第5話:文脈の破壊者(4)
アウクトルのペン先から滴り落ちたインクは、王都のあらゆる音を吸い込み、ただ湿った咀嚼音だけを吐き出していた。
ナラは、壊れた獣医院の床で、胎児のように丸まっていた。
目の前には、心を壊された母、エラーラ。
窓の外には、肉塊となった家族たち。
そして、街全体が、「感動的な死」という演出のために、グロテスクなオブジェへと変貌していく様が、スローモーションのように映っていた。
ナラは見た。
広場の噴水。そこでは、着飾った貴婦人たちが、自らの指を一本ずつ噛みちぎり、それを「愛の証」として互いに交換し合っていた。
ナラは見た。
大通りの交差点。逃げ惑う群衆が、自ら進んで蒸気機関の歯車に飛び込み、ピストンに頭を挟み、肉と鉄が融合した動く彫像となって、ギチギチと軋む音を立てながら行進を始めた。
ナラは見た。
路地裏の恋人たち。彼らはあまりの愛おしさに、互いの皮膚を溶かし、筋肉を絡ませ、二つの頭を持つ一つの肉柱へと変貌した。
ナラは見た。
公園の木々。そこには、人間が植えられていた。老人たちの足が根となり、腕が枝となり、叫び声を上げる顔が果実となってぶら下がっている。
ナラは見た。
学校の教室。子供たちが、「完璧な図形」になりたがった。彼らは互いの体を折り曲げ、関節を外し、積み重なって巨大な「正六面体」を形成した。
地獄。
いや、これはアウクトルが描いた「映画」だった。
死と苦痛を美化し、消費するための、悪趣味な「映画」。
「……ふざけるな」
ナラの中で、何かが砕ける音がした。
恐怖? 絶望?
違う。それは、彼女を縛っていた「物語の整合性」という鎖が砕ける音だった。
ナラは、ゆっくりと立ち上がった。
その瞳から、涙は消えていた。
あるのは、底知れない「虚無」と、そこから生まれる爆発的な「意志」だけ。
『おや? まだ動けるのかい? 君の役目は「絶望して死ぬ」ことだ』
アウクトルが、空から嘲笑う。
『設定通りに動きたまえ。君は無力なヒロインだ』
「……設定?」
ナラは、血まみれの唇を歪めた。
「【設定が先にあって、あたしがいるんじゃあ、ない】」
ナラは、自分の胸に手を当てた。
「【他人が先にあって、あたしがいるんじゃあ、ない】」
心臓が動いている。熱い血が流れている。
「【世界が先にあって、あたしがいるんじゃあ、ない】」
……その感覚だけが、唯一の真実。
「【あたしが『認識』しているから、世界がある】のよ!」
それは、論理を超越した、圧倒的な実存の肯定だった。
神がシナリオを書いたのではない。運命が決まっているわけでもない。
あたしが「そうだ」と認識した瞬間にのみ、事象は確定する。
あたしが望まない限り、この悲劇は「事実」として成立しない。
「あんたが書いた『絶望』なんて……あたしが認識しなければ、ただのインクの染みよ!」
ナラは、虚空を睨みつけた。
「あたしは……世界の奴隷じゃない。……あたしという意志が、世界を従えるのよッ!!」
ナラが踏み出した瞬間。
彼女を縛り付けていた「強制力の鎖」が粉砕された。
『な、なんだ!?キャラクターが設定を無視している!?バグか!?』
アウクトルが狼狽する。
彼は慌てて万年筆を走らせた。
『書き直せ!ナラの心臓は停止する!彼女は動けない!』
「うるさいッ!」
ナラは、地面を蹴った。
魔法など使っていない。身体強化もしていない。
ただの筋力。ただの脚力。
だが、その速度は「物理法則」すら置き去りにした。
一瞬で、ナラは空中に浮遊するアウクトルの目の前に出現した。
「ごめんあそばせ?」
ナラは、アウクトルの襟首を掴んだ。
「え……?」
「高みの見物は楽しかった?……席替えの時間よ」
ナラは、アウクトルを地面に向かって全力で投げつけた。
