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ヴェリタスの最終定理2 ナラティブ・ヴェリタス  作者: Wan Liyue 王璃月
●第6章:文脈の破壊者

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第4話:文脈の破壊者(3)

王都の空が、不自然に晴れ渡っていた日だった。

獣医院の二階。ナラは、窓辺で珈琲を飲んでいた。

不気味なほどに、平和だ。

だが、その平穏は唐突に、物理的な「質感」を伴ってひび割れた。

窓ガラスに、黒い滴が落ちた。

雨? いや、違う。

それは、粘着質で、鼻を突くような化学臭のするインクだった。


「……?」


ナラが眉をひそめた瞬間、空が裏返った。

青空が、紙が燃えるように捲れ上がり、その下からどす黒い「原稿用紙」のようなグリッド線が露わになる。

そして、空から「文字」が降ってきた。


『死こそが感動だ。喪失こそが美だ』


「な、何ですのこれ……!?」


ナラが立ち上がると同時に、空間に一人の紳士が現れた。

シルクハットに燕尾服。顔には片眼鏡。そして手には、巨大な万年筆を持っている。

記述者・アウクトル。

この世界の「外側」から物語を編集する、高次元の存在。


「やあ、登場人物くん。昨日のゴウ君とカレル君の『悲劇』は面白かったかい?」


アウクトルは、ナラを見下ろして優雅に一礼した。


「だがね、君たちの物語は、少々中だるみしている。……カタルシスが下がっているんだよ」


「……誰、あんた。ゴウ?カレル?……誰の話?」


ナラは鉄扇を構えた。


「まあいい。……私は監督であり、脚本家だ。……この世界という『映画』をもっと面白くするために来たのだよ」


アウクトルは、万年筆を振るった。

インクが飛び散り、街全体を染めていく。


「始めようか。……感動の『悲劇』を」


アウクトルがペンを走らせると、街の広場にスポットライトが当たった。

そこには、仲睦まじいパン屋の若夫婦がいた。


『設定変更:夫は実は巨額の借金を抱えており、妻は不治の病を隠していた。二人は絶望の末、心中を選ぶ』


空中に文字が浮かぶ。

それは嘘だ。夫に借金はないし、妻は健康だ。

だが、アウクトルの記述は「事実」を上書きする。


「う、あぁぁ……!体が……!」


夫が叫ぶ。彼の手が勝手に動き、パン切り包丁を握る。


「嫌だ!刺したくない!なんで!?」


妻が泣き叫ぶ。彼女の手もまた、夫の首筋に爪を立てている。


「やめなさいッ!!」


ナラが飛び出そうとする。

だが、足が動かない。


『ヒロインは動けない。あまりの惨劇に足がすくみ、ただ涙を流すことしかできない』


ト書きが、ナラの体を金縛りにする。

ナラは、特等席で「鑑賞」することを強いられた。


「愛している……!愛しているから、死のう……!」


「うん……!一緒に死ねば、怖くないよね……!」


夫婦の口から、彼らの意志とは無関係な、安っぽい台詞が吐き出される。

彼らの瞳は、「助けてくれ」と絶叫しているのに。


夫が妻の心臓を刺す。

妻が夫の頸動脈を噛み切る。

二人は折り重なって倒れ、痙攣し、そして動かなくなった。


「……美しい」


アウクトルがうっとりと呟く。


「愛ゆえの死。これぞ感動だ」


「……ふざけるなッ!」


ナラが吠える。だが、声は届かない。

アウクトルは、次のページをめくった。

視線の先には、学校帰りの子供たちがいた。


『設定変更:彼らは、主人公の「怒り」を煽るための生贄として、無残な死を遂げる運命にある』


子供たちの足元のマンホールが、突然消失した。

その下には、地下鉄の工事現場で使われていた巨大な粉砕機が、口を開けて待っていた。


「あ……」


子供たちが落下する。


「ママ!」


「助けて!」


「嫌だぁ!」


咀嚼音。

骨が砕け、肉が挽かれる湿った音。

ランドセルが、靴が、そして千切れ飛んだ手足が、排出口からボロボロと吐き出される。

赤いミンチが、山を作る。


「ひどい……ひどすぎる……」


街の人々が悲鳴を上げる。

だが、アウクトルは冷徹に告げる。


「嘆くことはない。彼らは『モブ』だ。……名前もない彼らの死が、主人公の覚醒を促すのだ。名誉なことだろう?」


子供たちの血だまりから、幽霊のように文字が浮かび上がる。


『痛かった』


『もっと遊びたかった』


それは、観客の涙を誘うための、あざとい演出。

ナラの目から、血の涙が流れた。

怒りで血管が切れそうだ。

でも、動けない。


『絶望せよ。無力を噛み締めよ』という記述が、鎖となって彼女を縛る。


アウクトルは、商店街の果物屋に目をつけた。

そこには、強面の店主と、盲目の老婆がいた。

