第3話:文脈の破壊者(2)
王都に冷たい雨が降り続いていた。
路地裏の軒下で、カレル警部は震える手でメモを取っていた。
右手は以前の拷問で砕かれ、不自然に曲がっている。彼は慣れない左手で、ペンを握りしめていた。
「……ゴウ君。今日の雨は冷たいな」
カレルは、誰もいない空間に話しかけた。
周囲の通行人は、ボロボロのコートを着て虚空と会話する大男を、気味悪そうに避けて通る。
かつて「王都の死神」と恐れられた敏腕警部の面影は、今の彼にはない。あるのは、妄想に取り憑かれた狂人の姿だけだ。
だが、カレルの瞳は正気だった。いや、正気を保つために必死だった。
(油断するな。気を抜けば、私も忘れてしまう)
彼の懐には、泥と手垢にまみれた一冊の警察手帳が入っている。
そこには、捜査情報ではなく、ある少年の記録がびっしりと書き込まれていた。
『ゴウ・オクトーバー。中学1年生。科学が好き』
『笑顔がぎこちない。ケンジ君を父のように慕っていた』
『あの日、私からすき焼きを貰って泣いた』
世界から削除された少年、ゴウ。
彼を覚えているのは、この世界でカレルただ一人。
カレルの脳細胞が、ゴウの唯一の「存在領域」なのだ。
「私は……忘れない。世界が君を拒絶しても、私だけは君を観測し続ける」
「……相変わらず、痛々しい姿ね」
探偵・ナラティブが現れた。
彼女はカレルの「妄想」を一切信じていない。だが、カレルの執念が導き出した「地下組織の動き」には興味を持っていた。
「ナラ君か。……見つけたぞ。ゴウ君を消した術者のアジトだ」
カレルは地図を広げた。指し示したのは、王都の地下深く、廃棄された浄化槽の奥。
ナラティブは眉をひそめた。
「またドブの中? ……で、その『ゴウ』ってのは、まだあんたの隣にいるの?」
「ああ、いるとも。今も君の無礼に怒っているよ」
カレルは真顔で答えた。ナラには何も見えない。
「ふん。まあいいわ。あんたが追ってる『ゲシュペンスト』とかいう術者。そいつが最近、大量の魔力触媒を買い込んでいるのは事実よ。……行くの? その体で」
カレルは、動かない右手をコートのポケットに突っ込み、左手で愛用の魔導拳銃を確認した。
「行くさ。私が生きているうちに……あの子の存在を世界に返してやらねばならん。それが、大人が子供にしてやれる、最後の償いだ」
地下水道は、腐臭と湿気に満ちていた。
カレルとナラは、汚水の中を進んだ。
「……ここね」
巨大な鉄扉の前で、ナラが足を止めた。
扉の向こうから、どす黒い魔力が漏れ出している。
「ナラ君。君はここで待機していてくれ」
カレルが言った。
「はあ?何言ってんの。あんた片手で何ができるのよ」
「これは……私の事件だ。私が守れなかった子供の仇は、私の手で討たねばならん。それに……万が一私が失敗したら、君が警察を呼んでくれ」
カレルの目は揺るがなかった。
ナラは肩をすくめ、壁に寄りかかった。
「勝手になさい。死んでも拾ってあげないわよ」
カレルは扉を蹴り開けた。
中は広大な儀式の間になっていた。中央には魔法陣。そして、その奥に男が立っていた。
顔の半分が爛れた闇魔術師、ゲシュペンスト。
「おや。カレル警部か。よくここがわかったな。鼻だけは利くようだ」
ゲシュペンストは、実験台の上にある「何か」を弄りながら振り返った。
カレルは銃を構えた。
「ゲシュペンストォォォッ!」
怒号が地下に木霊する。
「貴様がかけた呪い……今すぐ解いてもらうぞ!
