第百九話「出汁が教えてくれること」
浄化の実験の前日。朝、台所に立った。
弁当を作った。十四人分。三角の握り飯。一つだけ丸いのを混ぜた。
丸いの。麻衣がいなくなっても、丸い握り飯を混ぜる癖がついた。完璧すぎると印象に残らない。少しだけ異質なものがあるほうが記憶に残る、と自分で言った言葉だ。
記憶に残る。記憶。縁糸を切ると、記憶が消える。大切だった感情が消える。
包丁が止まった。
もし、俺の中のフィオナに関する記憶が消えたら、何が残るのだろう。営業マンとしての日常が残る。大根を育てる日常が残る。護衛の任務が残る。しかし、あの「おはようございます」を聞いたときの感覚は消える。「まだ足りない」と言ったときのあの顔は消える。「嘘つき」と言われたときのあの温かさは消える。
全部消えたら、俺は何のために料理を作っているのだ。
包丁を動かした。三ミリ。正確に。
*
門の前。昼。フィオナが出てきた。今日はノエルの話をしなかった。
「ランベルトさん。明日の実験、緊張してますか」
「していない。俺は見ているだけだ」
「見ているだけ、って言いますけど。あなたが見ていてくれるのが大事なんですよ。隣にいると光が安定するって、前に言いましたよね」
「言った」
「明日も、隣にいてください」
「いる。護衛だからな」
「護衛だから。……そうですよね」
フィオナの声が、少しだけ沈んだ。
俺が「護衛だから」と言うたびに、フィオナの声が沈む。気づいている。気づいていて、言い方を変えない。変えられない。
「護衛だから」ではなく「お前のそばにいたいから」と言ったら、何が変わるのか。
変わる。全部変わる。糸が太くなる。消失のリスクが上がる。そして、もう戻れなくなる。撤退できない場所が、できてしまう。
佐藤課長なら何と言うだろう。「柴田、それは案件じゃない。人生だ」と言う気がした。
*
午後。別邸で夕飯の仕込みをした。明日の実験の後の夕飯。六人分。俺、フィオナ、ファイン、麻衣、ノエル、クロード。
ノエルも食卓に入れた。敵だとしても、飯を食う相手は排除しない。相手と同じ卓につけば、本音が見える。
出汁を取った。弱火で三十分。沸騰させない。
出汁は待たないと味が出ない。急いだら雑味が出る。苦みを取り除いたら深みが消える。
俺の感情もそうだった。急いだら雑味が出る。しかし、待っていたら、味が出てきた。いつの間にか。
フィオナの「おはようございます」が味になった。「嘘つき」が味になった。「覚えておくだけにします」が味になった。エマの味が出汁に入っているのと同じように、フィオナの味が、俺の出汁の中心にある。
出汁ができた。味見した。濃い。いつもより濃い。しかし、味付けの間違いではない。丁寧に取ったから濃くなった。時間をかけたから。想いが入ったから。
俺は、フィオナに対して、想いを持っている。
それは警戒ではない。護衛でもない。名前をつけたら、糸が太くなる。だからつけない。つけないまま、出汁を取る。
しかし、出汁は正直だ。俺が何を考えているか、出汁に出る。フィオナはそれを味で読む。もう隠せていない。たぶん、最初から隠せていなかった。
*
夕飯。二枚の皿。出汁が濃かった。
「……今日のは、特別に濃いですね。何を考えてましたか」
「……出汁のことだ」
「出汁のことを考えながら出汁を取ったんですか。……何がわかりましたか」
「出汁は、中に入れたものの味になる」
「はい」
「俺の出汁には、いろいろ入っている。エマの味。農村の水。王都の香辛料。……お前の味も、入っている」
フィオナの箸が止まった。
「……私の味」
「ああ。お前が横で料理を作るようになってから、俺の出汁が変わった。丸くなったと、前にお前が言っただろう。あれは、お前の味が混ざったからだ。たぶん」
言ってしまった。フィオナの味が俺の出汁の中にある、と。料理の話だ。料理の話であって、感情の話ではない。……はずだ。
フィオナが少しだけ赤くなった。しかし、笑った。
「ランベルトさん。それ、今までで一番、営業じゃないですよ」
「料理の話だ」
「料理の話。……そうですよね」
フィオナが味噌汁を飲んだ。ゆっくり。味わうように。
「……美味しいです。今日の出汁、一番好……一番、良いです」
言い直した。何かを言いかけて、別の言葉に変えた。俺は聞かなかった。聞いた。しかし、聞かなかったことにした。
食器を洗った。二枚。
明日、実験がある。ノエルが来る。ファインが来る。麻衣が来る。
しかし、今夜の出汁の味だけは、忘れないと思った。




