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俺、当て馬なんで逃げます。――なんでついてくるんですか、ヒロインさん  作者: よるの 余白
V「糸を切る者たち」

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第百十二話「翌朝の出汁」



 翌朝。


 目が覚めた。天井を見た。王都の天井。


 (昨日、名前をつけた。好きだと。大根に言った。エマに聞かれた。エマは知っていた)


 (今日、何が変わるのか)


 台所に行った。


 出汁を取った。いつもの手順。弱火で30分。沸騰させない。


 味見した。


 (……変わっている)


 (何が変わったのかわからない。手順は同じだ。素材も同じだ。温度管理も同じだ。しかし、味が違う)


 (丸い。昨日より、もっと丸い。角が完全になくなっている)


 (……名前をつけたら、出汁が変わった)


 フィオナが起きてきた。寝癖がついていた。


「おはようございます」


「おはよう」


 同じだった。いつもと同じ挨拶。同じ声。同じ距離。


 (しかし、同じではない。俺の中が変わった。「おはよう」を聞いたときの、胸の奥の温度が違う。前より温かい)


「今日の朝ご飯は」


「味噌汁と握り飯と漬物」


「いつもと同じですね」


「ああ。いつもと同じだ」


 3人分を盛った。エマの分も。


 エマが来た。ニコニコしていた。いつものニコニコ。


 しかし、俺を見たとき、ほんの一瞬だけ、ニコニコの質が変わった。「知っている者」のニコニコだった。


 フィオナは気づかなかった。


「いただきます」


「いただきます」


「いただきます」


 3人で食べた。


 フィオナが味噌汁を一口飲んだ。


 箸が止まった。


「……ランベルトさん」


「何だ」


「この出汁。……今日のは、過去最高かもしれないです」


「過去最高か」


「はい。何が違うのかわからないですけど、何かが違います。……前の優しいのとも違う。もっと……深い」


 (深い。名前をつけた出汁。110日分の感情が出汁に入った。それが深さになっている)


「……たまたまだ。素材の差だろう」


「嘘ですね」


「嘘ではない」


「嘘です。あなた、嘘つくとき味が変わらないんですよ。今日の出汁は嘘じゃない味です」


 (嘘じゃない味。フィオナは味で嘘を見抜く。出汁が正直なら、俺の感情も正直に出ている。つまり、今日の出汁には「好き」が入っている。フィオナは味でそれを飲んでいる)


 (しかし、フィオナはそれを「過去最高」と言った。嫌がってはいない)


 エマがニコニコしながら味噌汁を飲んでいた。何も言わなかった。


 (エマ。お前は全部わかっている。全部わかっていて、ニコニコしている。55年間、ずっとそうしてきた。父のときも、俺のときも)



 *



 午前中。エマが農村に帰る準備をした。


 大根30本を降ろし、馬車を軽くした。


「エマさん。帰り道、気をつけてくれ」


「大丈夫でございます。行きより軽うございますので」


「1人で大丈夫か」


「55年間、1人で大丈夫でございました。あと55年は大丈夫です」


「110歳まで生きるのか」


「坊ちゃまの料理が美味しければ、110歳まで生きます」


「……プレッシャーだな」


 フィオナが玄関に来た。


「エマさん。帰っちゃうんですか」


「はい。農村の大根が待っておりますので」


「大根が待ってる。……エマさんらしいですね」


「フィオナ様。坊ちゃまをよろしくお願いいたします」


「はい。……任せてください」


「任せております。最初から」


 エマが俺を見た。


「坊ちゃま」


「何だ」


「出汁は、正直でございます」


「……ああ」


「正直な出汁を、飲んでくれる人がいるのは、幸せなことでございます」


「……ああ」


 エマが馬車に乗った。門を出た。手を振った。ニコニコしていた。


 馬車が角を曲がって見えなくなった。


 (エマが帰った。大根30本を届けて、俺の秘密を持って帰った。大根より重い荷物を持って帰った)



 *



 午後。門の前。


 弁当を食べた。14人分。いつもの石段。いつもの椅子。


 トーマスが言った。


「ヴェルツ殿。今日は顔色がいいですね。何かありましたか」


「……特にない」


「そうですか。でも、握り飯の味が違いますよ。今日のは、いつもより優しいです」


 (トーマスにも味の変化がわかった。出汁が変わったのではなく、俺の味付け全体が変わったのだ。名前をつけたら、料理が変わった)


 マリアが来た。


「先生。今日の握り飯、特別ですか」


「特別ではない。いつもと同じだ」


「いつもと同じなのに、何か違います。……先生、良いことありましたか」


「ない」


「嘘ですね。先生、嘘つくとき、大根の漬物が多めになるんですよ」


 (漬物が多めになる。新しい嘘のバレ方だ。目が右に動く、出汁が濃くなる、漬物が多くなる。全身で嘘がバレている)


 フィオナが昼に出てきた。パンを持っていた。


「ランベルトさん。はい、お昼です」


「ああ」


「……今日、みんな言ってましたよ。先生の握り飯がいつもと違うって」


「違わない」


「違いますよ。……でも、良い違いです。ずっとこの味だったらいいのに」


 (ずっとこの味。「好き」が入った味。フィオナはその味を「ずっとがいい」と言っている)


「……ずっと作る。この味で」


「約束ですか」


「約束ではない。事実だ。味は変わらない」


「変わりましたけどね、今日」


「……変わった。しかし、ここからは変わらない」


「なぜですか」


「……入れるものが決まったからだ」


「入れるもの。……何を入れたんですか」


「……出汁だ」


「出汁を出汁に入れたんですか」


「……ああ」


「意味わかんないですけど、美味しいのでいいです」


 フィオナが笑った。


 俺も少しだけ笑った。営業スマイルではなく。


 (入れるものが決まった。好きだ、という感情を、出汁に入れた。もう取り出せない。取り出す必要もない)


 (名前のない感情に、名前がついた。名前がついたら、料理が変わった。料理が変わったら、みんなが気づいた)


 (しかし、フィオナだけが気づいていない。いや、気づいている。味で気づいている。ただ、名前はまだ知らない)


 (いつか教える。今ではない。しかし、いつか)


 食器を洗った。2枚。フィオナが拭いた。


 いつもの夕方。いつもの台所。いつもの2人。


 何も変わっていない。全部変わった。




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