あの子を……ゴウ君を返せ!」
ゲシュペンストは嘲笑った。
「あのガキのことか? まだ覚えていたとは、しつこい男だ。だが無駄だ。『リベラルの呪い』は不可逆だ。一度削除されたデータは戻らん。あいつは永遠に『不在』のままだ。世界はお前が狂ったと思っている。お前一人が吠えたところで、真実は変わらんよ」
「……ならば、貴様の命で贖ってもらう!!」
「やれるものならやってみろ、老いぼれ!」
ゲシュペンストが杖を振るう。
床から無数の影の槍が突き出し、カレルを襲う。
カレルは走った。
巨体とは思えぬ俊敏さで槍を回避し、左手でトリガーを引く。
「遅い!」
魔術障壁が弾丸を弾く。
「片手では照準も甘いな!」
ゲシュペンストの放った炎弾が、カレルの腹を『貫いた』。
コートが燃え、皮膚が焼ける。
カレルは、肉体的にはこのとき死んでいた。
だが。
義憤が、愛が、執念が、信念が、絆が……人間としての心が、彼をこの世に繋ぎ止めていた。
「死ねぇッ!」
ゲシュペンストが巨大な魔獣を召喚する。
汚水から生まれたヘドロの怪物が、カレルに覆いかかった。
カレルは弾切れの銃を捨てず、ヘドロの中に飛び込んだ。
彼は魔獣の腕をすり抜け、懐に飛び込む。
そして、動かないはずの右手――砕かれた鉄のような拳を、魔獣の核に叩きつけた。
「なっ!?」
骨が軋む音。激痛が走る。
だが、カレルは構わなかった。
「へーっ……へええええっ…………私のな、手などな、……いくらでも……くしっ!……くれてやるッ!」
魔獣が崩れ落ちる隙に、カレルは壁に体を打ち付け、左手の銃のスライドを強引に戻して排莢、再装填した。
血だらけの口で弾丸を咥え、一発ずつ込める。
その姿は、警部というより、悪魔だった。
「ふざけるな! なぜそこまでして戦う!」
ゲシュペンストが後退る。
「たかが忘れられたガキ一人のために!」
カレルは、血を吐きながら笑った。
その視界の端には、いつもゴウがいる。
泣き虫で、科学が好きで、不器用な笑顔の少年が。
「たかが……だと……?あの子は……つぷっ!?……私の『正義』そのものだ!あの子を忘れた世界など……コッッッ!!!…………私が認めるものかァァァッ!」
カレルは防御を捨てて突っ込んだ。
ゲシュペンストの放つ真空の刃が、カレルの腹部を、同じ場所だけを、何度も何度も切り裂く。
内臓が見えるほどの深手。
だが、カレルは止まらない。
「な、来るな!化け物め!」
距離ゼロ。
カレルは、ゲシュペンストの胸倉を右手で鷲掴みにした。
「ぎいういいあ!……ゴウ君の痛みあ!!!……思い知ッ!」
カレルの拳銃が、ゲシュペンストの心臓に押し当てられ、火を噴いた。
ゼロ距離射撃。
魔術障壁ごと、心臓を吹き飛ばす。
ゲシュペンストの目から光が消える。
術者は死んだ。
ドサリ、とゲシュペンストが倒れる。
カレルもまた、膝から崩れ落ちた。
腹部の傷は致命的だった。血だまりが広がり、意識が遠のく。
「いいいい!……がああああ!!!……ぶぬぅううう!!!……はぁ……はぁあああ?……やったぞ……ゴウく!!!……ぶげっ?」
カレルは薄れゆく意識の中で、勝利を確信した。
これで呪いは解ける。
世界はゴウを思い出す。
ナラティブも、アリアも、ルルも。
またあの獣病院で、ゴウを囲んで笑い合える日が来る。
「ひひひいいひ!!!……痛かったろう……もう大丈夫だ……ごぴっ?」
カレルは、誰もいない空間を撫でた。
そこには、安らかに微笑むゴウの姿が見えていた。
だが、現実は残酷だった。
死んだゲシュペンストの体から、黒い靄のようなものが立ち上った。
それは霧散することなく、まるで宿主を失った寄生虫のように、「彼を殺した者」へと向かった。
