第百一話「糸を切る者たち」
王都に戻った。
ヴェルツ家の別邸。シャールが直した壁。裏庭の冬大根。台所の30枚の皿。
全部、そのままだった。
「おかえりなさい、ですね」
「ああ。おかえりなさい、だ」
フィオナが台所に入った。水を汲んだ。お茶を入れた。
「私が入れます。今日は」
「……いいのか」
「いいんです。あなたは荷解きしてください」
フィオナがお茶を入れた。飲んだ。
いつもより落ちていた。
「……いつもより落ちるな」
「えっ。評価しないでください。帰ってきたばかりですよ」
「帰ってきたばかりでも、味に手は抜かない」
「手を抜いてないですよ。温度管理が……少し雑だったかもしれませんけど」
「雑だった。15度高い」
「15度まで分かるんですか」
「分かる。舌で」
(舌で温度がわかるのは、前世の営業時代に得意先で出されたコーヒーの温度を毎回記録していたからだ。無駄な経験が無駄でなくなる日が来るとは思わなかった)
*
翌日。学園が再開した。
門の前に座った。トーマスが椅子を出してくれた。
「おかえりなさい、ヴェルツ殿。農村はいかがでしたか」
「良かった。大根が元気だった」
「大根が元気。……ヴェルツ殿の帰省報告は、毎回大根からですね」
「大根が一番大事だからな」
「フィオナ殿より?」
「……同列だ」
(同列と言ってしまった。大根とフィオナが同列。問題発言だ。しかしトーマスは笑っているだけだ)
弁当を食べた。14人分。冬休み明けで、門前弁当の常連が戻ってきた。
マリアが来た。
「ランベルト様。おかえりなさい。冬休み中、お弁当がなくて寂しかったです」
「ありがとう。……今日の握り飯は冬大根の漬物入りだ。農村から持ってきた」
「わあ。農村の大根。味が違うって聞いてます」
「違う。土が違うから」
*
午後。クロードが来た。
居間でお茶を出した。今度は俺が入れた。
「ランベルト殿。おかえりなさい。……お茶、美味しいですね。やはりあなたが入れると違う」
「ありがとう。で、用件は」
「はい。少し気になる話がありまして」
クロードが帳簿を出した。いつもの帳簿ではない。別の帳簿。
「最近、商人の間で奇妙な相談が増えています」
「奇妙な相談」
「はい。『縁糸を切りたい』という相談です」
(縁糸を切りたい)
「切る。……縁糸を切ることができるのか」
「通常はできません。縁糸は自然発生的なもので、人為的に断ち切る方法は知られていません。しかし、最近、『切ってもらった』という人が何人か出てきています」
「切ってもらった。……誰に」
「それがわからないのです。切ってもらった人々は、具体的な名前を出しません。ただ、『ある集団に頼んだ』とだけ」
(ある集団。名前を出さない。組織的な動きだ)
「なぜ切りたいんだ。縁糸を」
「理由は様々です。望まない婚約で結ばれた糸。片思いの痛みから逃れたい。過去の恋人との糸を断ちたい。……政略結婚で苦しんでいる貴婦人が多いですね」
(政略結婚。フィオナの婚約問題と根が同じだ。望まない縁で苦しんでいる人々がいる)
「クロード。その相談、何件だ」
「この2ヶ月で12件。以前はゼロでした。急に増えた」
「急に。……何かきっかけがあったのか」
「わかりません。しかし、12件の相談者のうち3人が、同じ言葉を使っています」
「同じ言葉」
「『灰色の糸を見た者がいる』と」
(灰色の糸。縁糸は通常、金色だ。銀色は俺と麻衣の魂の絆。しかし、灰色は聞いたことがない)
「灰色の糸。……エマに聞いてみないと」
「エマ殿に?」
「エマは縁糸が見える。灰色の糸が何なのか、知っているかもしれない」
「なるほど。……ランベルト殿。もう一つ」
「何だ」
「切ってもらった人たちに、変化があります」
「変化」
「穏やかになったと言う人がいます。しかし、同時に、感情が薄くなったと言う人もいます。笑わなくなった、怒らなくなった、泣かなくなった」
(感情が薄くなった。縁糸を切ったら、感情が薄くなる。糸と感情が繋がっている)
「それは、副作用か」
「わかりません。相関があるかどうかも不明です。ただ、気になったのでお伝えしました」
「ありがとう。……調べてみる」
*
夜。夕飯を作った。2枚の皿。
今日は少しだけ凝ったものを作った。冬大根の蒸し物と、焼き魚の香辛料添え。王都の食材と農村の食材を合わせた。
「ランベルトさん。今日のは特別ですね」
「帰還初日だからな」
「帰還初日だから特別。……何回帰還するんですかね、これから」
「何回でも。農村と王都を行き来する生活だ」
「じゃあ、毎回特別な料理が食べられるんですね。お得です」
フィオナが笑った。
しかし、俺は笑えなかった。
「……フィオナ」
「はい」
「クロードから聞いた話がある」
「何ですか」
「縁糸を切る人間がいる。最近、増えているらしい」
フィオナの顔が少しだけ変わった。
「切る。……縁糸を?」
「ああ。望まない縁を断ちたいという相談が増えている。実際に切ってもらった人もいる」
「……切ったら、どうなるんですか」
「わからない。しかし、感情が薄くなったという報告がある」
フィオナは少しだけ黙った。
「ランベルトさん」
「何だ」
「私たちの間にも、糸があるんですよね。エマさんが言ってましたよね。太い糸が」
「ある。俺には見えないが」
「切られたら、どうなるんでしょう」
(切られたら。俺とフィオナの糸が切られたら。感情が薄くなる。笑わなくなる。怒らなくなる)
(それは……それは、嫌だ)
(「嫌だ」と思った。営業マンとしてではなく、ランベルト・ヴェルツとして。フィオナとの糸が切られるのは、嫌だ)
「……切らせない」
「切らせない」
「ああ。誰にも切らせない」
「護衛の仕事ですか」
「護衛の仕事ではない」
「じゃあ何ですか」
「……わからない。しかし、切らせない」
フィオナが少しだけ笑った。
「嘘つき。……わかってるくせに」
食器を洗った。2枚。フィオナが拭いた。
(新しい問題が始まった。縁糸を切る者たち。灰色の糸。感情の消失)
(俺の護衛の領分は、また広がるのだろうか)




