第6話:友よさらば(6)
世界が「まごころ」によってつぎつぎと書き換えられていく外の喧騒とは裏腹に、獣医院の二階、かつてのリビングルームは、死のような静寂に包まれていた。
いや、正確には「死を待つ静寂」だ。
ノアは、部屋の隅にある古いソファの隙間に埋まるようにして座っていた。
世界中がノアを「貴族」だの「英雄」だの「悪魔」だのと呼ぶ。
だが、そんなことは、まるで、どうでもよかった。
エラーラが外で何を壊そうが、誰を殺そうが、もう、知ったことではない。
ノアにとっての「世界の終わり」は、もうとっくの昔に完了していたのだ。
今、ここで呼吸をしているのは、少年の形をした「後悔」の塊に過ぎなかった。
この獣医院は、今や世界で最も危険な場所であり、同時に「世界の中心」となっていた。
なぜなら、すべての元凶とされる少年ノアと、破壊の化身となった大賢者エラーラが住んでいるからだ。
だから、「客」が来る。
ある日の午後。
激しく扉が叩かれた。
入ってきたのは、ボロボロの法衣を纏った男と数十人の信者たちだった。
「我らは『原罪の教団』!ノア様!あなたこそが真の救世主だ!『生まれながらにして人は罪人である』という真理を、自らの手で証明された尊き方!」
奥の実験室から、エラーラが現れた。
彼女は左手にマグカップ、右手にドライヤーのような形をした機械を持っていた。
「この子は今、自己との対話で忙しいんだ。宗教勧誘なら他をあたってくれたまえ」
教祖と呼ばれた男が激昂した。
エラーラは、すかさず、ドライヤーのスイッチを入れた。
『高速発酵促進機』。
温風が教団員たちを撫でた。
次の瞬間、彼らの皮膚がボコボコと泡立った。
体内のバクテリアが通常の数億倍の速度で活性化し、肉体を分解し始めたのだ。
数十人の人間が、見る見るうちに茶色の泥へと変わっていく。
悲鳴を上げる喉も、祈りを捧げる手も、すべてがドロドロに溶け合い、豊かな土壌成分へと還った。
「実にエコロジーだ!家庭菜園のトマトが喜びそうだねぇ!」
エラーラは鼻歌交じりに、泥の山をほうきで掃き出した。
また別の日。
窓ガラスを割って、覆面のテロリストたちが侵入してきた。
「我々は『市民解放戦線』だ!ノア!貴様を処刑し、その首を全世界に晒すことで、我々の正義を証明する!」
だが、銃声は響かなかった。
エラーラが、壁のレバーを引いたからだ。
部屋の重力が、局所的に反転した。
しかも、ただの反転ではない。「メビウスの輪」状にねじれた重力場が発生したのだ。
テロリストたちの体は、不可能な角度に折れ曲がり、裏返り、自分自身の消化管の中に頭が入り込むような、位相幾何学的な悪夢となって圧縮された。
骨と肉が複雑骨折どころではない、存在骨折を起こして一つの肉団子になる。
「はい、粗大ゴミの一丁あがりだね!」
またある時は、分厚い眼鏡をかけた学者がやってきた。
「私は王都大学の倫理学教授だ!エラーラ氏!君の行いは哲学的観点から見て破綻している!議論しよう!」
エラーラは彼を見るなり、巨大なスピーカーを向けた。
『言語物理変換機』。
学者が「し、しかし……」と言いかけた言葉が、物理的な衝撃波となって彼自身を殴りつけた。
彼が喋れば喋るほど、その言葉が拳となって彼をタコ殴りにする。
最後には、全身複雑骨折し、彼は沈黙した。
毎日、毎日。
狂人のおかわりがやってくる。
ノアを神と崇める者、殺そうとする者、利用しようとする者。
彼らは一様に、自分たちの「正義」や「理屈」を叫びながら敷居を跨ぎ、そしてエラーラの「図画工作」によって、挽肉に変えられていった。
ノアはその光景を、ただの背景映像として眺めていた。
そんな異常な空間で、唯一「日常」を演じ続けている人物がいた。
ナラティブ・ヴェリタスだ。
「おはよう、ノア。お母様。……まったく、今朝も空気が血生臭いわね。一流の探偵事務所には、もっとエレガントなアロマが必要だわ」
彼女は、椅子に座り、帳簿を開いた。
電話線はとっくに切れている。
