第百十一話「存じ上げておりました」
翌朝。
台所に立った。朝飯を作った。
エマが先に起きていた。台所の隅で、お茶を飲んでいた。
「おはようございます、坊ちゃま」
「おはよう。……昨夜は、すまなかった」
「何がでございましょう」
「聞かれた」
「聞いておりません」
「……聞いていただろう。『存じ上げておりました』と言っただろう」
「はい。存じ上げておりました、と申しました。しかし、何を聞いたかは申しておりません」
(……エマのこの手法。聞いたことは認めるが、内容には触れない。完璧な情報管理だ。前世の法務部にほしい人材だ)
「エマさん」
「はい」
「俺は昨夜、大根に向かって独り言を言った」
「存じ上げております」
「内容も聞いた」
「存じ上げております」
「誰にも言わないでくれ」
「もちろんでございます。大根も私も、口は堅うございます」
(大根と同列の口の堅さ。大根は喋らない。エマも喋らない。信頼できる)
*
朝飯を3人で食べた。俺、フィオナ、エマ。
フィオナは昨夜のことを知らない。知るはずがない。離れで寝ていた。
「エマさん。王都の別邸、どうですか」
「農村とは違いますが、坊ちゃまの匂いがいたします。出汁の匂い。それだけで、安心いたします」
「安心。……エマさんにとって、出汁の匂いは安心か」
「はい。坊ちゃまがここで暮らしている証でございますから」
フィオナが味噌汁を飲んだ。
「今日のお味噌汁、いつもと違いますね」
「違うか」
「はい。……なんか、優しいです。いつもより」
(優しい。昨夜、名前をつけた後に取った出汁で作った味噌汁。名前をつけたら、出汁が変わったのか)
「……気のせいだろう」
「気のせいじゃないです。味で嘘はつけませんよ」
エマがニコニコしていた。深いニコニコだった。
*
フィオナが学園に行った後、エマと2人きりになった。
台所で、冬大根の仕分けをしながら話した。
「エマさん。聞いていいか」
「何でございましょう」
「お茶の温度が2度高いと言った。いつからわかっていた」
「フィオナ様が農村にいらしたとき。坊ちゃまが最初にお茶を出された日でございます」
「最初の日。……あの日は、フィオナが勝手に来た日だ」
「はい。勝手にいらしたフィオナ様に、坊ちゃまはお茶を出しました。その温度が、普段より2度高うございました」
「2度で何がわかる」
「全てでございます」
「全て」
「お父様が同じでしたから。お母様にお茶を出すとき、いつも2度高い。50年間、ずっと。お母様が亡くなられた後も、仏前に置くお茶は2度高うございました」
(50年間。父が母に出すお茶は、50年間、2度高かった。そして俺は、最初の日から、フィオナに2度高いお茶を出していた)
「……遺伝か」
「遺伝ではございません。お気持ちでございます」
「気持ち」
「大切な方に淹れるお茶は、少しだけ熱くなるのです。手が、無意識に、もう少しだけ温かくしようとする。それは技術ではなく、お気持ちです」
(無意識に温かくしようとする。俺はフィオナのお茶を、無意識に2度高く淹れていた。最初の日から)
「エマさん。俺は……いつから」
「いつから、とおっしゃいますか」
「いつから、こうなっていた。いつから、フィオナのことを」
「最初からでございます、坊ちゃま。お茶の温度が、最初から答えを出しておりました。坊ちゃまの頭が追いつくのに、100日ほどかかりましたが」
「100日」
「はい。お茶は最初から知っておりました。坊ちゃまだけが、知らなかったのでございます」
(俺だけが知らなかった。お茶は知っていた。出汁は知っていた。エマは知っていた。フィオナも、たぶん知っていた。俺だけが、名前をつけるのを拒んでいた)
「エマさん」
「はい」
「消失のリスクが上がる」
「存じ上げております」
「糸が太くなる」
「太くなっております。以前より、ずっと」
「それでも」
「それでもでございます。糸が太ければ、消えにくうございます。太い糸は、切れにくいのです」
「……矛盾しているだろう。糸が太いと消失のリスクが上がる。しかし、太い糸は切れにくい」
「矛盾ではございません。リスクが上がるのは、物語の中心に近づくからです。しかし、太い糸があれば、中心にいても消えません。お父様が、そう書いておりました。蔵の記録に」
(蔵の記録。父が書いた。太い糸があれば消えない。つまり、フィオナとの糸が、俺を消さないための鎧になる)
「……エマさん」
「はい」
「ありがとう」
「お礼には及びません。私はニコニコしているだけでございますから」
エマがニコニコした。
55年分の重みがあった。




