第百十九話「灰と光」
灰色の封蝋がついた手紙が、ノエルの手の中にあった。
料理教室の後だった。他の生徒が帰った後、ノエルが台所に残っていた。手紙を握ったまま。封蝋の灰色が、指先に移っていた。
「ノエル殿。読まないのか」
「読みました。来る前に」
「それなら、なぜ握っている」
「……手放せないんです。捨てたいのに」
俺は何も聞かなかった。ノエルが話すのを待った。
台所の鍋にまだ残っていた出汁を温め直した。火を点けた。ガスではない。薪だ。薪が爆ぜる音が小さく響いた。
ノエルが口を開いた。
「教団長からです。セレスティーヌ様から」
「教団長」
「はい。……私が料理教室に通っていることが報告されたようです」
「報告」
「教団には情報の共有体制があります。幹部の行動は教団長に筒抜けです」
(筒抜け。営業の社内報告と同じだ。……いや、今のは営業の比喩ではなく、単純な事実として)
「何と書いてあった」
「『ヴェルツ家の人間と親しくすることは、教団の理念に反する。縁糸の成長を促す家系と交流することは、教団の立場を危うくする。速やかに距離を取れ』」
ノエルの声が平坦だった。手紙の内容を暗記している。何度も読んだのだろう。
「距離を取れ、と」
「はい」
「お前はどうする」
ノエルが手紙を見た。灰色の封蝋。灰色の教団。灰色の信念。
「……わかりません」
出汁が温まった。椀に注いだ。ノエルの前に置いた。
湯気が上がった。大根の甘い匂いが、灰色の封蝋の匂いを塗り替えた。
「飲め。考えるのはその後でいい」
ノエルが椀を持った。手が震えていた。しかし、口をつけた。飲んだ。
「……温かい」
「ああ」
「この温かさが、教団の理念に反するんですか」
「知らない。しかし、温かいものを飲んで考えが悪くなることはない」
ノエルが椀を両手で包んだ。冬の台所で。薪の火が揺れていた。
*
フィオナが離れから来た。修行を終えた後だった。手が少しだけ冷たそうだった。
ノエルがまだいることに、少しだけ驚いた。しかし何も言わず、自分も椀を取って出汁を注いだ。
3人で台所にいた。薪の火。出汁の匂い。窓の外の冬の暗さ。
「ノエルさん。大丈夫ですか」
「大丈夫です。……大丈夫ではないかもしれません」
「大丈夫じゃないときは、大丈夫じゃないって言っていいんですよ。ここでは」
ノエルがフィオナを見た。
「フィオナ殿。一つ聞いてもいいですか」
「はい」
「あなたの光は、温かいですか」
「温かいです」
「その温かさは、どこから来るんですか」
フィオナが少しだけ考えた。
「……隣にいる人から、だと思います」
俺を見なかった。見なくても、伝わった。
ノエルが出汁を飲み干した。椀を置いた。
「セレスティーヌ様は、縁糸で夫に裏切られた方です。縁糸に対する恨みは本物です。教団を作った動機も、苦しむ人を救いたいという気持ちも、本物です」
「しかし」
「しかし、方法が……切ることしか知らないんです。温めるということを知らない。温められたことがないから」
(温められたことがない。セレスティーヌは縁糸で苦しんだ。誰にも温められず、自分で糸を断った。その経験が教団を作った。切ることが救いだと信じている。なぜなら、他の方法を経験したことがないから)
「ノエル殿。お前は温められた。今日、この台所で」
「……はい」
「温められた人間が、温め方を教えられる。切ることしか知らない人間には、温め方を知っている人間が必要だ」
「私に、できるでしょうか」
「わからない。しかし、できるかどうかを考える前に、出汁を飲んでいる時点で、お前はもう変わり始めている」
*
ノエルが帰った。
玄関で振り返った。
「ランベルト殿。セレスティーヌ様が、近いうちに動くかもしれません」
「動く」
「はい。教団の理念に反する人間を排除しようとするかもしれません。……あなたを」
「排除」
「ヴェルツ家は縁糸の成長体質を持つ家系です。教団にとって、あなたは『縁の象徴』です。象徴を潰せば、教団の正当性が増す」
ノエルの目が真剣だった。警告だった。教団の幹部が、教団の次の手を教えてくれた。
「ノエル殿。この警告は、教団の裏切りにならないか」
「なります。……しかし、出汁を飲んだ人間には、恩があります」
ノエルが去った。灰色の封蝋の手紙をポケットに入れたまま。
玄関の戸を閉めた。冬の夜の冷気が頬を刺した。
(教団が動く。俺を狙う。縁の象徴として。ヴェルツ家を潰しに来る)
台所に戻った。フィオナがいた。椀を洗っていた。
「聞こえてましたか」
「聞こえてました」
「怖いか」
「怖くないです」
「嘘だろう」
「嘘じゃないです。……あなたが隣にいるので」
薪の火が、最後の一つを燃やし尽くそうとしていた。オレンジの光が壁に揺れていた。




