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ヴェリタスの最終定理2 ナラティブ・ヴェリタス  作者: Wan Liyue 王璃月
●第6章:文脈の破壊者

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第3話:文脈の破壊者(2)

王都に冷たい雨が降り続いていた。

路地裏の軒下で、カレル警部は震える手でメモを取っていた。

右手は以前の拷問で砕かれ、不自然に曲がっている。彼は慣れない左手で、ペンを握りしめていた。


「……ゴウ君。今日の雨は冷たいな」


カレルは、誰もいない空間に話しかけた。

周囲の通行人は、ボロボロのコートを着て虚空と会話する大男を、気味悪そうに避けて通る。

かつて「王都の死神」と恐れられた敏腕警部の面影は、今の彼にはない。あるのは、妄想に取り憑かれた狂人の姿だけだ。

だが、カレルの瞳は正気だった。いや、正気を保つために必死だった。


(油断するな。気を抜けば、私も忘れてしまう)


彼の懐には、泥と手垢にまみれた一冊の警察手帳が入っている。

そこには、捜査情報ではなく、ある少年の記録がびっしりと書き込まれていた。


『ゴウ・オクトーバー。中学1年生。科学が好き』


『笑顔がぎこちない。ケンジ君を父のように慕っていた』


『あの日、私からすき焼きを貰って泣いた』


世界から削除された少年、ゴウ。

彼を覚えているのは、この世界でカレルただ一人。

カレルの脳細胞が、ゴウの唯一の「存在領域」なのだ。


「私は……忘れない。世界が君を拒絶しても、私だけは君を観測し続ける」


「……相変わらず、痛々しい姿ね」


探偵・ナラティブが現れた。

彼女はカレルの「妄想」を一切信じていない。だが、カレルの執念が導き出した「地下組織の動き」には興味を持っていた。


「ナラ君か。……見つけたぞ。ゴウ君を消した術者のアジトだ」


カレルは地図を広げた。指し示したのは、王都の地下深く、廃棄された浄化槽の奥。

ナラティブは眉をひそめた。


「またドブの中? ……で、その『ゴウ』ってのは、まだあんたの隣にいるの?」


「ああ、いるとも。今も君の無礼に怒っているよ」


カレルは真顔で答えた。ナラには何も見えない。


「ふん。まあいいわ。あんたが追ってる『ゲシュペンスト』とかいう術者。そいつが最近、大量の魔力触媒を買い込んでいるのは事実よ。……行くの? その体で」


カレルは、動かない右手をコートのポケットに突っ込み、左手で愛用の魔導拳銃を確認した。


「行くさ。私が生きているうちに……あの子の存在を世界に返してやらねばならん。それが、大人が子供にしてやれる、最後の償いだ」


地下水道は、腐臭と湿気に満ちていた。

カレルとナラは、汚水の中を進んだ。


「……ここね」


巨大な鉄扉の前で、ナラが足を止めた。

扉の向こうから、どす黒い魔力が漏れ出している。


「ナラ君。君はここで待機していてくれ」


カレルが言った。


「はあ?何言ってんの。あんた片手で何ができるのよ」


「これは……私の事件だ。私が守れなかった子供の仇は、私の手で討たねばならん。それに……万が一私が失敗したら、君が警察を呼んでくれ」


カレルの目は揺るがなかった。

ナラは肩をすくめ、壁に寄りかかった。


「勝手になさい。死んでも拾ってあげないわよ」


カレルは扉を蹴り開けた。

中は広大な儀式の間になっていた。中央には魔法陣。そして、その奥に男が立っていた。

顔の半分が爛れた闇魔術師、ゲシュペンスト。


「おや。カレル警部か。よくここがわかったな。鼻だけは利くようだ」


ゲシュペンストは、実験台の上にある「何か」を弄りながら振り返った。

カレルは銃を構えた。


「ゲシュペンストォォォッ!」


怒号が地下に木霊する。


「貴様がかけた呪い……今すぐ解いてもらうぞ!