依頼人が来るはずもない。
街にはもう、依頼する人間がほとんど残っていないのだから。
それでも彼女は、受話器を耳に当て、架空の会話を続けた。
「はい、ヴェリタス探偵事務所です。……ええ。浮気調査ですね? かしこまりました。……ええ、ええ。猫探し? お安い御用ですわ。……………………。」
彼女はメモを取り、スケジュール帳に書き込む。
その手は震えていた。
ペンの先が紙を突き破るほどに、強く握りしめられていた。
ノアは、そんなナラティブの背中を、ぼんやりと見ていた。
ノアが枯れた声で呼ぶ。
「ナラティブさん。もう、いいんじゃないかな。誰も来ないよ。電話も繋がってないよ」
ナラは、ゆっくりと受話器を置いた。
彼女は振り返り、鉄扇で口元を隠して微笑んだ。
その笑顔は、能面のように美しく、そして張り付いていた。
「何を言っているの?……あたしは『探偵』よ。世界がどうなろうと……あたしはあたしの仕事をするわ……それが『一流』の矜持というものよ……」
彼女にとって、それは処世術であり、最後の防衛線だった。
「普段の自分」という演技をやめた瞬間、「世界の終わり」を認めなければならなくなる。
だから彼女は、演じ続けるしかなかった。
この、地獄の底で。
ある日の夕暮れ。
エラーラが、ふらりと出かけていった。
彼女は、真っ白な白衣を翻し、鼻歌交じりに瓦礫の山へと消えていった。
残されたのは、廃人のようなノアと、帳簿に向かうナラだけ。
数時間後。
日が完全に落ち、部屋の中が闇に沈みかけた頃。
ドアベルが鳴った。
「はい、ヴェリタス探偵事務所です。本日の営業は終了しまし……」
ナラが職業的な笑みを浮かべて顔を上げる。
そこに立っていたのは、一人の老婆だった。
黒いヴェールで顔を隠し、喪服のような黒いドレスを着ている。
腰が曲がり、杖をついていた。
「……夜分にすまないねぇ。探偵さん」
しわがれた声だった。
だが、その抑揚には、隠しきれない特徴があった。
ノアはビクリと肩を震わせた。
ナラも気づいたはずだ。
その老婆が、変装したエラーラであることに。
その変装は、あまりにもお粗末だった。
カツラはズレているし、付け髭のようなシワが浮いている。
いつもの「子供だまし」の変装。
以前なら、ナラティブが「ちょっとお母様! バレバレよ!」とツッコミを入れて、笑い話になるところだ。
だが、ナラは笑わなかった。
彼女は、鉄扇を握りしめ、ゴクリと唾を飲み込んだ。
彼女は、目の前の人物を「依頼人」として処理しようと必死に働いたのだ。
「……ご……依頼でしょうか……マダム……どのようなご用件で……」
ナラの声は震えていた。
これが「ごっこ遊び」であることを祈りながら。
いつものように、母親がふざけているだけだと信じたくて。
老婆は、杖をつきながら、ゆっくりとカウンターに近づいた。
「ああ、依頼だよ。とても悲しい、胸の潰れるような事件でねぇ……」
老婆はヴェールの下で、ニヤリと笑った。
「私の娘が……殺されてしまったんだよ」
空気が凍りついた。
ノアは息を止めた。
娘。
エラーラの娘は一人しかいない。
目の前にいる、ナラティブ・ヴェリタスだ。
ナラの表情が硬直した。
彼女の脳内で、必死の計算が行われる。
ナラは、希望的観測に縋り付いた。
そうよ。きっとそう。
これはお母様なりの、不器用な仲直りのアプローチなんだわ。
ナラは、無理矢理、笑顔を作った。
「まあ、それはお気の毒に!それで、その娘さんというのは、つまり!」
その瞬間。
エラーラが顔を上げた。
ヴェールを跳ね除けたその顔には、変装用のメイクなど施されていない。
いつもの、理知的で、冷徹で、そして底抜けに楽しそうな、マッドサイエンティストの素顔があった。
彼女の手には、小さな箱があった。
リボンがかけられた、プレゼントボックスのような箱。
彼女はそれを、カウンターの上にコトリと置いた。
「そうだよ?」
エラーラは、少女のように無邪気に肯定した。