店主は老婆に、いつも果物をオマケしてあげる優しい男だった。


『設定変更:店主は、老婆が万引きをしているという妄想に取り憑かれる』


インクが店主の頭に染み込む。

店主の目が、赤く濁った。

彼は、老婆が持っていた杖を「武器」だと誤認した。


「……ババア!俺を殺す気か!」


「何のことです……?」


老婆が怯える。


「盗んだな!俺の果物を!」


店主は、陳列されていたスイカ割り用の木刀を掴んだ。

そして、老婆の頭をフルスイングで殴打した。

老婆の頭が、熟れたスイカのように砕ける。

脳漿と血が飛び散り、色とりどりの果物を汚していく。


「やったぞ! 正当防衛だ!」


店主は笑った。

だが、すぐにインクの効果が切れ、正気に戻る。


「……あ、あれ? ばあちゃん……?なんで死んで……」


「うわぁぁぁぁっ!俺がやったのか!?」


店主は、自分の頭を木刀で殴り始めた。

罪悪感と恐怖に耐えきれず、自ら頭蓋骨を陥没させて自殺するまで。


「……人間の脆さ。愚かさ。……悲劇的だねぇ」


アウクトルがペンを走らせる。


広場の噴水前。

そこには、恋人を待つ一人の青年がいた。

花束を持って、幸せそうに。


『設定変更:彼は、恋人に裏切られたと錯覚する。そして、恋人は怪物に見える』


恋人の少女がやってくる。


「お待たせ!」


青年の目に映ったのは、笑顔の少女ではなく、口から酸を垂れ流す醜悪なゾンビだった。


「ヒッ!化け物!」


「え?何言ってるの?」


「来るな!俺を食う気か!」


青年は、持っていた花束の中に隠されていたナイフを抜いた。

そして、少女の腹を滅多刺しにした。


「痛い……なんで……?」


少女が血を吐いて倒れる。

青年は、少女の死体を蹴り続けた。


「死ね! 死ね! この化け物!」


やがて、少女が動かなくなると、青年の幻覚が解けた。

そこには、愛する人の、原型を留めない死体があった。


「……マリア?……嘘だ!マリアァァァッ!!」


青年は、ナイフを自分の喉に突き立てた。

噴水が、二人の血で真っ赤に染まる。

赤い水が、循環して空へ吹き上がり、血の雨となって降り注ぐ。


教会の前。

熱心な信者たちが祈りを捧げていた。


「神よ、お救いください」


『設定変更:彼らは、神に近づくためには肉体を捨てねばならないと悟る』


集団幻覚。

信者たちは、手に手にガソリンを持ち、頭から被った。


「ああ、神よ! 今行きます!」


「肉体という檻を脱ぎ捨てて!」


ボッ。

一人が火をつけると、連鎖的に全員が発火した。

数十人の人間が、生きたまま火だるまになる。


「熱い! ……いや、これは試練だ!気持ちいい!」


「燃える!魂が燃える!」


彼らは、笑いながら踊り狂った。

皮膚が炭化し、肉が焼け落ち、骨が見えても、彼らは賛美歌を歌い続けた。

焼ける肉の臭いが、王都中に充満する。


「……素晴らしい信仰心だ。涙が出るよ」


アウクトルは、ハンカチで目元を拭うフリをした。


王都は、血と炎と絶望で塗り潰された。

どこを見ても死体。どこを聞いても悲鳴。

ナラは、その中心で立ち尽くしていた。

体の自由は戻った。だが、心が砕けていた。


「……あんた、何なのよ」


ナラは、震える声でアウクトルに問うた。


「これが……物語? これが、感動?」


「そうだよ」


アウクトルは、悪びれもせずに答えた。


「平和な日常なんて、誰も見たくない。……観客が求めているのは『刺激』だ。『可哀想な死』だ。『残酷な運命』だ。……私はそれを提供しているだけだ」


アウクトルは、ナラに近づいた。

そして、彼女の顎を持ち上げた。


「君も、いい顔をしているね。……絶望に染まったヒロイン。最高に美しいよ」


彼は、ナラの涙を指ですくい、舐めた。


「……これが『リアリティ』の味だ」


アウクトルは、万年筆を掲げた。

そのペン先が、獣医院の方角――エラーラたちがいる場所を指し示す。


「さあ、次はいよいよメインキャストの出番だ」


アウクトルは、恍惚とした表情で宣言した。

ナラは、金縛りにあった体を引きずり、獣医院の前にたどり着いた。

そこは、かつて、世界で一番温かい場所だった。

だが今、そのレンガ造りの建物は、脈打つ血管のような蔦に覆われ、窓からはピンクと緑の蛍光色の蒸気が噴き出している。

まるで、巨大な胃袋の中に飲み込まれたかのような異様さ。

空に浮かぶアウクトルの文字が、残酷なショーの開幕を告げる。

獣医院のドアが、内側からの圧力で弾け飛んだ。


「……う、あ……」


ナラの喉から、ひきつけのような音が漏れる。

そこは、地獄の博物館だった。


病院前の広場に、一本の柱が立っていた。

そこに張り付けられているのは古着の少女、ルルだ。

彼女の手足には、それぞれ四頭の魔導馬へと繋がる鎖が食い込んでいる。