あの子を……ゴウ君を返せ!」


ゲシュペンストは嘲笑った。


「あのガキのことか? まだ覚えていたとは、しつこい男だ。だが無駄だ。『リベラルの呪い』は不可逆だ。一度削除されたデータは戻らん。あいつは永遠に『不在』のままだ。世界はお前が狂ったと思っている。お前一人が吠えたところで、真実は変わらんよ」


「……ならば、貴様の命で贖ってもらう!!」


「やれるものならやってみろ、老いぼれ!」


ゲシュペンストが杖を振るう。

床から無数の影の槍が突き出し、カレルを襲う。

カレルは走った。

巨体とは思えぬ俊敏さで槍を回避し、左手でトリガーを引く。


「遅い!」


魔術障壁が弾丸を弾く。


「片手では照準も甘いな!」


ゲシュペンストの放った炎弾が、カレルの腹を『貫いた』。

コートが燃え、皮膚が焼ける。

カレルは、肉体的にはこのとき死んでいた。

だが。

義憤が、愛が、執念が、信念が、絆が……人間としての心が、彼をこの世に繋ぎ止めていた。


「死ねぇッ!」


ゲシュペンストが巨大な魔獣を召喚する。

汚水から生まれたヘドロの怪物が、カレルに覆いかかった。

カレルは弾切れの銃を捨てず、ヘドロの中に飛び込んだ。

彼は魔獣の腕をすり抜け、懐に飛び込む。

そして、動かないはずの右手――砕かれた鉄のような拳を、魔獣の核に叩きつけた。


「なっ!?」


骨が軋む音。激痛が走る。

だが、カレルは構わなかった。


「へーっ……へええええっ…………私のな、手などな、……いくらでも……くしっ!……くれてやるッ!」


魔獣が崩れ落ちる隙に、カレルは壁に体を打ち付け、左手の銃のスライドを強引に戻して排莢、再装填した。

血だらけの口で弾丸を咥え、一発ずつ込める。

その姿は、警部というより、悪魔だった。


「ふざけるな! なぜそこまでして戦う!」


ゲシュペンストが後退る。


「たかが忘れられたガキ一人のために!」


カレルは、血を吐きながら笑った。

その視界の端には、いつもゴウがいる。

泣き虫で、科学が好きで、不器用な笑顔の少年が。


「たかが……だと……?あの子は……つぷっ!?……私の『正義』そのものだ!あの子を忘れた世界など……コッッッ!!!…………私が認めるものかァァァッ!」


カレルは防御を捨てて突っ込んだ。

ゲシュペンストの放つ真空の刃が、カレルの腹部を、同じ場所だけを、何度も何度も切り裂く。

内臓が見えるほどの深手。

だが、カレルは止まらない。


「な、来るな!化け物め!」


距離ゼロ。

カレルは、ゲシュペンストの胸倉を右手で鷲掴みにした。


「ぎいういいあ!……ゴウ君の痛みあ!!!……思い知ッ!」


カレルの拳銃が、ゲシュペンストの心臓に押し当てられ、火を噴いた。

ゼロ距離射撃。

魔術障壁ごと、心臓を吹き飛ばす。

ゲシュペンストの目から光が消える。

術者は死んだ。

ドサリ、とゲシュペンストが倒れる。

カレルもまた、膝から崩れ落ちた。

腹部の傷は致命的だった。血だまりが広がり、意識が遠のく。


「いいいい!……がああああ!!!……ぶぬぅううう!!!……はぁ……はぁあああ?……やったぞ……ゴウく!!!……ぶげっ?」


カレルは薄れゆく意識の中で、勝利を確信した。

これで呪いは解ける。

世界はゴウを思い出す。

ナラティブも、アリアも、ルルも。

またあの獣病院で、ゴウを囲んで笑い合える日が来る。


「ひひひいいひ!!!……痛かったろう……もう大丈夫だ……ごぴっ?」


カレルは、誰もいない空間を撫でた。

そこには、安らかに微笑むゴウの姿が見えていた。

だが、現実は残酷だった。

死んだゲシュペンストの体から、黒い靄のようなものが立ち上った。

それは霧散することなく、まるで宿主を失った寄生虫のように、「彼を殺した者」へと向かった。

『リベラルの呪い』の術式は、管理者の死によって暴走し、その因果を断ち切ったカレルを「新たなノイズ」として認識したのだ。

世界システムが、エラーの発生源を修正しようと作動する。

