第4話:文脈の破壊者(3)
王都の空が、不自然に晴れ渡っていた日だった。
獣医院の二階。ナラは、窓辺で珈琲を飲んでいた。
不気味なほどに、平和だ。
だが、その平穏は唐突に、物理的な「質感」を伴ってひび割れた。
窓ガラスに、黒い滴が落ちた。
雨? いや、違う。
それは、粘着質で、鼻を突くような化学臭のするインクだった。
「……?」
ナラが眉をひそめた瞬間、空が裏返った。
青空が、紙が燃えるように捲れ上がり、その下からどす黒い「原稿用紙」のようなグリッド線が露わになる。
そして、空から「文字」が降ってきた。
『死こそが感動だ。喪失こそが美だ』
「な、何ですのこれ……!?」
ナラが立ち上がると同時に、空間に一人の紳士が現れた。
シルクハットに燕尾服。顔には片眼鏡。そして手には、巨大な万年筆を持っている。
記述者・アウクトル。
この世界の「外側」から物語を編集する、高次元の存在。
「やあ、登場人物くん。昨日のゴウ君とカレル君の『悲劇』は面白かったかい?」
アウクトルは、ナラを見下ろして優雅に一礼した。
「だがね、君たちの物語は、少々中だるみしている。……カタルシスが下がっているんだよ」
「……誰、あんた。ゴウ?カレル?……誰の話?」
ナラは鉄扇を構えた。
「まあいい。……私は監督であり、脚本家だ。……この世界という『映画』をもっと面白くするために来たのだよ」
アウクトルは、万年筆を振るった。
インクが飛び散り、街全体を染めていく。
「始めようか。……感動の『悲劇』を」
アウクトルがペンを走らせると、街の広場にスポットライトが当たった。
そこには、仲睦まじいパン屋の若夫婦がいた。
『設定変更:夫は実は巨額の借金を抱えており、妻は不治の病を隠していた。二人は絶望の末、心中を選ぶ』
空中に文字が浮かぶ。
それは嘘だ。夫に借金はないし、妻は健康だ。
だが、アウクトルの記述は「事実」を上書きする。
「う、あぁぁ……!体が……!」
夫が叫ぶ。彼の手が勝手に動き、パン切り包丁を握る。
「嫌だ!刺したくない!なんで!?」
妻が泣き叫ぶ。彼女の手もまた、夫の首筋に爪を立てている。
「やめなさいッ!!」
ナラが飛び出そうとする。
だが、足が動かない。
『ヒロインは動けない。あまりの惨劇に足がすくみ、ただ涙を流すことしかできない』
ト書きが、ナラの体を金縛りにする。
ナラは、特等席で「鑑賞」することを強いられた。
「愛している……!愛しているから、死のう……!」
「うん……!一緒に死ねば、怖くないよね……!」
夫婦の口から、彼らの意志とは無関係な、安っぽい台詞が吐き出される。
彼らの瞳は、「助けてくれ」と絶叫しているのに。
夫が妻の心臓を刺す。
妻が夫の頸動脈を噛み切る。
二人は折り重なって倒れ、痙攣し、そして動かなくなった。
「……美しい」
アウクトルがうっとりと呟く。
「愛ゆえの死。これぞ感動だ」
「……ふざけるなッ!」
ナラが吠える。だが、声は届かない。
アウクトルは、次のページをめくった。
視線の先には、学校帰りの子供たちがいた。
『設定変更:彼らは、主人公の「怒り」を煽るための生贄として、無残な死を遂げる運命にある』
子供たちの足元のマンホールが、突然消失した。
その下には、地下鉄の工事現場で使われていた巨大な粉砕機が、口を開けて待っていた。
「あ……」
子供たちが落下する。
「ママ!」
「助けて!」
「嫌だぁ!」
咀嚼音。
骨が砕け、肉が挽かれる湿った音。
ランドセルが、靴が、そして千切れ飛んだ手足が、排出口からボロボロと吐き出される。
赤いミンチが、山を作る。
「ひどい……ひどすぎる……」
街の人々が悲鳴を上げる。
だが、アウクトルは冷徹に告げる。
「嘆くことはない。彼らは『モブ』だ。……名前もない彼らの死が、主人公の覚醒を促すのだ。名誉なことだろう?」
子供たちの血だまりから、幽霊のように文字が浮かび上がる。
『痛かった』
『もっと遊びたかった』
それは、観客の涙を誘うための、あざとい演出。
ナラの目から、血の涙が流れた。
怒りで血管が切れそうだ。
でも、動けない。
『絶望せよ。無力を噛み締めよ』という記述が、鎖となって彼女を縛る。
アウクトルは、商店街の果物屋に目をつけた。
そこには、強面の店主と、盲目の老婆がいた。
店主は老婆に、いつも果物をオマケしてあげる優しい男だった。
『設定変更:店主は、老婆が万引きをしているという妄想に取り憑かれる』
インクが店主の頭に染み込む。
店主の目が、赤く濁った。
