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俺、当て馬なんで逃げます。――なんでついてくるんですか、ヒロインさん  作者: よるの 余白
V「糸を切る者たち」

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第百十四話「ノエルの真意」



 セリーヌは3日間、別邸にいた。


 毎食、大根の味噌汁を出した。


 3日目の朝、セリーヌが言った。


「……大根って、こういう味でしたっけ」


「ああ。大根の味だ」


「なんか……覚えている気がする。昔、誰かが作ってくれた。……母、だったかもしれない」


 (母。セリーヌが「母」という言葉を使った。3日前は自分の名前も不確かだった。味噌汁が記憶を引き出しているのか)


「お母さんの味噌汁を覚えているか」


「味噌汁。……味噌汁かどうかはわかりません。でも、温かいものを、誰かが出してくれた。その記憶だけが、ぼんやりと」


 (ぼんやりと。完全には戻らない。しかし、消えてもいない。出汁が刺激した記憶の断片)


 セリーヌは翌日、知人に引き取られて帰った。


 帰り際に言った。


「大根の味、覚えておきます。……覚えておけたらいいな」


「覚えておけ。忘れても、また食べに来ればいい」


「……ありがとうございます」


 (出汁で記憶が完全に戻ることはなかった。しかし、断片は戻った。温かさの記憶。母の記憶。全部は戻らなくても、断片は戻る。それは希望か)



 *



 ノエルに会いに行った。


 俺から。


 教団の建物ではなく、王都の茶店を指定した。中立の場所。


 ノエルが来た。白い服。穏やかな笑み。


「ランベルト殿。お呼びいただいて光栄です」


「ノエル殿。一つ聞きたいことがある」


「何でしょう」


「教団の断縁術で、記憶の消失が起きている。知っているか」


 ノエルの表情が少しだけ変わった。穏やかさの下に、何かが通った。


「……知っています」


「知っていて、続けているのか」


「続けています。……しかし、問題があることも認識しています」


「問題があるとわかっていて、なぜ止めない」


「止めたら、苦しんでいる人を見捨てることになるからです」


 (見捨てる。教団に来る人は、縁で苦しんでいる。断縁を止めたら、その人たちは苦しみ続ける。しかし、続ければ記憶を失う人が出る。どちらを選んでも犠牲がある)


「ノエル殿。お前の母の話を聞かせてくれ。前に少しだけ聞いた。もっと聞きたい」


 ノエルが茶碗を持つ手が、少しだけ震えた。


「……母は、父との政略結婚で20年間苦しみました。糸が見えるたびに、自分の意思で選んだのではない絆に縛られていると感じていた」


「20年間」


「はい。母は笑わなくなりました。食事をしなくなりました。私が何を話しかけても、目が合わなくなりました」


「……辛かったな」


「辛かったです。10歳の子供には、母がなぜ笑わないのかわかりませんでした。15歳になって、縁糸のことを知りました。母を苦しめているのが、父との糸だと」


「それで教団に」


「教団に入ったのは20歳のときです。母の糸を切りました。私自身の手で」


 (自分の手で。ノエルは教団に頼んだのではなく、自分で母の糸を切った)


「切った後、母は笑いましたか」


「……少しだけ。しかし、前のような笑い方ではありませんでした。穏やかすぎる笑いでした。以前の母の笑いには、怒りも悲しみもあった。切った後の笑いには、何もなかった」


 (何もない笑い。カテリーナと同じ。セリーヌと同じ。ノエル自身が、副作用の最初の目撃者だ)


「ノエル殿。お前は、母の糸を切ったことを後悔しているか」


 ノエルが俺を見た。目が揺れていた。初めて見る揺れだった。


「……わかりません。母は苦しまなくなりました。でも、母ではなくなりました。どちらが良かったのか、今でもわかりません」


 (わからない。10年間わからないまま、教団を率いている。わからないから、「もっと良い方法」を探して浄化の研究をしている。断縁ではなく浄化。痛みだけを取り除く方法。ノエルの本当の目的はそれだ)


「ノエル殿。浄化が実用化されたら、断縁を止めるか」


「止めます。浄化で苦しみを取り除けるなら、糸を切る必要はない。記憶も感情も残る。それが私の望みです」


「しかし、今は浄化が実用化されていない。だから断縁を続けている」


「……はい。苦しんでいる人がいる以上、何もしないわけにはいかない」


 (何もしないわけにはいかない。ノエルは善意で動いている。しかし、善意の手段に副作用がある。副作用を知りながら続けている。それは善か悪か)


「ランベルト殿。一つ聞いてもいいですか」


「何だ」


「あなたは、苦しんでいる人を見捨てますか。もし断縁以外に方法がなかったら」


「……見捨てない。しかし、副作用を隠すこともしない」


「隠していない」


「セリーヌという女性がいた。自分の名前に確信が持てなくなっていた。教団は彼女に副作用の説明をしたのか」


 ノエルが黙った。


「……全ての信者に説明が行き届いているかは、保証できません」


「保証できない。……それは、営業で言えば、商品の欠陥を知りながら全顧客に通知していないのと同じだ」


「営業。……あなたはいつも営業で例えますね」


「営業以外の言い方を知らない」


「知っているでしょう。あなたは嘘つきだから」


 (嘘つきと言われた。フィオナ以外で3人目。デュラン、そしてノエル。嘘つきの評判が広がっている)


「嘘つきだ。しかし、商品の欠陥は隠さない。それは営業の最低限のルールだ」


「……そうですね。あなたの言う通りです。副作用の説明を徹底します。それは約束します」


「ありがとう」


「……あなたは不思議な人ですね。敵のはずなのに、お茶を一緒に飲んでいる」


「敵ではない。考え方が違うだけだ」


「考え方が違うだけ。……そうかもしれません」



 *



 帰宅。夕飯を作った。2枚の皿。


「ランベルトさん。ノエルさんに会ってきたんですよね」


「ああ」


「どうでしたか」


「……悪い人間ではなかった。前にも言ったが」


「前にも言ってましたね」


「母の話を聞いた。……ノエルは、自分の手で母の糸を切った」


「自分の手で」


「ああ。苦しんでいる母を見ていられなかった。しかし、切った後の母は、母ではなくなった。ノエルはそれを10年間抱えている」


「……10年間」


「浄化の研究は、ノエルの贖罪だ。もっと良い方法があったはずだ、と。糸を切らずに痛みだけを取る方法を探している」


「……そうだったんですね」


「ノエルは副作用の説明を徹底すると約束した。それは信じていいと思う」


「信じていいんですか」


「営業マンの直感だ。あの男は嘘をついていない。自分の信念に対しては、正直だ」


「嘘をつかない人を、嘘つきのあなたが信じるんですね」


「嘘つきは嘘を見抜ける。本当のことを言っている人間を見分けられる」


「……それ、けっこう深いですよ」


「深くない。大根と同じだ。良い大根は見ればわかる」


「また大根ですか」


「大根は真理だ」



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