第百四話「教団の理屈」
料理教室の後。デュランが残った。いつもは終わったらすぐ帰る男が、台所の片付けを手伝っていた。
「デュラン。珍しいな。残るのは」
「……少し、話がしたい」
デュランの顔が、いつもの冷たさとは違っていた。迷っていた。
「灰糸教団を知っているか」
「知っている。最近調べている」
「……俺の母が、教団に行った。糸を切ってもらった」
レイモンド伯爵家の夫人が。手を止めた。
「父と母の婚約は政略だった。母は別の人を想っていた。それでも家のために結婚した。二十年、望まない縁に縛られて」
「教団が、それを切った」
「ああ。母は楽になったと言っている。……しかし、以前のような笑い方をしなくなった。俺に対しても、少し、遠い」
遠い。親子の糸にまで影響が出ている。カテリーナと同じだ。
「デュラン。お前はどう思う。教団のやっていることを」
「……わからない。母が楽になったのは事実だ。母が遠くなったのも事実だ。どちらが正しいのか、わからない」
わからない、と言える人間は信用できる。即答する人間より、ずっと。
「一つだけ言える。糸を切ること自体を、悪いとは言えない。望まない縁に苦しむ人がいるのは事実だ。教団がそれを助けようとしているのも、わかる。しかし、副作用を隠して切らせるなら、それは別の話だ」
「副作用」
「切ると感情が薄くなる。それを知った上で選ぶなら自由だ。しかし、知らずに選ばされているなら、騙しだ。悪い大根を、いい大根のふりをして売るのと同じだ」
「……お前は、やはり嘘つきだな」
「何がだ」
「没落貴族だと言いながら、言うことは真っ当だ」
デュランが包みを持って帰った。母に持ち帰る漬物を、自分で選んでいった。一番味の濃いものを。味のわからなくなった母に、味の濃いものから試させる気だ。誰にも教わらず、そこに辿り着いている。
*
翌朝。門の前で握り飯を配っていたら、教団の話が耳に入った。
通りすがりの貴婦人たち。
「灰糸教団のこと、聞いた? 友人が行ったの。楽になったって」
「でも、あの方、最近笑わなくなったわよね」
「楽になったのと笑わなくなったのは、別の話でしょう」
別の話ではない。同じ話だ。しかし、街の人間はまだ気づいていない。
トーマスが横で椅子を拭きながら言った。
「ヴェルツ殿。最近、門の前を通る方の三人に一人が、教団の話をしています。先月は十人に一人でした」
「一ヶ月で三倍か」
「はい。広がるのが速うございます」
速い。苦しみを取り除く、という言葉は、苦しんでいる人間に最短で届く。届くから広がる。広がるから、止める時間がなくなっていく。
*
フィオナが昼に出てきた。
「ランベルトさん。明日、学園に教団の人が来るんです。『縁糸と自由意志』っていう講演で。学園長が許可したって。……幹部の人が来るらしいです。ノエルっていう」
ノエル。クロードが名前を挙げていた幹部だ。二十五歳。元貴族の子弟。それが学園に来る。フィオナのいる場所に。
「その講演、俺も行く」
「護衛として?」
「護衛として」
フィオナは「嘘つき」とは言わなかった。代わりに、少しだけ嬉しそうな顔をした。それも、突っ込まなかった。
*
夜。クロードに手紙を書いた。
教団の資金源、施術を受けた人間の追跡、灰銀鉱の流通。調べられるだけ調べてほしい。明日、自分の目でも集会を見に行く、と書き添えた。
封をした。
敵の論理は、まだ全部見えていない。しかし明日、集会を見て、ノエルに会える。論理は本人に会えば見える。出汁の味が、煮ているうちにわかってくるのと同じだ。
窓の外。隣の部屋から、フィオナの修行の光が漏れていた。安定した光。俺が隣にいるから安定する、とファインは言った。糸が繋がっているから、と。
もしその糸が、誰かに切られたら。フィオナの光は、どうなるのだろう。
ペンを置いた。考えるのをやめた。明日、集会を見る。それからだ。