彼は、老婆が持っていた杖を「武器」だと誤認した。
「……ババア!俺を殺す気か!」
「何のことです……?」
老婆が怯える。
「盗んだな!俺の果物を!」
店主は、陳列されていたスイカ割り用の木刀を掴んだ。
そして、老婆の頭をフルスイングで殴打した。
老婆の頭が、熟れたスイカのように砕ける。
脳漿と血が飛び散り、色とりどりの果物を汚していく。
「やったぞ! 正当防衛だ!」
店主は笑った。
だが、すぐにインクの効果が切れ、正気に戻る。
「……あ、あれ? ばあちゃん……?なんで死んで……」
「うわぁぁぁぁっ!俺がやったのか!?」
店主は、自分の頭を木刀で殴り始めた。
罪悪感と恐怖に耐えきれず、自ら頭蓋骨を陥没させて自殺するまで。
「……人間の脆さ。愚かさ。……悲劇的だねぇ」
アウクトルがペンを走らせる。
広場の噴水前。
そこには、恋人を待つ一人の青年がいた。
花束を持って、幸せそうに。
『設定変更:彼は、恋人に裏切られたと錯覚する。そして、恋人は怪物に見える』
恋人の少女がやってくる。
「お待たせ!」
青年の目に映ったのは、笑顔の少女ではなく、口から酸を垂れ流す醜悪なゾンビだった。
「ヒッ!化け物!」
「え?何言ってるの?」
「来るな!俺を食う気か!」
青年は、持っていた花束の中に隠されていたナイフを抜いた。
そして、少女の腹を滅多刺しにした。
「痛い……なんで……?」
少女が血を吐いて倒れる。
青年は、少女の死体を蹴り続けた。
「死ね! 死ね! この化け物!」
やがて、少女が動かなくなると、青年の幻覚が解けた。
そこには、愛する人の、原型を留めない死体があった。
「……マリア?……嘘だ!マリアァァァッ!!」
青年は、ナイフを自分の喉に突き立てた。
噴水が、二人の血で真っ赤に染まる。
赤い水が、循環して空へ吹き上がり、血の雨となって降り注ぐ。
教会の前。
熱心な信者たちが祈りを捧げていた。
「神よ、お救いください」
『設定変更:彼らは、神に近づくためには肉体を捨てねばならないと悟る』
集団幻覚。
信者たちは、手に手にガソリンを持ち、頭から被った。
「ああ、神よ! 今行きます!」
「肉体という檻を脱ぎ捨てて!」
ボッ。
一人が火をつけると、連鎖的に全員が発火した。
数十人の人間が、生きたまま火だるまになる。
「熱い! ……いや、これは試練だ!気持ちいい!」
「燃える!魂が燃える!」
彼らは、笑いながら踊り狂った。
皮膚が炭化し、肉が焼け落ち、骨が見えても、彼らは賛美歌を歌い続けた。
焼ける肉の臭いが、王都中に充満する。
「……素晴らしい信仰心だ。涙が出るよ」
アウクトルは、ハンカチで目元を拭うフリをした。
王都は、血と炎と絶望で塗り潰された。
どこを見ても死体。どこを聞いても悲鳴。
ナラは、その中心で立ち尽くしていた。
体の自由は戻った。だが、心が砕けていた。
「……あんた、何なのよ」
ナラは、震える声でアウクトルに問うた。
「これが……物語? これが、感動?」
「そうだよ」
アウクトルは、悪びれもせずに答えた。
「平和な日常なんて、誰も見たくない。……観客が求めているのは『刺激』だ。『可哀想な死』だ。『残酷な運命』だ。……私はそれを提供しているだけだ」
アウクトルは、ナラに近づいた。
そして、彼女の顎を持ち上げた。
「君も、いい顔をしているね。……絶望に染まったヒロイン。最高に美しいよ」
彼は、ナラの涙を指ですくい、舐めた。
「……これが『リアリティ』の味だ」
アウクトルは、万年筆を掲げた。
そのペン先が、獣医院の方角――エラーラたちがいる場所を指し示す。
「さあ、次はいよいよメインキャストの出番だ」
アウクトルは、恍惚とした表情で宣言した。
ナラは、金縛りにあった体を引きずり、獣医院の前にたどり着いた。
そこは、かつて、世界で一番温かい場所だった。
だが今、そのレンガ造りの建物は、脈打つ血管のような蔦に覆われ、窓からはピンクと緑の蛍光色の蒸気が噴き出している。
まるで、巨大な胃袋の中に飲み込まれたかのような異様さ。
空に浮かぶアウクトルの文字が、残酷なショーの開幕を告げる。
獣医院のドアが、内側からの圧力で弾け飛んだ。
「……う、あ……」
ナラの喉から、ひきつけのような音が漏れる。
そこは、地獄の博物館だった。
病院前の広場に、一本の柱が立っていた。
そこに張り付けられているのは古着の少女、ルルだ。
彼女の手足には、それぞれ四頭の魔導馬へと繋がる鎖が食い込んでいる。
『設定変更:彼女は陰気な情報屋ではない。「王都転覆を企むテロリストの首魁」だ』