黒い靄が、カレルの体に染み込んでいく。

カレルは気づかない。

彼はただ、懐の手帳を守るように抱きしめていた。


「……随分と静かになったわね?」


ヒールの音が響く。

ナラが、ゆっくりと儀式の間に入ってきた。

彼女は、倒れているゲシュペンストの死体と、血の海に沈むカレルを見た。


「警部。……生きてる?」


カレルは、霞む目でナラティブを見た。


「あがち……で……ぶへぇっ!!!……ナ……ナラ……君か……」


カレルの心に、最後の希望が灯る。


(ナラティブが来た。彼女なら……この手帳を託せる)


カレルは知っていた。自分はもう助からない。

私が死ねば、私の脳内にあるゴウの記憶も消える。

だからこそ、全てを記したこの手帳だけは、誰かに遺さねばならない。


「……ナラく……こっちへ……つぇーーーへっ!!!……はーっ……はーっ……き、来てくれ……」


カレルは、震える左手で、懐から警察手帳を取り出した。

泥と、カレルの血で真っ赤に染まった手帳。

そこには、ゴウの似顔絵、誕生日、好きだった科学の話、全てが書かれている。

ナラティブが近づいてくる。

彼女の顔には、負傷した仲間を気遣う表情があった。


「酷い出血ね。すぐにエラーラを呼ぶわ」


ナラティブがしゃがみ込もうとする。


「い!……いいいか!……ふゅーっ!!!はーーーっ?……おれは……もういい……。ちが!!!……それおり……これを……」


カレルは、手帳を差し出した。


「こえに……ぜぶかいてあっ……。ごくのことが……。あのこがいたあかしが……。たのうっっっ?……しぇ!!!……きみが……これをうけといてってくれ……。そして……あのこを……わすれないでやっ……あああああっ!……はーっ…………」


カレルの、魂からの叫び。

ナラティブは、その手帳に手を伸ばした。


「……わかったわ。預かる」


彼女の指先が、手帳に触れようとしたその瞬間。


世界が、改変された。


呪いのインストールが完了したのだ。

ナラティブの手が、空中でピタリと止まった。

彼女の表情が凍りついた。

数瞬前まで浮かんでいた「心配」や「同情」の色が、急速に色褪せていく。

代わりに浮かび上がってきたのは、生理的な嫌悪と、理解不能な不審者を見る冷徹な眼差しだった。


「……は、キモ!……誰?」


ナラティブは、触れようとした手帳から、感電したように手を引っ込めた。


カレルは呆然とした。


「……なら……く……むげっ!?……ぐうううう!」


ナラティブは立ち上がり、後ずさった。

彼女の目に映っているのは、「勇敢なカレル警部」ではない。

「地下水道で血まみれになって倒れている、薄汚い浮浪者」だった。

あの特徴的な帽子も、コートも、ただの薄汚いボロ布にしか見えない。

彼が誰なのか、名前すら思い出せない。

いや、脳が「知る必要のないゴミ」として処理している。


「何アンタ?……汚い!」


ナラティブは、ハンカチを取り出し、鼻を覆った。


「……じぎっ!?」


カレルの心臓が凍りつく。


「おいだよぉぁあ……!かいるけいぶだ……!いみの……ううじんの……!ではああああっ!!!」


「寄らないで!汚い!」


ナラティブは、鋭い声で拒絶した。


「知らないわよ、アンタみたいな浮浪者。……うわ!奥に死体があるじゃない。アンタがやったのね!」


ナラティブの目は冷酷だった。

彼女にとって、目の前の男は「殺人現場にいる不審な狂人」でしかない。


「あ!あっちきり……!でぷぅぅぅぅっ!?…………てこう……!てこうだけでも……!あのこが……どうくんがあああ……!」


カレルは必死に手を伸ばした。

血塗れの手帳を、ナラティブの足元に差し出す。

涙の、最期の慟哭。


「たおむっ!!!ならちぶくッ!!!ナラティブ君!!!…………いいいいいぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃッッッッッッ!!!────!!!」


