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俺、当て馬なんで逃げます。――なんでついてくるんですか、ヒロインさん  作者: よるの 余白
V「糸を切る者たち」

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第百二十五話「この糸を、切りたくない」


 セレスティーヌの声は、低くて静かだった。


 冬祭りの翌日。別邸の門の前に、1人の女性が立っていた。灰色の衣ではなかった。黒い旅装。50代。銀の混じった黒髪。目が深かった。深すぎて、底が見えなかった。


 護衛はいなかった。信徒もいなかった。1人で来ていた。


「ランベルト・ヴェルツ殿」


「……あなたは」


「セレスティーヌ。灰糸教団の教団長です」


 風が吹いた。冬の風。セレスティーヌの髪が揺れた。白い息が、朝の光に溶けた。


「中に入りますか」


「いいえ。ここで結構です。長い話はしません」


 門の前で対峙した。石段の上と下。俺が上。セレスティーヌが下。しかし、見下ろしている感覚はなかった。この女性の目には、見下ろされることを許さない重さがあった。



 *



「ノエルを返してください」


「返す。……ノエルは物ではない。自分の意思で教団を離れた」


「自分の意思。……あの子の意思は、あなたの料理に惑わされたものです」


「惑わされた、とは」


「あなたの出汁、あなたの煮物、あなたの食卓。温かいもので包んで、判断を鈍らせた。それは操作です」


 (操作。俺の料理が操作だと言っている)


「操作ではない。飯を出しただけだ」


「飯を出すことが、操作なのです。縁糸は感情を増幅する。あなたの体質は糸を太くする。あなたの食卓で糸が太くなった結果、ノエルは教団を離れた。それは自由意志ではない。糸に引かれた結果です」


 (……反論が難しい。セレスティーヌの論理は一貫している。俺の体質が糸を太くする。食卓を共にすれば糸が育つ。糸が育てば感情が動く。感情が動けば判断が変わる。つまり、俺の存在自体が人の判断を歪めている、と)


「それを言うなら、全ての人間関係は操作だ。一緒にいれば感情が動く。感情が動けば判断が変わる。それは操作ではなく、繋がりだ」


「繋がりと操作の違いは何ですか」


「……相手が選んでいるかどうかだ」


「ノエルは選んだのですか。それとも、糸に選ばされたのですか」


 沈黙が落ちた。冬の風だけが、門の間を通り抜けた。


 (答えられない。ノエルが自分の意思で選んだのか、糸の影響で選ばされたのか。俺には判別できない。縁糸が見えないから)


 しかし、と思った。判別できないのは、俺が糸を見られないからだ。そして――それこそが、答えかもしれなかった。


「セレスティーヌ殿。一つ、訂正させてくれ」


「訂正」


「あなたは、俺が糸を太くして人を操っていると言った。ヴェルツの血だから、糸を操れると」


「違うのですか」


「違う。俺は、糸が見えない」


 セレスティーヌの眉が、わずかに動いた。


「ヴェルツの血を引いていても、俺には糸を見る力がない。生まれつき、ゼロだ。今あなたが、俺とノエルの間に糸を見ているとしても、俺にはそれが見えない。一度も、見たことがない」


「……見えない」


「見えないものを、どう操る。俺はノエルの糸を引いていない。引きようがない。俺がやったのは、飯を出したことだけだ。腹を空かせた人間がいたから、飯を出した。それだけだ。糸が太くなったのなら――それは俺が引いたんじゃない。俺の知らないところで、勝手に育ったんだ」


 セレスティーヌが、初めて言葉に詰まった。冬の風が、二人の間を通り抜けた。


「あなたは……糸を操る一族の末裔が、糸を見られないと言うのですか」


「言っている。皮肉だろう。あなたが一番恐れている糸の操作を、俺は構造的にできない。見えないんだから」


 セレスティーヌの深い目が、揺れた。一瞬。底のほうで、計算が狂った人間の目だった。しかしすぐに、元の静けさに戻した。


「ヴェルツ殿。私はあなたを悪人だとは思っていません」


「……そうですか」


「あなたは善意の人です。しかし、善意の人が最も危険なのです。悪意は見抜ける。しかし、善意に包まれた糸の増幅は、誰にも見抜けない」


「……あなた自身は。糸で苦しんだのか」


 セレスティーヌの目が変わった。深い底に、何かが光った。痛みだった。


「夫に裏切られました。縁糸で結ばれていたはずの夫に。糸があるから離れられなかった。20年間。子供を産み、家を守り、糸に縛られて。夫が別の女性と糸を結んだことに気づいたときには、私の人生の半分が終わっていました」