群衆が周りを取り囲み、石を投げている。
ルルは、泣いていなかった。恐怖で声が出ないのだ。ただ、ナラの方を見て、助けを求めて口をパクパクさせている。
「……執行」
アウクトルの指パッチンと共に、四頭の馬が四方へ走り出した。
骨が外れる音。筋肉が引きちぎられる音。
ルルの体が、限界まで引っ張られる。
「あ……が……!ナラ……さ……!」
四肢が弾け飛んだ。
鮮血の噴水。
だが、アウクトルのインクは残酷だ。即死を許さない。
胴体だけになったルルは、地面に転がり、芋虫のようにのたうち回る。
群衆は歓声を上げ、その肉塊を踏みつけにした。
かつてナラに抱きつき、愛を乞うた少女は、誰にも顧みられない肉屑となって、泥の中に混ざっていった。
ナラは、絶叫しながら獣医院の中に入った。
リビング。
そこには、ケンジとアリアがいた。
だが、二人の姿は変わり果てていた。
『設定変更:二人の愛は「寄生」である。互いを食らわねば生きられない』
二人の体は、腰から下が融合し、一つの醜悪な肉塊になっていた。
そして、二人は互いの体を、ナイフとフォークで切り刻んでいた。
「愛してるわ、ケンジ。……だから、あなたの心臓をちょうだい」
アリアが、ケンジの胸を切り裂く。
「僕もだよ、アリア。……君の脳みそは、甘くて美味しそうだ」
ケンジが、アリアの頭蓋を開く。
互いに肉を削ぎ、互いの口に運ぶ。
「美味しいね」
「幸せだね」
血と臓器の晩餐会。
かつてナラを温かく迎えてくれた食卓は、カニバリズムの地獄絵図と化していた。
二人は、愛という名の狂気の中で、互いを物理的に消費し尽くし、最後には動かないミンチの山となった。
ナラは、二階の実験室へ這い上がった。
「お母様……! お母様だけは……!」
実験室の中央。
椅子に縛り付けられた、エラーラ・ヴェリタスがいた。
だが、彼女の様子がおかしい。
白衣はボロボロに引き裂かれ、頭部には無数の電極が突き刺さっている。
そして、その目は――焦点が合わず、口からは涎を垂れ流している。
『設定変更:彼女は天才ではない。「妄想に取り憑かれた精神異常者」だ』
アウクトルが、エラーラの脳を直接いじくっていた。
「論理? 知性? ……そんなものは不要だ。悲劇の母親には、無力な白痴がお似合いだ」
電流が流れる。
エラーラがビクンと跳ねる。
「あ……う……。……あ……」
「お母様ッ!」
ナラが叫ぶ。
エラーラが、ゆっくりとナラの方を向いた。
だが、その瞳に、ナラを認識する光はない。
黄金の知性は消え失せ、そこにあるのは、生まれたばかりの赤子よりも虚ろな、完全なる「無」だった。
「……いるよね……?……あまい……?」
エラーラが、うわ言のように呟く。
「……お母様!……お母様ッ!」
ナラは駆け寄ろうとするが、見えない壁に弾き飛ばされる。
「あはは! 見ろ、この無様な姿を!」
アウクトルが嘲笑う。
「世界最強の賢者が、今や、肉人形だ! これこそが、傲慢な知性への罰だ!」
アウクトルは、エラーラの顔にインクをかけた。
エラーラは抵抗もせず、ただヘラヘラと笑った。
その笑顔は、かつての自信に満ちたものではなく、壊れた玩具のそれだった。
ナラは、床に崩れ落ちた。
ルルは、引き裂かれた。
ケンジとアリアは、共食いした。
そして、エラーラは心を殺された。
全員、ナラが愛し、守りたかった家族だ。
彼らの人生は、アウクトルのペン先一つで、最も冒涜的な形で書き換えられ、踏みにじられた。
『どうだい?なんて、感動的なんだろう?』
アウクトルが、ナラの前に降り立った。
『これが「物語」の力だ。……理不尽な死。救いのない結末。それこそが、読者の心を揺さぶるのだよ』
ナラは、顔を上げられなかった。
怒りすら湧いてこない。
あまりの絶望に、心が粉々に砕け散ってしまったのだ。
「……殺して」
ナラは、蚊の鳴くような声で言った。
「あたしも……殺してよ……。もう、見たくない……」
「おや、諦めるのかい?」
アウクトルは、ナラの顎を万年筆で持ち上げた。
「ダメだよ。……君は『主人公』だ。最後の最後まで、絶望にのたうち回り、無様に足掻いて死ぬのが君の役目だ」
アウクトルは、インクで空中に文字を書いた。
『次回、最終回。……ナラティブ・ヴェリタスは、全ての希望を失い、自らの手で心臓を抉り出して自殺する』
「楽しみにしていてくれたまえ。……最高に残酷なフィナーレを用意してあげるから」
アウクトルは高笑いと共に消えた。