『リベラルの呪い』の術式は、管理者の死によって暴走し、その因果を断ち切ったカレルを「新たなノイズ」として認識したのだ。
世界システムが、エラーの発生源を修正しようと作動する。
黒い靄が、カレルの体に染み込んでいく。
カレルは気づかない。
彼はただ、懐の手帳を守るように抱きしめていた。
「……随分と静かになったわね?」
ヒールの音が響く。
ナラが、ゆっくりと儀式の間に入ってきた。
彼女は、倒れているゲシュペンストの死体と、血の海に沈むカレルを見た。
「警部。……生きてる?」
カレルは、霞む目でナラティブを見た。
「あがち……で……ぶへぇっ!!!……ナ……ナラ……君か……」
カレルの心に、最後の希望が灯る。
(ナラティブが来た。彼女なら……この手帳を託せる)
カレルは知っていた。自分はもう助からない。
私が死ねば、私の脳内にあるゴウの記憶も消える。
だからこそ、全てを記したこの手帳だけは、誰かに遺さねばならない。
「……ナラく……こっちへ……つぇーーーへっ!!!……はーっ……はーっ……き、来てくれ……」
カレルは、震える左手で、懐から警察手帳を取り出した。
泥と、カレルの血で真っ赤に染まった手帳。
そこには、ゴウの似顔絵、誕生日、好きだった科学の話、全てが書かれている。
ナラティブが近づいてくる。
彼女の顔には、負傷した仲間を気遣う表情があった。
「酷い出血ね。すぐにエラーラを呼ぶわ」
ナラティブがしゃがみ込もうとする。
「い!……いいいか!……ふゅーっ!!!はーーーっ?……おれは……もういい……。ちが!!!……それおり……これを……」
カレルは、手帳を差し出した。
「こえに……ぜぶかいてあっ……。ごくのことが……。あのこがいたあかしが……。たのうっっっ?……しぇ!!!……きみが……これをうけといてってくれ……。そして……あのこを……わすれないでやっ……あああああっ!……はーっ…………」
カレルの、魂からの叫び。
ナラティブは、その手帳に手を伸ばした。
「……わかったわ。預かる」
彼女の指先が、手帳に触れようとしたその瞬間。
世界が、改変された。
呪いのインストールが完了したのだ。
ナラティブの手が、空中でピタリと止まった。
彼女の表情が凍りついた。
数瞬前まで浮かんでいた「心配」や「同情」の色が、急速に色褪せていく。
代わりに浮かび上がってきたのは、生理的な嫌悪と、理解不能な不審者を見る冷徹な眼差しだった。
「……は、キモ!……誰?」
ナラティブは、触れようとした手帳から、感電したように手を引っ込めた。
カレルは呆然とした。
「……なら……く……むげっ!?……ぐうううう!」
ナラティブは立ち上がり、後ずさった。
彼女の目に映っているのは、「勇敢なカレル警部」ではない。
「地下水道で血まみれになって倒れている、薄汚い浮浪者」だった。
あの特徴的な帽子も、コートも、ただの薄汚いボロ布にしか見えない。
彼が誰なのか、名前すら思い出せない。
いや、脳が「知る必要のないゴミ」として処理している。
「何アンタ?……汚い!」
ナラティブは、ハンカチを取り出し、鼻を覆った。
「……じぎっ!?」
カレルの心臓が凍りつく。
「おいだよぉぁあ……!かいるけいぶだ……!いみの……ううじんの……!ではああああっ!!!」
「寄らないで!汚い!」
ナラティブは、鋭い声で拒絶した。
「知らないわよ、アンタみたいな浮浪者。……うわ!奥に死体があるじゃない。アンタがやったのね!」
ナラティブの目は冷酷だった。
彼女にとって、目の前の男は「殺人現場にいる不審な狂人」でしかない。
「あ!あっちきり……!でぷぅぅぅぅっ!?…………てこう……!てこうだけでも……!あのこが……どうくんがあああ……!」
カレルは必死に手を伸ばした。
血塗れの手帳を、ナラティブの足元に差し出す。