 (20年間。ノエルの母と同じだ。政略結婚。望まない縁。糸が鎖になる。この女性の痛みは本物だ)


「糸がなければ、もっと早く離れられた。もっと早く、自分の人生を生きられた。だから、糸は呪いです。私にとっては」


「あなたにとっては」


「はい。私にとっては。……全ての人にとっては、わかりません。しかし、私のような人間を、これ以上作りたくない」


 セレスティーヌの声が震えた。怒りではなかった。悲しみだった。


「ヴェルツ殿。あなたのヴェルツ家の地下には、縁糸の魔法の原本があると聞いています」


「聞いている、とは」


「古い文献にそう記されています。ヴェルツ家は、かつて縁糸を操る魔法を持っていた。その記録が封じられている」


「……」


「その記録を、公にしてください。縁糸の魔法がどのようなものか、世界に示してください。人々が判断できるように。糸が自然なものなのか、操作できるものなのか」


「公にしろ、と」


「はい。あなたが隠すなら、私が暴きます」


 セレスティーヌが踵を返した。黒い旅装の背中が、冬の朝日に照らされた。


「次に会うときは、ヴェルツ家の地下でしょう」


 去っていった。足音が石畳に響いた。硬い音。迷いのない足取りだった。



 *



 フィオナが台所から出てきた。


「聞こえてましたか」


「全部聞こえてました」


「どう思った」


「……セレスティーヌさんの痛みは本物です。嘘じゃない。20年間の痛み」


「ああ」


「でも、方法が間違っている。……と言いたいですけど、私には20年間苦しんだ経験がないから、方法が間違っているって言い切れないです」


 (フィオナは言い切れない。20年間苦しんだことがないから。正しさを主張するには、同じ痛みを知っている必要がある。俺にもその痛みはない)


「ランベルトさん。ヴェルツ家の地下に、本当に何かあるんですか」


「わからない。蔵の記録室は見た。しかし、地下は見ていない。エマに聞いてみる」


「聞きましょう。……でも、その前に」


「何だ」


「一つだけ言わせてください」


「言え」


「セレスティーヌさんが言ったこと。あなたの食卓が操作だって。糸に選ばされたんだって」


「ああ」


「私は、糸に選ばされていません」


 フィオナの声が変わった。断言の声。静かで、しかし揺るがない声。


「私があなたの隣にいるのは、糸のせいじゃないです。あなたの出汁が美味しいからです。あなたの握り飯が温かいからです。あなたが毎朝4時に起きて弁当を作ってくれるからです」


「それは」


「糸が太いのは知ってます。エマさんに聞きました。でも、糸が太いから隣にいるんじゃない。隣にいるから糸が太くなったんです。順番が逆なんです」


 (順番が逆。糸があるから一緒にいるのではない。一緒にいるから糸が育った。因果が逆だ)


「私は、この糸を切りたくない」


 フィオナが言った。


 冬の朝の台所で。湯気が立っている台所で。大根の匂いがする台所で。


「切りたくない。切られたくない。たとえ糸のせいで判断が歪んでいるとしても、この歪みが私の本当です。歪んでいてもいいんです。あなたの隣にいたいんです」


 (この糸を、切りたくない)


 フィオナの目に涙はなかった。涙ではなく、光があった。修行の光ではない。もっと静かな光。覚悟の光だった。


「……ありがとう」


「カウントに入れますか」


「入れる」


「何回目ですか」


「……わからない。数えるのをやめた」


「やめたんですか」


「ああ。数えるのをやめた。数える必要がなくなった」


「なぜですか」


「……全部が特別だからだ」


 フィオナが少しだけ笑った。泣き笑いではなかった。笑いだった。純粋な。


「全部が特別。……それ、今までで一番、あなたらしいです」


 台所の窓から、冬の朝日が差し込んでいた。大根の煮物の鍋に反射して、天井に金色の光が揺れていた。


 (この糸を、切りたくない。フィオナがそう言った。俺も同じだ。切りたくない。切らせたくない。誰にも)


 (セレスティーヌは来る。ヴェルツ家の秘密を暴きに。俺のルーツを。糸の真実を)


 (しかし、それは未来の話だ。今は、この朝がある。この出汁がある。この光がある)


 (この糸がある)

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