第百十七話「消えた笑顔」
マリアの目が赤かった。
門の前に来たとき、すぐにわかった。泣いた後の目だ。鼻の頭も赤い。眼鏡が少しずれている。
「マリア。どうした」
「……先生。リーナ先輩が」
「リーナ」
「3年生の。……前に話しました。教団に行った友達がいるって」
「ああ。覚えている」
「その友達じゃなくて、リーナ先輩本人が……今朝、教室で倒れました」
フィオナが駆けつけた。
「何があったんですか」
「リーナ先輩、朝から様子がおかしかったんです。顔色が白くて、誰に話しかけられても反応しなくて。授業が始まったら、そのまま椅子から崩れ落ちて」
「今はどこに」
「医務室です。でも、お医者様が『体に異常はない。心の問題だ』って」
(心の問題。体に異常がなくて、心が壊れている。糸を切られた人間の症状と同じだ)
「リーナ先輩は、教団に行ったのか」
「行ってないはずです。でも……友達が行ったんです。リーナ先輩と一番仲が良かった友達が、先月、糸を切ってもらって。それから、リーナ先輩のことを覚えていないって言い出して」
マリアの声が震えた。
「覚えてないんですよ。6年間一緒にいた友達のことを。名前も、顔も、一緒に過ごした時間も。全部忘れたって。リーナ先輩はそれを知って……」
(友達に忘れられた。自分との糸を切られた側の人間。切った側は楽になる。しかし、切られた側は違う。相手に忘れられた事実だけが残る)
「マリア。俺が医務室に行く」
「先生が?」
「ああ。護衛だが、学園の講師でもある。講師として」
フィオナが隣に並んだ。何も言わなかった。一緒に歩き出した。
*
医務室。
リーナは白いベッドに横たわっていた。19歳。茶色い髪。目を開けているが、天井を見ているだけだった。
医務官が言った。
「体に外傷はありません。熱もない。しかし、問いかけに反応しません。意識はあるのですが、感情が……停止しているように見えます」
「感情が停止」
「はい。名前を呼んでも、頬をつねっても、反応がない。泣きも怒りもしない」
(感情停止。糸を切られたのではない。糸を切られた相手から忘れられたショックで、自分の感情が凍った。断縁の間接被害だ)
リーナの手を見た。冷たかった。冬の寒さとは違う冷たさ。内側から冷えている。
「リーナ殿。聞こえるか」
反応がなかった。
「俺はランベルト・ヴェルツだ。料理教室の講師だ。大根貴族と呼ばれている」
反応がなかった。
「大根の煮物を食べたことはあるか」
瞬きがあった。かすかに。
「食べたことがないなら、今度持ってくる。冬大根は甘い。食べれば、少しだけ温かくなる」
リーナの指が動いた。わずかに。握るような動きだった。
「……持ってくる。待っていてくれ」
医務室を出た。
フィオナが横にいた。目が潤んでいた。
「ランベルトさん」
「泣くな」
「泣いてません」
「泣きそうだ」
「泣きそうです。……あの子、友達に忘れられたんですよね。一方的に。自分だけが覚えていて、相手は何も覚えていない」
「ああ」
「……それって、一番辛いことじゃないですか」
(一番辛い。好きな相手に忘れられること。覚えているのは自分だけ。相手の中から、自分が消えている)
風が廊下を通り抜けた。冬の風。冷たかった。
*
午後。ファインに報告した。急使で。
「断縁の間接被害が出ています。切られた側の人間が、精神的に崩壊しています」
ファインの返事は夕方に届いた。
「深刻だ。断縁は切った側だけでなく、切られた側にも影響する。糸は双方向だ。片方を切れば、もう片方にも衝撃が走る。教団はこの副作用を把握しているのか」
(教団は把握しているのか。ノエルは知っているのか。知っていて施術を続けているのか。知らないのか)
*
夕方。帰宅。
台所に直行した。煮物を作った。冬大根。一番甘い部分を選んだ。出汁を丁寧に取った。弱火で1時間。
フィオナが横で手伝った。何も聞かなかった。何を作っているか、誰のために作っているか。聞かなくても知っていた。
弁当箱に詰めた。
「明日、医務室に持っていく」
「はい」
「お前も来るか」
「行きます。……私の光で、何かできるかもしれません」
「光で」
「浄化。……リーナ先輩の糸は切られていません。凍っているだけです。温めれば、戻るかもしれない」
(温めれば戻る。大根と同じだ。凍った大根も、ゆっくり温めれば、また食べられるようになる)
「明日、一緒に行こう」
「はい」
夕飯を食べた。今日はフィオナが盛り付けた。
窓の外に、冬の空。星が少しだけ見えた。灰色ではなかった。月は白かった。
しかし、リーナの手の冷たさが、まだ指先に残っていた。




