第百十話「名前のない感情」
朝。
浄化実験の日。
弁当を作らなかった。今日は門の前に行かない。ルーシェ家の別邸で実験が行われる。
フィオナが正装していた。学園の制服ではなく、修行着。光の制御がしやすい服装。
「ランベルトさん。行きましょう」
「ああ」
玄関を出た。
門の前に、馬車が止まっていた。見覚えのない馬車。質素で、実用的。
馬車から、人が降りた。
エマだった。
「……エマさん」
「坊ちゃま。おはようございます」
ニコニコしていた。農村の匂いがした。冬の土の匂い。
「なぜここに」
「冬大根をお届けに参りました。クロード殿から『王都で大根が足りなくなっている』と連絡がありまして。30本、お持ちしました」
「30本。……馬車で」
「はい。農村から、丸1日かけて」
(エマが王都に来た。初めてだ。55年間農村にいたエマが、大根を30本持って、馬車で1日かけて来た)
「エマさん。1人で来たのか」
「はい。使用人は農村を守る必要がございますので」
「55歳の女性が1人で馬車を」
「55歳はまだまだでございます。お父様の馬車を何度も動かしておりましたので」
フィオナが駆け寄った。
「エマさん。お久しぶりです」
「フィオナ様。お元気そうですね。お顔が少し丸くなりましたね」
「丸く……太りましたか」
「いいえ。幸せ太りでございます」
「幸せ太り。……ランベルトさんの料理のせいですかね」
「坊ちゃまの料理は太ります。愛情が入っておりますから」
(愛情が入っている。エマ。余計なことを言うな)
*
エマに別邸を案内した。
エマは台所を見て、ニコニコした。
「坊ちゃま。良い台所ですね。道具も揃っております」
「ああ。農村のほうが使いやすいが」
「使いやすさは慣れです。この台所にも、坊ちゃまの匂いが染みついています」
「匂い」
「出汁の匂いです。毎日取っていらっしゃるのがわかります」
(出汁の匂いが染みついている。台所に。俺の生活が、この場所に刻まれている)
エマを客室に案内した。
「今日は実験があるので、夕方まで留守にする。エマさんはここで休んでいてくれ」
「承知いたしました。夕飯の準備をしておきましょうか」
「いい。夕飯は俺が作る。6人分だ」
「6人分。……にぎやかですね」
「ああ。にぎやかだ」
*
ルーシェ家の別邸。魔法研究室。
ファインが待っていた。麻衣もいた。令嬢の正装。クロードもいた。帳簿を持っている。
そして、ノエルがいた。灰色ではなく白い服。穏やかな笑み。
6人。俺、フィオナ、ファイン、麻衣、ノエル、クロード。
「始めよう」
ファインが実験の手順を説明した。
「浄化の対象は、この糸の標本だ」
ガラスの器に、縁糸の断片が入っていた。切断された糸。灰色に変色している。カテリーナのような人から採取したものだろう。
「フィオナ。光を糸に沿わせて流せ。ノエルが言った通りの方法で」
フィオナが手をかざした。
光が灯った。昼間の光。安定した光。
光が糸に触れた。沿って流れた。
灰色の糸が、少しだけ明るくなった。
「……反応があります」
ノエルが身を乗り出した。
「やはり。光の魔力で、蓄積した負の感情が分解されている」
フィオナが集中していた。光が安定して流れている。
俺は5メートル離れた場所に立っていた。護衛の距離。
しかし、フィオナが一瞬振り返った。俺を見た。そして、少しだけ笑った。
光が、さらに強くなった。
「……強度が上がった」
ファインが計測器を見た。
「フィオナ。何かしたか」
「何も。……ただ、隣に人がいるのを確認しただけです」
(隣に人がいるのを確認した。俺は5メートル先にいる。しかし、フィオナにとっては「隣」だ。光が安定する距離)
実験は30分続いた。灰色の糸は完全には元に戻らなかったが、明らかに色が薄くなった。
「部分的な成功だ」
ファインが言った。
「完全な浄化には至らなかったが、負の感情の一部が除去された。理論は成立する。ただし、実用化にはさらなる研究が必要だ」
ノエルが深く頷いた。
「ありがとうございます。フィオナ殿。ファイン殿。……ランベルト殿も」
「俺は何もしていない」
「いいえ。フィオナ殿の光が最も安定したのは、あなたが見ていたときでした。あなたの存在が、浄化の精度に影響しています」
(俺の存在が浄化の精度に影響している。つまり、俺がいると光が強くなる。いないと弱くなる。それは……糸の太さと関係しているのだろうか)
*
実験が終わった。ルーシェ家の別邸を出た。
ヴェルツ家の別邸に戻った。
