第百十三話「灰色の月」
エマが帰って3日後。
王都の空気が変わっていた。
門の前に座っていて、通りすがりの貴婦人たちの会話が聞こえた。
「灰糸教団のこと、聞いた?」
「ええ。友人が行ったわ。楽になったって」
「でも、あの方、最近笑わなくなったわよね」
「楽になったのと笑わなくなったのは、別の話でしょう」
(別の話ではない。同じ話だ。しかし、街の人間はまだ気づいていない)
トーマスが言った。
「ヴェルツ殿。最近、教団の話題が増えていますね。門の前を通る人の3割が、教団の話をしています」
「3割。……多いな」
「はい。先月は1割でした。急速に広がっています」
(3倍。1ヶ月で3倍。営業で言えば、競合のシェアが急拡大している状態だ)
*
料理教室の後。
デュランが残った。今回で3度目。
「ランベルト。話がある」
いつの間にか呼び捨てになっていた。気づいたが、指摘しなかった。
「母の状態が悪化した」
「悪化」
「糸を切ってもらってから5ヶ月だ。最初は楽になっただけだった。しかし、最近は……食事の味がわからなくなったと言っている」
(味がわからない。カテリーナと同じ症状。しかし、カテリーナは3ヶ月で発症。デュランの母は5ヶ月。個人差がある。しかし、方向は同じだ)
「医者には」
「診てもらった。原因不明だと。……医者には縁糸のことはわからない」
「ファインに相談してみるか」
「ファイン殿に」
「ファインは縁糸の魔法に詳しい。断縁の副作用について研究を始めている」
デュランが少しだけ目を伏せた。
「……頼む。母を、助けてほしい」
茶会で「格が釣り合わない」と言った男が、「頼む」と言っている。声が震えていた。
「わかった。ファインに連絡する」
「……ありがとう」
「礼はいい。……大根の漬物、持って帰るか。お母上に」
「漬物を」
「味がわからなくなっているなら、味の濃いものから試すのがいい。大根の味噌漬けは味が強い。もしかしたら」
「もしかしたら」
「……わからない。しかし、食べてもらう価値はある」
デュランが漬物の包みを受け取った。手が震えていた。
「……お前は、やはり嘘つきだな」
「何がだ」
「没落貴族で大根農家だと言っている。しかし、やっていることは医者に近い」
「医者ではない。料理人だ」
デュランが去った。漬物を持って。
*
ファインに手紙を書いた。デュランの母の診察を依頼した。
クロードにも連絡した。「教団の施術を受けた人の追跡調査を」。
クロードの返事は翌日。
「ランベルト殿。中間報告です。王都で施術を受けた人間は47名。何らかの感覚鈍化を訴えている人が18名。割合にして38%。施術から3ヶ月以上経過した人に限ると、62%です」
(62%。3ヶ月以上で6割以上。副作用ではない。本症状だ)
「この情報を公にすべきか」
「まだ早いと思います。データが揃わないうちに公にしても水掛け論になる。最低100名分のサンプルが必要です」
(100名分。時間がかかる。しかし、待つ間にも新しい施術者が増えている)
*
夕飯。2枚の皿。
「ランベルトさん。今日の出汁、また少し違いますね」
「違うか」
「はい。前の深いやつとも違う。今日のは……重い」
「重い」
「何か背負ってる味がします」
(デュランの母。47名。18名の副作用。62%。全部、出汁に出ている)
「……考えごとだ」
「教団のこと?」
「ああ。……デュランの母上の症状が進んでいる。味がわからなくなっていると」
「味が。……それって」
「カテリーナと同じだ。そして、施術者の62%に同じ症状が出ている」
フィオナの顔が硬くなった。
「……ノエルさんは知ってるんですかね」
「わからない。知っていて隠しているのか、知らないのか」
「知らないなら教えるべきですよね」
「ああ。知らないなら教える。知っていて隠しているなら」
「隠しているなら」
「……戦う。料理人の戦い方で」
「料理人の戦い方って何ですか」
「食べさせる。美味しいものを食べさせて、味覚を思い出させる」
「……それ、できるんですか」
「わからない。しかし、出汁は正直だ。正直なものを体に入れれば、体が思い出す可能性はある」
「根拠は」
「ない。エマの勘と同じだ。55年分の勘で」
フィオナが少しだけ笑った。
「大根で1人ずつ救う。……あなたらしいですね」
「1人ずつだ。営業は1件ずつ。料理も1人分ずつ」
「……ランベルトさん」
「何だ」
「あなたの出汁、今日は重いけど、温かいです。背負ってるものが全部温かいから」
食器を洗った。2枚。




