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俺、当て馬なんで逃げます。――なんでついてくるんですか、ヒロインさん  作者: よるの 余白
VI 「ヴェルツ家の真実」

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第百二十九話「父の記録」



 文字が読めなかった。


 赤い本の最初のページ。インクが褪せている。いや、褪せているのではなく、手書きの文字が崩れている。父の字は、前に見た蔵の記録と同じ筆跡だったが、力が弱かった。


 (病中に書いたのか。あるいは、急いで書いたのか)


 目を凝らした。蝋燭を近づけた。蝋の匂いが紙に移った。


 少しずつ、読めるようになった。



 *



 父の記録。最初のページ。


「これを読むのは、息子だろう。ランベルト。お前に伝えなければならないことがある」


「ヴェルツ家は、300年前から縁糸の研究を続けてきた。第1層の体質は、ヴェルツ家の血に刻まれている。糸が3倍速で育ち、3倍太くなる。この体質は、研究のためにあった」


「研究の目的は、第3層——縁糸操作術の完成だった。初代当主は、糸を自在に操ることで、人と人の間の争いをなくそうとした。糸を結べば和解できる。糸を調整すれば誤解が解ける。理想的な目標だった」


「しかし、第3層が完成に近づいたとき、問題が起きた」


 ページをめくった。羊皮紙の感触。古い革の匂いと、父の手の跡が残った手触り。


「第3層の魔法を使うと、操作した相手の自由意志が弱くなった。糸を太くすれば相手は従順になる。糸を細くすれば相手は離れる。糸を結べば相手は惹かれる。全てが可能になった。しかし、それは愛ではなかった」


「操作された感情は、本物ではない。操作された絆は、偽物だ。私はそれを知った。妻との糸を、自分で太くしようとしたことがある。しかし、太くした瞬間、妻の目から何かが消えた。自分で選んだ光が、消えた」


 (父が母の糸を操作しようとした。そして、母の目から光が消えた。操作された感情は本物ではない。父は身をもって知った)


「私は第3層の記録を封じた。この力を世に出してはならない。しかし、記録を破棄はしなかった。いつか、この力を正しく使える人間が現れるかもしれない。その可能性を残すために」



 *



 中盤のページ。


「ランベルト。お前のことを書く」


「お前は生まれたとき、金色の糸を纏っていた。見たこともないほど太い糸だった。生まれた瞬間から。誰との糸でもない。世界そのものとの糸だった」


「エマに確認した。エマは泣いた。『この子は、世界に愛されて生まれてきました』と」


 (世界そのものとの糸。俺は生まれたときから、世界と太い糸で結ばれていた)


「しかし、同時に危険でもあった。お前の体質は通常のヴェルツ家の3倍ではなく、10倍だった。異常な強さだ。お前が誰かと関われば、その相手との糸は爆発的に太くなる」


「それはつまり、お前が本気で誰かを想えば、その糸は世界を変えるほどの力を持つということだ」


 ページが震えた。俺の手が震えていた。


「お前は強すぎるのだ、ランベルト。強すぎるから、物語の端に置かれた。中心にいたら、全てのバランスが崩れる。他の全ての結末が、お前の糸に飲み込まれてしまう」


 (強すぎるから消された)


 (当て馬にされたのは、弱かったからではない。強すぎたから消された)



 *



 最後のページ。


「ランベルト。お前がこれを読んでいるなら、お前は封印を解く覚悟を持ったということだ」


「覚悟があるなら、伝える」


「お前の糸は、制御できる。第3層の魔法を使えという意味ではない。お前が自分の感情を認めればいい。認めた感情は、暴走しない。否定した感情だけが、制御を失う」


「お前の母を想う気持ちは、私の操作ではなかった。お前が自分で育てた糸だ。それは本物だ。操作された偽物とは違う」


「いつかお前にも、自分で育てた糸ができるだろう。その糸を信じろ。操作するな。認めろ。そうすれば、お前の力は、世界を壊すのではなく、世界を温める」


「父より」


 本を閉じた。


 手が震えていた。蝋燭の炎が揺れていた。手の震えが蝋燭に伝わって、壁の影が揺れていた。


 フィオナが隣にいた。読んでいる間、ずっと隣にいた。何も読まず、何も聞かず、ただ隣に座って、光を灯していた。


「……読み終わった」


「はい」


「俺は、強すぎたから消されたらしい」


「強すぎた」


「ああ。ヴェルツ家の糸の体質が、通常の10倍。俺が本気で誰かを想えば、その糸は世界を変えるほどの力を持つ」


 フィオナは黙っていた。


「だから、ゲームの物語の端に置かれた。中心にいたら、他の全ての結末が、俺の糸に飲み込まれる。だから台詞3行。だから立ち絵なし。だから当て馬」


「……」


「当て馬になったのは、弱いからじゃなかった。強すぎたから。消されたんだ」


 フィオナが俺の手に触れた。震えている手に。指先が冷たかった。地下の冷気。しかし、触れた瞬間から温まり始めた。


「ランベルトさん」


「何だ」


「強すぎて消されたんですよね」


「ああ」


「でも、消えなかったですよね」


「……消えなかった」


「消えなかった。逃げて、大根を育てて、料理を作って、門の前で待って。消えずに、ここにいる」


「……ああ」


「お父様が書いていたんですよね。自分で育てた糸は本物だって。認めた感情は暴走しないって」


「書いていた」


「あなたはもう認めましたよね。大根に向かって」


 (大根に向かって。あの夜の裏庭で。好きだと言った)


「ああ。認めた」


「じゃあ、暴走しません。大丈夫です」


「なぜそう言える」


「だって、認めた後の出汁、一番美味しかったじゃないですか。暴走した出汁なら、まずくなるはずですよ」


 (……出汁で暴走を判定する女。この世界で唯一の判定基準だ)


「……ああ。まずくはならなかった」


「でしょう。だから大丈夫です」


 蝋燭の炎が静かに揺れていた。地下室は寒かった。しかし、手は温かかった。



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