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俺、当て馬なんで逃げます。――なんでついてくるんですか、ヒロインさん  作者: よるの 余白
V「糸を切る者たち」

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第百十八話「温め直し」



 雨だった。


 冬の雨。冷たく、重く、音がない。屋根を叩く音すら吸い込まれるような雨。


 裏庭の大根が濡れていた。葉に水滴がたまり、重さで垂れている。土の匂いが立ち上っていた。濡れた石の匂い。冬の泥の匂い。


 弁当箱を持って、学園に向かった。



 *



 医務室。


 リーナは昨日と同じ姿勢でベッドにいた。天井を見ている。しかし、見ているのかどうかもわからない。


「リーナ殿。持ってきた」


 弁当箱を開けた。冬大根の煮物。まだ温かかった。布で包んで持ってきた。


 湯気が立った。大根の甘い匂いが医務室に広がった。消毒薬の匂いを上書きした。


 リーナの鼻が動いた。かすかに。匂いに反応した。


「食べられるか」


 反応がない。


 フィオナが椅子を引いて座った。リーナの隣に。


「リーナ先輩。私、フィオナです。覚えてますか」


 瞬きがあった。


「覚えてくれてますね。……これ、食べてみてください。温かいですよ」


 フィオナがスプーンで煮物を掬った。リーナの口元に運んだ。


 リーナの唇が、わずかに開いた。


 煮物が口に入った。


 咀嚼は、ゆっくりだった。機械的だった。しかし、飲み込んだ。


 もう一口。フィオナが運んだ。リーナが飲み込んだ。


 3口目で、リーナの目が動いた。天井ではなく、フィオナを見た。


「……あったかい」


 声だった。昨日は出なかった声。


「はい。温かいです。ランベルトさんが作りました」


「ランベルト……先生?」


「はい。大根の先生です」


 リーナの目の端に、水滴が浮いた。涙ではなかった。涙を流す力もない。しかし、何かが溶け始めていた。


 フィオナが手をかざした。光を灯した。小さく。温かく。リーナの胸の上に。


「リーナ先輩。あなたの糸は切れていません。凍っているだけです。温めれば、動きます」


「凍って……」


「はい。友達に忘れられて、辛くて、凍ったんです。でも、糸はまだあります。あなたの中に」


 光がリーナの胸を温めた。体ではなく、もっと深い場所を。


 リーナの指が動いた。フィオナの手を握った。弱い力だった。しかし、握った。


「……名前。あの子の名前、覚えてる。私だけが」


「覚えているなら、糸はまだ生きています」


「でも、あの子は忘れたのに」


「あの子が忘れても、あなたが覚えていれば、糸はなくなりません。片方が持っていれば」


 (片方が持っていれば。フィオナの言葉。一方的に覚えていることは、無意味ではない。片方が糸を持っていれば、糸は消えない)


 リーナが泣いた。声を出さずに。涙が頬を伝った。


 泣ける、ということは、感情が戻り始めているということだ。



 *



 医務室を出た。


 廊下は静かだった。雨の音だけが、窓越しに聞こえていた。


 フィオナの手が震えていた。光を使った後の反動か。それとも別の理由か。


 俺はフィオナの手を取った。


 考えるより先に、体が動いていた。


 フィオナの手は冷たかった。光を灯した後は、手が冷える。農村のときから知っていた。


「……ランベルトさん」


「手が冷たい。温める」


 それだけ言った。フィオナの手を、両手で包んだ。


 フィオナは何も言わなかった。嘘つきとも、カウントとも言わなかった。


 ただ、手を預けた。


 廊下に2人の影が落ちていた。雨の灰色の光の中で。


 (俺が先に動いた。フィオナが突っ込む前に。フィオナが笑う前に。俺が手を取った。これは護衛ではない。営業でもない)


 (これが俺の答えだ。名前はもうわかっている。言葉にしなくても、手が答えを出した)


 30秒ほどそうしていた。フィオナの手が温まった。


「……ありがとうございます」


「カウントに」


「入れません。……入れたら、壊れてしまいそうなので」


「壊れる」


「はい。今のを数字にしたら、軽くなってしまう。だから、入れません」


 手を離した。


 廊下を歩いた。並んで。いつもの距離。30センチ。



 *



 帰宅。


 台所に立った。夕飯を作った。


 大根の煮物。リーナに出したのと同じもの。


「同じメニューですね」


「ああ。自分でも食べたかった」


「食べたかった」


「ああ。温かいものを。今日は冷えたから」


 雨が窓を叩いていた。台所は温かかった。出汁の湯気が天井に昇って、窓の内側に水滴をつけた。


「フィオナ」


「はい」


「リーナ先輩の糸は、フィオナの光で温められた。しかし、友達の記憶は戻っていない。片方が覚えていても、もう片方は忘れたままだ」


「はい」


「それでも、糸は残ると言ったな」


「言いました」


「俺もそう思う。片方が持っていれば、糸は消えない」


「はい」


「……もし俺が消えたら、お前は覚えていてくれるか」


 フィオナの箸が止まった。


「消えるんですか」


「消えない。消えないと言った。しかし、もしもの話だ」


「もしもの話はしないでください」


「しないほうがいいか」


「しないほうがいいです。……でも、答えは言います」


「何だ」


「覚えてます。世界が終わっても。ゲームがリセットされても。あなたのことは、忘れません」


 フィオナの声が静かだった。断言だった。感情的ではなく、事実を述べる声だった。屋上で「あなたがいなくなったら困ります」と言ったときと同じトーンだった。


 「覚えてくれるか」と俺が先に聞いた。フィオナが突っ込んだのではない。俺が先に弱さを見せた。


 (初めてだ。俺が先に、弱い部分を見せた。営業マンは弱みを見せない。しかし、今日は営業マンではなかった。リーナの凍った手を見て、フィオナの冷たい手を握って。弱くなった)


 (弱くなったのではない。正直になった)


 雨が降り続けていた。台所の窓に水滴が流れていた。出汁の匂いが、部屋を満たしていた。




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