『設定変更:彼女は陰気な情報屋ではない。「王都転覆を企むテロリストの首魁」だ』


群衆が周りを取り囲み、石を投げている。

ルルは、泣いていなかった。恐怖で声が出ないのだ。ただ、ナラの方を見て、助けを求めて口をパクパクさせている。


「……執行」


アウクトルの指パッチンと共に、四頭の馬が四方へ走り出した。

骨が外れる音。筋肉が引きちぎられる音。

ルルの体が、限界まで引っ張られる。


「あ……が……!ナラ……さ……!」


四肢が弾け飛んだ。

鮮血の噴水。

だが、アウクトルのインクは残酷だ。即死を許さない。

胴体だけになったルルは、地面に転がり、芋虫のようにのたうち回る。

群衆は歓声を上げ、その肉塊を踏みつけにした。

かつてナラに抱きつき、愛を乞うた少女は、誰にも顧みられない肉屑となって、泥の中に混ざっていった。


ナラは、絶叫しながら獣医院の中に入った。

リビング。

そこには、ケンジとアリアがいた。

だが、二人の姿は変わり果てていた。


『設定変更:二人の愛は「寄生」である。互いを食らわねば生きられない』


二人の体は、腰から下が融合し、一つの醜悪な肉塊になっていた。

そして、二人は互いの体を、ナイフとフォークで切り刻んでいた。


「愛してるわ、ケンジ。……だから、あなたの心臓をちょうだい」


アリアが、ケンジの胸を切り裂く。


「僕もだよ、アリア。……君の脳みそは、甘くて美味しそうだ」


ケンジが、アリアの頭蓋を開く。

互いに肉を削ぎ、互いの口に運ぶ。


「美味しいね」


「幸せだね」


血と臓器の晩餐会。

かつてナラを温かく迎えてくれた食卓は、カニバリズムの地獄絵図と化していた。

二人は、愛という名の狂気の中で、互いを物理的に消費し尽くし、最後には動かないミンチの山となった。


ナラは、二階の実験室へ這い上がった。


「お母様……! お母様だけは……!」


実験室の中央。

椅子に縛り付けられた、エラーラ・ヴェリタスがいた。

だが、彼女の様子がおかしい。

白衣はボロボロに引き裂かれ、頭部には無数の電極が突き刺さっている。

そして、その目は――焦点が合わず、口からは涎を垂れ流している。


『設定変更:彼女は天才ではない。「妄想に取り憑かれた精神異常者」だ』


アウクトルが、エラーラの脳を直接いじくっていた。


「論理? 知性? ……そんなものは不要だ。悲劇の母親には、無力な白痴がお似合いだ」


電流が流れる。

エラーラがビクンと跳ねる。


「あ……う……。……あ……」


「お母様ッ!」


ナラが叫ぶ。

エラーラが、ゆっくりとナラの方を向いた。

だが、その瞳に、ナラを認識する光はない。

黄金の知性は消え失せ、そこにあるのは、生まれたばかりの赤子よりも虚ろな、完全なる「無」だった。


「……いるよね……?……あまい……?」


エラーラが、うわ言のように呟く。


「……お母様!……お母様ッ!」


ナラは駆け寄ろうとするが、見えない壁に弾き飛ばされる。


「あはは! 見ろ、この無様な姿を!」


アウクトルが嘲笑う。


「世界最強の賢者が、今や、肉人形だ! これこそが、傲慢な知性への罰だ!」


アウクトルは、エラーラの顔にインクをかけた。

エラーラは抵抗もせず、ただヘラヘラと笑った。

その笑顔は、かつての自信に満ちたものではなく、壊れた玩具のそれだった。


ナラは、床に崩れ落ちた。

ルルは、引き裂かれた。

ケンジとアリアは、共食いした。

そして、エラーラは心を殺された。

全員、ナラが愛し、守りたかった家族だ。

彼らの人生ナラティブは、アウクトルのペン先一つで、最も冒涜的な形で書き換えられ、踏みにじられた。


『どうだい?なんて、感動的なんだろう?』


アウクトルが、ナラの前に降り立った。


『これが「物語」の力だ。……理不尽な死。救いのない結末。それこそが、読者の心を揺さぶるのだよ』


ナラは、顔を上げられなかった。

怒りすら湧いてこない。

あまりの絶望に、心が粉々に砕け散ってしまったのだ。


「……殺して」


ナラは、蚊の鳴くような声で言った。


「あたしも……殺してよ……。もう、見たくない……」


「おや、諦めるのかい?」


アウクトルは、ナラの顎を万年筆で持ち上げた。


「ダメだよ。……君は『主人公』だ。最後の最後まで、絶望にのたうち回り、無様に足掻いて死ぬのが君の役目だ」


アウクトルは、インクで空中に文字を書いた。


『次回、最終回。……ナラティブ・ヴェリタスは、全ての希望を失い、自らの手で心臓を抉り出して自殺する』


「楽しみにしていてくれたまえ。……最高に残酷なフィナーレを用意してあげるから」


アウクトルは高笑いと共に消えた。

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