第百二話「切られた糸」
翌日。クロードの手配で、「糸を切ってもらった」という貴婦人に会った。
レイモンド伯爵家の縁戚の女性。30代。名前はカテリーナ。
ヴェルツ家の別邸の居間で、お茶を出した。
「カテリーナ殿。本日はお越しいただきありがとうございます」
「……ええ」
声が平坦だった。表情も平坦だった。貴婦人は通常、社交の場で微笑みを絶やさない。しかし、この女性には笑顔がなかった。怒りもなかった。何もなかった。
(平坦。感情が薄い。クロードの報告通りだ)
「クロードから伺いました。縁糸を切ってもらったと」
「はい。3ヶ月前に」
「なぜ切りたいと思われたのですか」
「……夫との縁です。政略結婚でした。愛のない結婚です。糸が見えるたびに、苦しかった」
「見えていたのですか。糸が」
「微かに。私は感応が弱いので、ぼんやりとしか見えませんでしたが。でも、見えるだけで十分に苦しかった」
(望まない縁が見える苦しみ。フィオナのような強い絆ではなく、望まない絆で結ばれている痛み。それは確かに辛いだろう)
「切ってもらった後、どうなりましたか」
「楽になりました。糸が見えなくなった。夫への苦しみもなくなった」
「しかし」
「しかし。……他のものもなくなりました」
「他のもの」
「子供への愛情が、薄くなりました。友人との会話が、面倒になりました。お茶の味がわからなくなりました」
(お茶の味がわからない。感情だけでなく、感覚も鈍くなっている)
「いつからですか」
「切ってもらった直後は何ともありませんでした。1ヶ月くらいしてから、少しずつ。気づいたら、笑い方を忘れていました」
(笑い方を忘れた。縁糸を切ったら、笑い方を忘れる。糸は感情の根だ。1本切ると、他の感情にも影響が出る)
フィオナが横で聞いていた。顔が青白くなっていた。
「カテリーナ殿。もう一つ聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「切ってくれた人たちは、何と名乗っていましたか」
「名前は言いませんでした。ただ、灰色の衣を着ていました。そして、こう言いました。『縁は呪いです。私たちが解放します』と」
(縁は呪い。縁糸を「呪い」と呼んでいる。俺にとっては、縁糸はフィオナと繋がるものだ。しかし、この女性にとっては、呪いだった)
*
カテリーナが帰った後、エマに手紙を書いた。
「エマさんへ。急ぎで教えてほしい。縁糸を人為的に切る方法があるらしい。灰色の衣を着た集団が、望まない縁を断っている。切られた人は感情が薄くなっている。エマさんは『灰色の糸』を見たことがあるか。また、糸を切った場合の影響について知っていることがあれば教えてほしい」
エマの返事は3日後に届いた。
短かった。しかし、手が震えていた。字が乱れていた。エマの字が乱れるのを初めて見た。
「坊ちゃま。灰色の糸は存じております。切られた糸の残骸でございます。糸は切っても完全には消えません。切断面が灰色に変色して残ります。それは傷跡と同じです」
「糸を切ると、その糸に紐づいていた感情記憶が消えます。しかし、糸は一本では存在しません。人間の糸は網のように繋がっております。一本切ると、隣の糸も弱くなります。だから感情全体が薄くなるのです」
「坊ちゃま。切ってはいけません。切ったら、戻りません。どうかお気をつけくださいませ」
「追伸。フィオナ様の糸も、坊ちゃまの糸も、絶対に切らせてはなりません」
(エマが怖がっている。55年間ニコニコしていたエマが、手を震わせている。糸を切ることは、エマにとってそれほど恐ろしいことなのだ)
*
夜。夕飯を作った。
今日はシンプルに。味噌汁と漬物と握り飯。
フィオナが一口食べた。
「……今日のは、農村の味ですね」
「ああ。エマの味を思い出して作った」
「エマさんの手紙、読みましたか」
「読んだ」
「怖い手紙でしたね」
「ああ。エマが字を乱すのは初めて見た」
「……ランベルトさん」
「何だ」
「カテリーナさん、笑い方を忘れたって言ってましたよね」
「ああ」
「私、笑い方を忘れたくないです」
「忘れない。お前は毎日笑っている」
「毎日笑ってるのは、あなたが面白いからですよ」
「俺が面白いのか」
「面白いです。営業の話をするときの顔とか、大根に話しかけるときとか」
「……大根に話しかけているのは見られていたのか」
「見てます。毎朝」
(毎朝見られていた。大根への独り言を)
「フィオナ。笑い方を忘れないために、俺は面白くあり続ける必要があるのか」
「そうですね。あなたが面白くなくなったら、私も笑わなくなるかもしれません」
「……重い責任だな」
「重いですか」
「重い。しかし」
箸を置いた。フィオナを見た。
「しかし、お前が笑わなくなるのは嫌だ。だから面白くあり続ける」
(……言った。「嫌だ」と。フィオナが笑わなくなるのが嫌だと。営業スマイルではなく。営業理論でもなく。ただ、嫌だと)
フィオナが少しだけ目を丸くした。
「……今の、営業じゃないですよね」
「営業ではない」
「何ですか」
「……本音だ」
フィオナは少しだけ赤くなった。そして、笑った。
「じゃあ、大丈夫です。笑い方、忘れません」