アウクトルが流星のように墜落し、獣医院の前の広場に巨大なクレーターを作る。
ナラは、優雅に着地した。
その衝撃で、周囲の瓦礫が吹き飛ぶ。
「ば、バカな……!私は記述者だぞ!物語の外側にいる存在だぞ!」
アウクトルが、折れた万年筆を握りしめて後ずさる。
「外側?……あたしの射程内に入ったら、そこはもう『戦場』よ」
ナラは、鉄扇を開いた。
いや、鉄扇ではない。彼女が握りしめているのは、瓦礫の中に落ちていた「鉄パイプ」だった。
だが、今の彼女の手にかかれば、それは聖剣よりも鋭い切れ味を持つ。
「死ねぇッ!」
アウクトルがインクの怪物を召喚する。
「邪魔だッ!」
ナラは鉄パイプ一閃。
怪物が両断される。
さらに踏み込み、アウクトルの顔面を鉄パイプで殴打した。
「ぶぎゃッ!?」
アウクトルが吹き飛ぶ。
ナラは追撃する。
逃げるアウクトルの背中を蹴り飛ばし、壁に叩きつけ、マウントポジションを取った。
「痛い!痛い痛い!」
「痛い?……あんたが殺した人たちは、もっと痛かったわよ、ねえ!」
ナラの拳が、アウクトルの顔面を陥没させていく。
シルクハットが潰れ、モノクルが砕け、端正な顔が肉塊に変わる。
「許してくれ!じゃあ書き直す!じゃあハッピーエンドにするから!」
「【ハッピーエンド?いらないわよ!】……あんたの脚本なんて!」
ナラは、最後の一撃を振りかぶった。
「【あたしの人生は……あたしだけが描く】のよォォォッ!!」
アウクトルの頭部が弾け飛んだ。
彼の体は黒いインクとなって霧散し、完全に消滅した。
戦いは、終わった。
……
…
静寂が戻る。
ナラは、返り血を浴びて立っていた。
勝った。
だが、周囲を見渡せば、地獄絵図は変わらない。
死んだ人々は戻らない。
エラーラも、ゴウも、ルルも、ケンジも、アリアも、みんな死んでしまった。
「……つまらないわね…」
ナラは、アウクトルが消えた場所を見下ろした。
そして、不満げに鼻を鳴らした。
「こんな……あっけない幕切れで、あたしが満足するとでも?」
ナラは、手を伸ばした。
そこにあるのは、アウクトルが残した「インク溜まり」。
創造の源。
ナラは、そのインクを鷲掴みにした。
「さあ、起きなさい、三流作家」
ナラは、インクの塊に、自らの生命力を叩き込んだ。
「【物語が終わるのは……。あたしが『終わり』って言った時】だけよ!」
ドクンッ。
インクが脈動した。
そして、逆再生のように集束し、再びアウクトルの姿を形成した。
「は……?私は……死んだはずじゃ……?」
蘇ったアウクトルが、呆然と自分の体を見る。
「生き返らせてあげましたわ!」
ナラは、鉄パイプを捨て、素手で構えた。
「死んで逃げるなんて、許しませんわよ。……あたしが『飽きる』まで、付き合ってもらいますわ!」
「ひッ……!き、貴様、悪魔か!?」
「いいえ?……ただの、欲張りな主人公(自我)ですわ!」
「ふざけるな!私は神だ!お前ごときに!」
アウクトルが激昂し、全魔力を解放した。
世界が歪む。
空から隕石が降り注ぎ、地面から槍が飛び出し、空間そのものが牙を剥く。
回避不能の全方位攻撃。
だが、ナラは笑っていた。
「そうこなくては!」
ナラが動いた。
隕石が落ちてくる。
ナラは、落ちてきた隕石の破片を空中で蹴り飛ばし、別の隕石にぶつけて相殺した。
「ストライク!」
地面から槍が突き出す。
ナラは、槍の穂先の上に着地し、それを足場にしてさらに加速した。
「足場が悪いですわね!」
アウクトルがインクの鞭を振るう。
ナラは、背中を反らして回避し、その反動で回転しながらアウクトルの懐に飛び込む。
「柔軟性は大事ですのよ!」
パンチ。キック。肘打ち。