ナラティブは、足元の手帳を見下ろした。

泥と血にまみれた、不潔な紙の束。

彼女は眉をひそめ、靴のつま先でそれを弾いた。

手帳は、カレルの手から弾き飛ばされ、汚水の中に落ちた。


「…………」


カレルの喉から、音にならない悲鳴が漏れた。


「気持ちが悪いのよブツブツと!……何なの!ヤクでもやってるの?」


ナラティブは、汚れた靴先を地面で拭い、懐から魔導通信機を取り出した。


「はいもしもし憲兵団?地下水道第4区画で、殺人事件よ。ええ……犯人がいるわ。薄汚い格好で、凶器を持って暴れてる。……まだ息があるみたいだけど、放っておけば死ぬわね」


ナラティブは、カレルを冷たく見下ろしながら報告を続けた。


「ええ、私は部外者よ。通りすがり。気持ち悪いからもう帰るわ。あとは勝手にして」


通話が切れる。

ナラティブは、カレルに背を向けた。

カレルは泥の中を這い、ナラティブの去りゆく背中に手を伸ばした。

だが、その指先は届かない。

ナラティブは一度も振り返ることなく、闇の中へと消えていった。

静寂が戻った地下空間。

カレルは一人、残された。

手の届かない場所で、手帳が沈んでいく。

汚水がページに染み込み、インクを滲ませていく。

カレルが命を削って書き留めた、ゴウの笑顔のスケッチが、文字が、溶けて消えていく。

カレルの目から、涙が溢れ出した。

痛みではない。

絶望だ。

カレルの視界が暗く染まっていく。

遠くから、サイレンの音が聞こえてくる。

かつて自分が所属し、誇りに思っていた憲兵団のサイレンだ。

だが、彼らが来る頃には、自分はただの「身元不明の殺人犯」として処理されるだろう。

カレルは、泥に沈みゆく手帳を見つめたまま、動かなくなった。

その瞳には、最期まで少年の幻影が映っていたのかもしれない。


「…………」


カレル・オータムは息絶えた。

王都の地下深く。

誰にも看取られず、誰にも記憶されず。

一人の英雄が、泥の中でゴミのように死んだ。


数時間後。

憲兵団が現場に到着した。


「うわっ、きったね!なんだこの死体」


「乞食同士の殺し合いか?凶器の銃を持ってるぞ!」


「身元は?」


「所持品なし。指紋も焼けてるし、顔も泥だらけでわからん。獣人部落から近いから、おそらく外人か、獣耳を自ら削ぎ落とした身体障害者だな。まあどうせ片輪な民族の混血児か何かだろ!ハハハハハ!」


若い憲兵が、汚水に沈んでいた手帳を拾い上げた。


「隊長、これ。なんかメモ帳みたいなのが」


隊長は、ドロドロになった手帳を鼻先で摘んだ。

ページを開くが、中は水と血でぐしゃぐしゃになっており、文字は判読不能だった。


「……なんだこれ、意味不明な落書きだな。まあ、気狂いの戯言だろうな!」


「証拠品にします?」


「いらんわ!……こんな汚いゴミ、保管庫が臭くなるだけだ。焼却処分!さ!仕事仕事!」


手帳は、証拠品袋ではなく、ゴミ袋へと放り込まれた。


「まったく、こんなドブの中ではしゃいで死ぬなんて、ろくな人間じゃなかったんだろうな!心ない野蛮な田舎者は都会に来ないでくれよ!」


憲兵たちは、カレルの遺体を「身元不明遺体」として袋に詰め、運び出した。

誰も、彼がこの憲兵団の伝説的な警部だったことに気づかない。

誰も、彼が世界で一番優しい嘘をつき続けた男だったことを知らない。

雨が上がった王都の空。

何も知らぬ人々が、今日も平和に暮らしている。

その足元の暗渠で、二つの魂の物語が、永遠に闇へと葬られたことなど、この世の誰も、知る由もなかった。

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