涙の、最期の慟哭。
「たおむっ!!!ならちぶくッ!!!ナラティブ君!!!…………いいいいいぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃッッッッッッ!!!────!!!」
ナラティブは、足元の手帳を見下ろした。
泥と血にまみれた、不潔な紙の束。
彼女は眉をひそめ、靴のつま先でそれを弾いた。
手帳は、カレルの手から弾き飛ばされ、汚水の中に落ちた。
「…………」
カレルの喉から、音にならない悲鳴が漏れた。
「気持ちが悪いのよブツブツと!……何なの!ヤクでもやってるの?」
ナラティブは、汚れた靴先を地面で拭い、懐から魔導通信機を取り出した。
「はいもしもし憲兵団?地下水道第4区画で、殺人事件よ。ええ……犯人がいるわ。薄汚い格好で、凶器を持って暴れてる。……まだ息があるみたいだけど、放っておけば死ぬわね」
ナラティブは、カレルを冷たく見下ろしながら報告を続けた。
「ええ、私は部外者よ。通りすがり。気持ち悪いからもう帰るわ。あとは勝手にして」
通話が切れる。
ナラティブは、カレルに背を向けた。
カレルは泥の中を這い、ナラティブの去りゆく背中に手を伸ばした。
だが、その指先は届かない。
ナラティブは一度も振り返ることなく、闇の中へと消えていった。
静寂が戻った地下空間。
カレルは一人、残された。
手の届かない場所で、手帳が沈んでいく。
汚水がページに染み込み、インクを滲ませていく。
カレルが命を削って書き留めた、ゴウの笑顔のスケッチが、文字が、溶けて消えていく。
カレルの目から、涙が溢れ出した。
痛みではない。
絶望だ。
カレルの視界が暗く染まっていく。
遠くから、サイレンの音が聞こえてくる。
かつて自分が所属し、誇りに思っていた憲兵団のサイレンだ。
だが、彼らが来る頃には、自分はただの「身元不明の殺人犯」として処理されるだろう。
カレルは、泥に沈みゆく手帳を見つめたまま、動かなくなった。
その瞳には、最期まで少年の幻影が映っていたのかもしれない。
「…………」
カレル・オータムは息絶えた。
王都の地下深く。
誰にも看取られず、誰にも記憶されず。
一人の英雄が、泥の中でゴミのように死んだ。
数時間後。
憲兵団が現場に到着した。
「うわっ、きったね!なんだこの死体」
「乞食同士の殺し合いか?凶器の銃を持ってるぞ!」
「身元は?」
「所持品なし。指紋も焼けてるし、顔も泥だらけでわからん。獣人部落から近いから、おそらく外人か、獣耳を自ら削ぎ落とした身体障害者だな。まあどうせ片輪な民族の混血児か何かだろ!ハハハハハ!」
若い憲兵が、汚水に沈んでいた手帳を拾い上げた。
「隊長、これ。なんかメモ帳みたいなのが」
隊長は、ドロドロになった手帳を鼻先で摘んだ。
ページを開くが、中は水と血でぐしゃぐしゃになっており、文字は判読不能だった。
「……なんだこれ、意味不明な落書きだな。まあ、気狂いの戯言だろうな!」
「証拠品にします?」
「いらんわ!……こんな汚いゴミ、保管庫が臭くなるだけだ。焼却処分!さ!仕事仕事!」
手帳は、証拠品袋ではなく、ゴミ袋へと放り込まれた。
「まったく、こんなドブの中ではしゃいで死ぬなんて、ろくな人間じゃなかったんだろうな!心ない野蛮な田舎者は都会に来ないでくれよ!」
憲兵たちは、カレルの遺体を「身元不明遺体」として袋に詰め、運び出した。
誰も、彼がこの憲兵団の伝説的な警部だったことに気づかない。
誰も、彼が世界で一番優しい嘘をつき続けた男だったことを知らない。
雨が上がった王都の空。
何も知らぬ人々が、今日も平和に暮らしている。
その足元の暗渠で、二つの魂の物語が、永遠に闇へと葬られたことなど、この世の誰も、知る由もなかった。