ナラの攻撃は、流れる水のように途切れない。
アウクトルが防御障壁を張るが、ナラは障壁ごと殴り割る。
「なぜだ!なぜ防御を貫通する!?」
「気合が違いますわ!」
アウクトルが時間を止める魔法を使う。
だが、ナラは止まった時間の中で、無理やり動いた。
「時間が止まってる?……あたしの時計は動いてますわ!」
空中戦。
ナラは、空中に舞う塵を足場にして駆け上がり、アウクトルを蹴り落とす。
「重力に引かれるのは、あんただけにしなさい!」
互角。
いや、傍目には互角に見える。
だが、アウクトルは必死で、ナラは――遊んでいた。
アウクトルの攻撃は全て、「あたらない」。
ナラの攻撃は全て、「急所に入る」。
それは、ナラが「そういう展開」を望んだからだ。
盛り上げるために。
絶望を、希望に変えるための「溜め」を作るために。
「はぁ、はぁ……! ば、化け物め……!」
アウクトルが膝をつく。
ナラは、乱れた髪をかき上げ、ふぅと息を吐いた。
傷一つない。汗一つかいていない。
涼しい顔で、アウクトルを見下ろしている。
「……そろそろ、飽きましたわ」
ナラは、冷めた目で言った。
「あんたの攻撃、パターンが単調なのよ。……驚きがないわ」
「な、何……?」
「クライマックスには、もっと【『愛』が必要】よ。……あんたには、それがない」
ナラは、右手の拳を握りしめた。
そこに、魔力でも、気迫でもない。
ただの「日常」を愛する想いを込めた。
「【終わり】よ。……消えなさい、ペテン師!」
ナラは、ただの拳を放った。
何の変哲もない、真っ直ぐなパンチ。
だが、アウクトルにはそれが、世界を覆いつくす巨人の拳に見えた。
逃げられない。防げない。
これは「結末」だ。
軽い音がした。
ナラの拳が、アウクトルの胸に触れただけに見えた。
だが……次の瞬間。
アウクトルの背後の空間が、扇状に吹き飛んだ。
雲が割れ、空が晴れ渡り、宇宙まで届く衝撃波が突き抜けた。
「……あ……が……」
アウクトルは、自分の胸を見た。
穴が空いていた。
物理的な穴ではない。「物語」としての核が、完全に打ち砕かれた、穴。
「……完敗だ……。……だが、お前の『文脈』だけは、『道連れ』にしてやる……!」
アウクトルが、醜悪な笑みを浮かべた。
彼の身体が光の粒子となって崩れ落ちていく。それは勝利の輝きではなく、世界の記述が剥がれ落ちる不吉な白濁だった。二度と蘇ることのない、完全なる『消滅』。
・・・・・・・・・・
アウクトルが消えると同時に、世界を覆っていた粘つく呪いは解けたはずだった。
降り続いていた不浄なインクの雨が止み、雲の隙間から、冷たく、あまりにも無機質な月光が差し込む。
だが。
グロテスクなオブジェと化していた人々は……元の姿に戻らなかった。
融合していた恋人たちは、ドロドロに溶け合ったまま、もはや……どちらが誰かも分からぬ肉の塊となって静止した。
木になっていた老人たちは、樹皮に人の顔を張り付かせたまま……二度と動かぬ植物として完成した。
キューブになっていた子供たちは……幾何学的な絶望の形のまま、路地裏に積み上げられている。
「……あ……?」
ナラは、震える足で歩み寄った。
目の前には、血塗られた肉塊。かつて、そこには確かな命があった。
昨日まで、あるいは数分前まで、自分の名を呼び、背中を預け合い、助けるために命をかけた「仲間」が……そこにいたはずなのだ。
だが。
思い出せない。
「……誰……?誰ですの……?」
ナラは、肉塊を抱きしめた。
温かい。まだ、血液が流れる温度がある。
だが、その感触を脳が認識した瞬間、記憶の回路が猛烈な勢いで焼き切れていく。
「???、???、??……」
かつてその名を呼ぼうとした喉が、異物を飲み込んだ時のように激しく拒絶反応を起こす。
