第百二十八話「開封」
血が紋章に触れた瞬間、扉が震えた。
石の扉が。壁と一体化していたはずの石が。指先から伝わる振動は微かだったが、足元まで届いた。床が呼応していた。
フィオナが光を灯した。手のひらの光を、紋章に当てた。
血と光が混ざった。
紋章が発光した。大根の葉の意匠が、金色に浮かび上がった。蔵の暗がりの中で、紋章だけが光っていた。
音がした。錠が外れる音ではなかった。もっと深い音。石が石からはがれる音。長い年月の沈黙を破る音。
扉が、開いた。
地下への階段が、暗闇の中に降りていた。
古い空気が吹き上がってきた。何十年も閉じ込められていた空気。湿っていて、冷たくて、紙の匂いと土の匂いが混ざっていた。
「……開いた」
「開きましたね」
フィオナの光が階段を照らした。石段。苔が生えている。壁に水滴がついていた。
エマが蝋燭を持ってきた。
「坊ちゃま。蝋燭をどうぞ。地下は暗うございます」
「フィオナの光があるが」
「フィオナ様の光は修行用です。照明には蝋燭のほうが長持ちいたします」
(実用的な判断。エマは常に正しい)
3人で階段を降りた。俺が先頭。フィオナが2番目。エマが最後。
15段。短い階段だった。しかし、1段降りるごとに空気が冷たくなった。指先の感覚が鋭くなった。
*
地下は、思ったより広かった。
フィオナの光と蝋燭の炎が、壁を照らした。
石造りの部屋。天井が低い。立てるが、背の高い人間なら頭がつく。床は石板。乾いている。排水が良い。ヴェルツ家の農業技術が、地下室にも活かされていた。
壁一面に棚があった。棚には、巻物と製本された書物と、綴じられた紙束が並んでいた。
量が多い。30冊以上。
「……これが全部、縁の魔法の記録か」
「はい。ヴェルツ家が300年にわたって蓄積した、縁糸の魔法の全記録でございます」
「300年」
「はい。初代のヴェルツ家当主から、お父様の代まで。研究記録、実験記録、理論書、そして——」
エマが奥の棚を指した。他の書物とは別の場所に、1冊だけ分けて置かれていた。
赤い表紙。金の箔押し。他の書物より新しい。
「——あれが、お父様が最後に書かれた記録です」
赤い本を手に取った。重かった。物理的な重さではなく、中身の重さだった。
表紙に文字が刻まれていた。
「ランベルト・ヴェルツ——物語の記録」
(ランベルト・ヴェルツ。俺の名前ではない。先代のランベルト。父が。この本を書いたのは父だ)
「エマさん。これは」
「お父様が、ヴェルツ家と縁糸の魔法の関係を整理したものでございます。お亡くなりになる前に書かれました」
「亡くなる前に」
「はい。坊ちゃまにいつか読んでもらうために、と」
(いつか読んでもらうために。父は俺がこの本を読む日が来ることを知っていた。あるいは、願っていた)
*
他の棚も確認した。
300年分の記録。縁糸の成長に関する実験記録。糸の太さの計測方法。糸の色と感情の対応表。第1層の体質についての遺伝的分析。第2層の感応能力の訓練法。
そして、第3層。
「縁糸操作術——理論と実践」と題された巻物が3本。羊皮紙で書かれていた。触ると、表面がざらざらしていた。古い革の匂いがした。
「第3層の魔法。これが途絶えたとされていたもの」
「途絶えたのではございません。封じたのです。お父様が」
「なぜ封じた。具体的に」
「第3層の魔法は、糸を操る力です。結ぶ。切る。太くする。細くする。方向を変える。全てが可能です」
「全てが」
「はい。それは、人の感情を操ることと同義です。お父様は、この力が外に出れば、戦争の道具になると判断しました」
(戦争の道具。縁糸を操る力が軍事利用されたら、敵国の要人の感情を操作できる。同盟を破壊できる。婚姻を操作できる。確かに危険だ)
「セレスティーヌが欲しているのは、この第3層の記録か」
「おそらく。断縁は第3層の一部です。切ることだけを取り出したもの。しかし、完全な記録があれば、切るだけでなく、結ぶことも、操ることもできるようになります」
フィオナが横で聞いていた。光を灯したまま。地下室が温かい光に包まれていた。
「ランベルトさん」
「何だ」
「この記録を、セレスティーヌさんに渡すんですか」
「渡さない。しかし、隠し続けることもできない。セレスティーヌが知っている以上、いずれ問題になる」
「じゃあどうするんですか」
「……読む。まず俺が読む。父が何を書いたのか。ヴェルツ家が300年間、何をしてきたのか。全部理解した上で、どうするか決める」
赤い本を抱えた。
階段を上がった。地下の冷たい空気から、蔵の空気に戻った。少しだけ温かかった。
蔵を出た。外の空気が頬に当たった。冬の農村の空気。大根の匂い。土の匂い。生きている世界の匂い。
(地下には300年の記録がある。父の本がある。俺のルーツがある)
(読む。全部読む。逃げない。逃げるのはやめたのだから)




