第百二十三話「ノエルの選択」
広場の朝は、人の匂いがした。
冬祭りの前日。露店が並び、焼き菓子の甘い煙が空に昇っている。人が多い。200人以上が広場を行き交っていた。
シャールが作った壇が、広場の中央にあった。木製。低い。しかし頑丈だった。
「シャール。高さは」
「30センチだ。低いほうがいい。高い壇は偉そうに見える。お前は偉くないだろう」
「偉くない」
「だろう。だから30センチだ」
(30センチ。シャールの建築哲学は的確だ。偉くない人間は、低い壇から話す)
フィオナが隣にいた。クロードが帳簿を持って待機していた。ファインが少し離れた場所に立っていた。麻衣が令嬢の姿で、ファインの横にいた。
レオンは来ていなかった。「王太子が同席すると政治的な意味が強くなる。お前の言葉だけで話せ」と伝言があった。
*
壇に上がる前に、群衆の端に、灰色の衣が見えた。
教団の信徒が来ている。10人ほど。腕を組んで、こちらを見ていた。
その中に、ノエルがいなかった。
(ノエルがいない。灰色の衣を着た集団の中に、ノエルの姿がない)
壇に上がった。30センチ。
200人の視線が集まった。
「大根貴族が何か言うぞ」「あの茶を出した男だ」「教団に茶を出したって本当か」
ざわめきが広がった。
口を開いた。
「俺はランベルト・ヴェルツだ。大根を育てている。大根を料理している。門の前で弁当を配っている。料理教室で出汁の取り方を教えている。それだけの人間だ」
ざわめきが少し収まった。
「最近、灰糸教団という組織が、縁糸を切る施術を行っている。縁は呪いだと言っている。切れば楽になると言っている」
「楽になった人がいるのは事実だ。望まない縁に苦しんでいた人が、糸を切って、苦しみから解放された。それを否定はしない」
灰色の衣の集団が、少しだけ動揺した。否定されると思っていたのだろう。
「しかし、切った後に何が起きているか。それを知っている人は少ない」
クロードに目配せした。クロードが帳簿のデータを読み上げた。
「切った人12人のうち10人に感情の減退。2人に日常生活への支障。切られた相手側にも精神的影響が4件。笑い方を忘れた人がいる。友達に忘れられた人がいる」
広場が静かになった。
「俺は料理人だ。料理人として言う。大根には苦みがある。苦い大根を食べやすくする方法は2つある。1つは、苦い部分を切り捨てる。もう1つは、出汁で煮込んで、苦みを甘みに変える」
「切り捨てれば、苦みは消える。しかし、大根の味も消える。煮込めば、時間がかかる。しかし、苦みが深みに変わる」
「縁糸も同じだ。切れば苦しみは消える。しかし、感情も消える。温めれば時間がかかる。しかし、苦しみが深みに変わる可能性がある」
200人が聞いていた。
「俺は切ることを否定しない。しかし、切る前に知ってほしい。副作用があることを。切ったら戻らないことを。そして、切る以外の方法があるかもしれないことを」
「温める方法を、俺たちは探している。フィオナ・エルストの光の魔力で、糸を浄化する研究が始まっている。切るのではなく、痛みだけを取り除く方法だ。まだ完成していない。しかし、可能性はある」
「俺が言いたいのは、それだけだ。切る前に、考えてほしい。温める方法があるかもしれない。出汁を飲んでから、決めてほしい」
壇を降りた。
拍手があった。全員ではない。半分くらい。しかし、半分で十分だった。
*
広場の隅で、動きがあった。
灰色の衣の集団から、1人が離れた。
ノエルだった。
灰色の衣ではなかった。白い服でもなかった。普段着だった。教団の印がない服。
ノエルが集団から歩いて離れた。集団が振り返った。
「ノエル。どこに行く」
ノエルが立ち止まった。振り返った。
「教団を離れます」
集団がざわめいた。
「ノエル。お前は幹部だぞ。セレスティーヌ様が」
「セレスティーヌ様には、手紙を書きました。私の考えは変わりました。切ることだけが救いではない。温めるという方法を、私は学びました」
「学んだ? 誰に」
「大根貴族に」
ノエルが俺のところに歩いてきた。200人が見ていた。灰色の集団が見ていた。
「ランベルト殿」
「ノエル殿」
「教団を離れました」
「聞こえた」
「行く場所がありません」
「うちに来い。飯を出す」
「……またですか」
「また、だ。何度でも。大根は逃げない」
ノエルが笑った。今までで一番、寂しくない笑いだった。
*
夕方。別邸。
ノエルに飯を出した。冬大根の煮物。いつものやつ。
フィオナも一緒に食べた。3人。
「ノエルさん。教団を離れて、大丈夫ですか」
「大丈夫ではないかもしれません。セレスティーヌ様は許さないでしょう。しかし、あの場所にいても、もう誰も温められない」
「温められない」
「はい。切ることしか知らない場所では、温め方を教えられない」
ノエルが煮物を食べた。
「ランベルト殿。一つお願いがあります」
「何だ」
「料理教室で、教えてもらえませんか。料理を。……私は切ることしか知らない。温め方を学びたい」
「来い。毎回来い。大根は逃げない」
「2回目です。そのセリフ」
「何度でも言う」
フィオナが横で笑った。
窓の外に、冬祭り前夜の王都。遠くで花火の準備をしている音が聞こえた。小さな爆発音。祭りの匂い。火薬と焼き菓子の混ざった匂い。
灰色の月は、もう出ていなかった。