エマが夕飯の準備をしていた。
「坊ちゃま。やはり準備をしてしまいました。申し訳ございません」
「……いい。ありがとう」
エマの味噌汁の匂いがした。農村の匂い。
6人分の夕飯を作った。エマの準備に、俺が仕上げを加えた。
ファインと麻衣が残った。ノエルは帰った。クロードも帰った。
5人で食べた。俺、フィオナ、ファイン、麻衣、エマ。
食卓に5枚の皿。
麻衣が令嬢の声で言った。
「ランベルト殿。エマ様のお味噌汁、懐かしいですね」
「ああ。エマの味だ」
「エマ様の味と、ランベルト殿の味が混ざって、農村の味になっています」
ファインが黙って食べた。全部食べた。
「……うまい」
(ファインの「うまい」が短くなった。最初は「同じ味か」と聞いていた。今は「うまい」だけ。言葉が短くなるのは、信頼の証だ)
*
夜。全員が帰った。フィオナは離れで休んでいる。エマは客室にいる。
俺は裏庭に出た。
大根が並んでいた。冬大根。エマが持ってきた農村の大根と、シャールが植えた王都の大根。
月が出ていた。冬の月。明るい。
大根の前にしゃがんだ。
(今日、実験で、フィオナの光が俺を見たときに強くなった。ノエルが言っていた。「あなたの存在が浄化の精度に影響しています」と。フィオナの光は、俺がいると強くなる。いないと弱くなる)
(それは、糸が太いからだ。俺とフィオナの間の糸が。金色の、太い糸)
(なぜ太いのか。糸が太くなる条件は「双方の感情の強度」だ。麻衣が手紙で書いていた。双方の。つまり、フィオナだけではない。俺の感情も、糸を太くしている)
(俺の感情)
大根を見た。黙っている大根。
(お前は黙っているな。いつも。何も言わない。聞いてくれるだけだ)
(聞いてくれ。1つだけ)
口が動いた。
「……好きなんだろうな、俺は」
声に出た。小さく。大根に向かって。
(言った。言ってしまった。名前のない感情に、名前をつけた)
(「好き」だ。フィオナのことが。あの「おはようございます」が。あの「嘘つき」が。あのカウントが。あの出汁の味見が。あの光が。全部。全部が)
(好きだ)
風が吹いた。冬の風。大根の葉が揺れた。
後ろで、足音がした。
振り返った。
エマが立っていた。
ニコニコしていた。
「……エマさん」
「坊ちゃま」
「今の」
「聞こえました」
「……」
「存じ上げておりました」
(存じ上げておりました)
「……いつから」
「最初からでございます」
「最初から」
「はい。坊ちゃまがフィオナ様に、初めてお茶を出されたとき。お茶の温度が、いつもより二度、高うございました」
「……二度」
二度。
俺は、出汁の温度を一度単位で当てられる。誰が作った料理かを、味で見分けられる。フィオナの体調を、味噌汁の濃さで読める。人の心を、ずっと温度で測ってきた。
その俺が、自分の温度には、気づかなかった。
エマは、気づいていた。俺が人を測るのと同じやり方で、俺を測っていた。二度。たった二度の差を。
「坊ちゃまは、大事な人にお茶を出すとき、無意識に温度を上げます」
「無意識に」
「はい。手が、勝手に。……お父様も、お母様に、そうしておられました」
手が、勝手に。
この手は、ランベルトの手だ。ヴェルツの血の手。意思に関係なく糸を育てる体質の、その手。父が母にしたのと同じことを、俺の手が、俺の知らないところで、していた。
頭が「関わるな」と言っている間に、手が二度、湯を熱くしていた。
好きだという感情は、俺が認めるより先に、この体の中で、育っていた。否定しても育つ。意思では止められない。エマの言う「最初から」とは、そういうことだった。
名前をつけたのは今夜だが――感情は、最初の一杯から、もう熱かった。
「坊ちゃま」
「何だ」
「大根は、聞いてくれましたか」
「……聞いてくれた。黙って」
「大根は、お利口でございますね」
エマはニコニコした。月明かりの下で。55年分のニコニコだった。
「おやすみなさいませ、坊ちゃま」
「……おやすみ。エマさん」
エマが屋敷に戻った。
大根の前に、1人残された。
(好きだと言った。大根に。エマに聞かれた。エマは知っていた。最初から)
(名前のない感情に、名前がついた)
(好きだ。フィオナのことが好きだ)
(消失のリスクが上がるだろう。糸が太くなるだろう。物語の中心に、さらに近づくだろう)
(しかし、もうどうでもいい。好きなものは好きだ。大根が好きなのと同じだ。否定しても育つ。意思で制御できない。ヴェルツ家の糸の体質と同じだ)
月が明るかった。
大根は黙っていた。




