汁の取り方を復習してるだけなのに、全然関係ないことまで思い出すんですよ」


 (全然関係ない、とフィオナは言う)


 (しかし、関係ないだろうか)


 (台所も、畑も、大根も、俺も。全部、フィオナの「ここの生活」だ。出汁は、その中の一つだ)


 (一つだけ切り離せないのは、全部がつながっているからだ)


「……フィオナ」


「はい」


「出汁は、ここで取ればいい」


 それ以上は言わなかった。


 フィオナも、それ以上は聞かなかった。


 夕飯も作った。2人分。


 離れの明かりが灯った。


 7日ぶりの明かりだった。


 見た。今度は、見ていることを隠さなかった。


 明かりは消えなかった。フィオナも、なかなか寝ないようだった。


 大根は畑で黙っていた。2本目が抜かれた穴の隣で、3本目が静かに育っていた。



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