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俺、当て馬なんで逃げます。――なんでついてくるんですか、ヒロインさん  作者: よるの 余白
V「糸を切る者たち」

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第百十六話「大根の食卓」



 ノエルが包丁を握ったまま、動かなかった。


 大根の前で。まな板の上で。銀色の髪が湯気でわずかに湿っている。白い指が柄を掴んでいるが、刃は大根に触れていない。


「ノエル殿。大根は逃げない」


「わかっています。……切ったことがないんです。野菜を」


「25年間一度もか」


「貴族でしたので」


 料理教室。参加者22人。そのうち1人が、灰糸教団の幹部。


 マリアがノエルの隣に立った。


「ノエルさん。こう持つんですよ。右手で柄を握って、左手は猫の手」


「猫の手」


「指を丸めて。……そう。そうすると指を切らないんです」


 ノエルが猫の手を作った。ぎこちない猫の手だった。


 デュランが反対側の席で、黙って3ミリの大根を量産していた。


「デュラン。お前の3ミリは完璧だな」


「毎回来ていますから」


「ノエル殿に手本を見せてやれ」


 デュランがノエルを見た。ノエルがデュランを見た。


 デュランの父レイモンド伯爵は教団に妻の糸を切ってもらった。ノエルはその教団の幹部。2人の間に、妙な空気が流れた。


 しかしデュランは何も言わず、大根を1つ、ノエルの前に置いた。


「3ミリだ。これを目標にしろ」


「……ありがとうございます」


 包丁の音が台所に響いた。22人分の包丁の音。大根を切る音だけが、しばらく続いた。



 *



 煮込みの時間。弱火で30分。待つ時間。


 フィオナがノエルの隣で鍋を見張っていた。


「ノエルさん。煮込みの間って、何をするんですか」


「何も。待つだけだ」


「待つだけって、退屈じゃないですか」


「退屈です。教団では、待つ時間がありませんから。常に誰かの相談を受けて、施術の準備をして」


「忙しいんですね」


「はい。……こんなに静かに鍋を見たのは、初めてかもしれません」


 鍋の蓋が小さく震えた。中で出汁が対流している音。ことこと、という音。


 ノエルが鍋を見ていた。目の色が変わっていた。穏やかというより、虚ろに近い表情から、少しだけ何かが戻ったような目。


 (ノエルが鍋を見ている。この男は、誰かのために何かが煮えるのを待つ経験がなかったのかもしれない。母が亡くなった後、家を出て、教団に入って。食卓を共にする相手がいなかった)


 俺はそれ以上考えなかった。考える代わりに、漬物を切った。



 *



 試食の時間。


 22人が一斉に蓋を開けた。


 湯気が立ち上った。大根の甘い匂いが台所を満たした。冬の大根特有の、土の匂いと蜜の匂いが混ざった香り。


 ノエルが自分の鍋の蓋を開けた。


 中を見た。大根が透き通っていた。出汁を吸って、琥珀色に変わっていた。


「……これを、私が作ったのですか」


「お前が切って、お前が鍋に入れて、お前が火加減を見た。お前の料理だ」


 ノエルが一口食べた。


 箸を持つ手が震えていた。


「……温かい」


 それだけ言った。


 マリアが横で言った。


「ノエルさん。美味しいですか」


「……ああ。美味しい」


「よかった。先生の料理教室は、最初にそれを感じるのが一番大事なんですよ」


 デュランが自分の煮物を食べていた。食べ終わって、ノエルの鍋を覗いた。


「……お前のほうが柔らかいな。火加減が丁寧だったのか」


「丁寧……というか、どうしていいかわからなくて、弱火のままにしていました」


「結果的に正解だ。大根は弱火のほうが甘くなる」


 デュランがノエルに料理の講評をしている。茶会で「格が釣り合わない」と言った男が、教団の幹部に煮物のアドバイスをしている。


 (この台所では、肩書が消える。貴族も教団も、大根の前では平等だ)



 *



 料理教室が終わった。生徒たちが帰っていく。


 ノエルが残った。台所の片付けを手伝っていた。頼んでいないのに。


「ノエル殿。帰らなくていいのか」


「少し、ここにいてもいいですか」


「構わない」


 ノエルが鍋を洗った。ぎこちない手つきで。水がはねて、白い服が濡れた。


「……服が濡れているぞ」


「大丈夫です。……水に触れるのも久しぶりです」


 (水に触れるのが久しぶり。この男は、自分の手で何かをする経験が極端に少ない。貴族として使用人に任せ、教団幹部として施術に集中し。自分の手で鍋を洗ったことがない)


 フィオナが布巾を渡した。


「ノエルさん。拭いてください。濡れたままだと冷えますよ」


「ありがとうございます」


 ノエルが布巾で腕を拭いた。大根の匂いが布巾に染みていた。


「……この匂い。大根の」


「はい。この台所、大根の匂いが染みついてるんです。エマさんが言ってました」


「エマさんとは」


「ランベルトさんの家の使用人です。農村にいます」


「農村。……ランベルト殿が逃げた場所ですか」


「逃げた場所で、帰る場所です」


 ノエルが少しだけ笑った。前回とは違う笑いだった。寂しさが薄くなっていた。


「私には、帰る場所がありません」


「作ればいい」


 俺が言った。フィオナではなく。俺が。


「作る」


「ああ。俺も最初はなかった。逃げて、大根を植えて、飯を作って、人を集めて。帰る場所は、自分で作った」


「自分で」


「ああ。今日お前は、自分で鍋を洗った。大根を切った。煮物を作った。全部、自分の手でやった。帰る場所は、自分の手で作るものだ」


 ノエルが鍋を持っていた。洗い終わった鍋。きれいになった鍋。


「……考えてみます」


「急がなくていい」


「ランベルト殿は、いつもそう言いますね」


「急いで良いことは、あまりない。出汁も、人間関係も」


 ノエルが帰った。玄関を出るとき、振り返った。


「ランベルト殿。また来てもいいですか。料理教室」


「来い。大根は逃げない」


 玄関の戸が閉まった。冬の冷たい空気が一瞬入って、すぐに台所の温かい空気に押し戻された。




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