その名前が何を指していたのか、どんな声で笑い、どんな癖があったのか。
絆という名の糸が、アウクトルの最期の呪いによって、一本残らず断ち切られていた。
「…………うわあああああああっ!」
ナラティブ・ヴェリタスは、地獄のような沈黙の中で絶叫した。
アウクトルを倒せば、すべてが解決すると思っていた。悪を滅ぼせば、愛する者たちは笑顔で戻ってくると信じていた。
だが、現実は……ただ、残酷だった。
目の前で無惨な肉の塊と化した者たちを、ナラは「誰ひとりとして」特定できない。
名前が分からない。絆の記憶がない。存在の定義が消えた。
対象を認識できない以上、蘇生魔法を唱えるための「標的」すら、ここには存在しないのだ。
ナラは、自分の爪が剥がれるほどに地面を掻きむしった。
誰かを失った。
心に巨大な穴が空き、そこからドクドクと大切な感情が流れ出しているのは分かる。
なのに、その穴の形が、誰の不在によるものなのかが分からない。
「悔しい……悔しいですわ……!……誰なのよ、あんたたちは!あたしは、あたしは一体何のために戦ったの……!【愛していたのに!……あたしは、あたしが誰を愛していたのかを覚えていない!】」
悔しい。
誰を失ったのかを、覚えていない。
悔しい。
何に悔しがっているのかも、もはや分からない。
ただ、胸を締め付ける正体不明の喪失感だけが、ナラの魂を鋭利なナイフで削り続ける。
「……うう、あああ……っ!」
芝居がかった高笑いすら作れない。
絆という、関係性の歴史の「文脈」が、アウクトルによって完全に破壊されたのだ。
ナラは泣いた。血を吐くような思いで、名もなき肉の塊に縋り付いて泣いた。
その時。
背後の瓦礫の山で、カサリと音がした。
廃人となっていたエラーラが、パチクリと、あまりにも無垢な瞬きをした。
「これは……何の騒ぎだね……?」
ハスキーで、しかしどこか虚ろな声。
ナラは、弾かれたように振り返った。
「……お母さま!? ……エラーラ! ああああ……っ、よかったですわ、お母さまだけは……!獣病院のみんなは……」
ナラは、這うようにしてエラーラに駆け寄った。
そして、母の冷たい手を、縇り付くように握った。
エラーラは、ナラの手を……ゆっくりと握り返した。
「みんな?……ナラ君……獣病院のみんなって、誰のことだい?獣病院には、初めから2人しか居ないだろう?」
エラーラの青い目は、ナラを見つめている。
彼女の記憶もまた、アウクトルによって焼却されていた。
「……え……?」
「酷い惨状だね。論理的に見て、ここには大きな爆発か、あるいは系統的な虐殺があったようだ。……ところで、ナラ君。君はなぜ泣いているんだい?」
エラーラは、首を傾げた。
「君の手は、とても温かい。……なんだか、理由もなく、胸の奥がチリチリと痛むよ。……これは、医学的に見て、どんな病名なのだろうね?」
「……ああ、ああああ…………っ」
ナラは、絶望の深淵に叩き落とされた。
世界は救われた。悪は滅びた。
だが、そこに「救われた人々」はいない。
残されたのは、記憶を焼かれた最強の魔導師と、名前を失った仲間たちの残骸。
そして、誰を愛していたのかも分からなくなった、空っぽの探偵。
ヴェリタス探偵事務所に、かつての日常が戻ることは二度とない。
ナラは、母親を抱きしめ、朝日が昇り始めた王都の廃墟で、音もなく崩れ落ちた。
何故、ナラティブ・ヴェリタスは生き延びることができたのか。
論理などない。
理由などない。
ただ、監督が去った後の無慈悲な舞台の上で、名前のない「孤独」を永遠に味わい続けるために、彼女は放置されただけだ。
空は、あまりにも残酷なまでに、晴れ渡っていた。