「お前だよ?」
箱が開いた。
中から飛び出したのは、ビックリ箱のピエロではない。
音でもない。煙でもない。
『概念的内圧崩壊』。
それは、娘のためのとびきりのプレゼント。
対象の「存在維持能力」そのものに干渉し、内側から風船のように破裂させる、破壊兵器。
「え……?」
ナラの思考が追いつくよりも速く。
物理法則が仕事をした。
乾いた音が響いた。
美しい顔が。
手入れされた黒髪が。
ドレススーツに包まれた体が。
鉄扇を握りしめていた手が。
一瞬にして、四方八方へと弾け飛んだ。
血の雨が降った。
肉片が壁にへばりつき、骨の欠片が床に散らばる。
「……あ」
ノアの頬に、温かいものがビチャリと張り付いた。
それは、ナラの眼球の一部だったのかもしれない。
エラーラは、飛び散った返り血を浴びて、真っ赤に染まっていた。
白衣が、まるで最初から赤いドレスだったかのように濡れている。
エラーラは、心底愉快そうに、そして慈愛に満ちた表情で、肉片と化した娘に語りかけた。
「どうだい!これぞ『サプライズ』だろう?」
エラーラは、血に濡れた顔で振り返り、ノアにニッコリと微笑んだ。
「さあ、ノア君。これで邪魔者はいなくなった。『常識』というブレーキをかけてくる凡人はいなくなったよ」
エラーラは、血塗れの手を広げ、獣医院の窓を開け放った。
次の日の朝。
ノアは、いつものソファの隙間に埋もれていた。
彼はもう、泣くことさえ忘れていた。
涙も枯れ果て、感情も摩耗し、ただ呼吸をするだけの肉塊。
彼の世界には、もうテオドールの思い出と、ミイの感触と、そして目の前に広がる虚無しかない。
「……退屈だねぇ」
あくびの音が、静寂を破った。
実験室から、エラーラが出てきた。
彼女は伸びをして、窓の外――瓦礫と死体で埋め尽くされた廃墟――を満足げに見下ろした。
「『殺され屋さん』が枯渇してしまったよ。王都の人口密度は、私の計算通りほぼゼロまで減少したようだ。……さて、助手君」
エラーラは、抜け殻のようなノアに声をかけた。
「散歩に行こうか。」
ノアは反応しなかった。
散歩? どこへ?
この地獄のどこに、歩く場所があるというのか。
「今日は天気がいい。それに、とびきりの『大物』がまだ残っているからねぇ」
エラーラは、いつもの白衣を羽織った。
だが、ノアは気づいた。
彼女の背中には、いつものような巨大な発明品――空間焼却機や、分子分解シャワーなど――が背負われていない。
腰のベルトにも、手にも、何も持っていない。
完全な手ぶらだ。
「……道具は?」
ノアの口から、枯れた声が漏れた。
「ん?ああ、今日は持たないよ」
エラーラは、少女のように無邪気に笑った。
その笑顔は、ナラを殺した時と同じ、純粋で残酷なものだった。
「たまには『素』の私で、世界と対話するのも一興だろう?さ、行くよ!」
エラーラはノアの襟首を掴んだ。
抵抗する気力もないノアは、ずるずると引きずられる。
「転送」
景色が歪んだ。
獣医院の薄暗いリビングが、渦を巻いて消える。
三半規管が裏返るような浮遊感。
次の瞬間。
ノアの足裏に、フカフカとした感触があった。
冷たい石畳でも、瓦礫の山でもない。
そこは、深紅のペルシャ絨毯の上だった。
「……え?」
ノアは顔を上げた。
そこは、王都で最も高い場所にある、超高級ホテルのペントハウスだった。
そして、部屋の中央にある革張りのソファに、一人の男が座っていた。
片手にワイングラスを持ち、巨大なモニターに映し出される「王都崩壊」のニュース映像を、まるで映画でも見るように鑑賞している男。
グラクター。
ノアの心臓が、早鐘を打った。
忘れるはずがない。
あの日、テオドールを誘拐し、ミイを殺させ、ノアに地獄を見せた張本人。
すべての元凶である、悪徳プロデューサー。
彼は、突然現れたエラーラとノアを見ても、驚いてワインをこぼすようなことはしなかった。
むしろ、「待っていた客が来た」とでも言うように、薄ら笑いを浮かべてグラスを掲げた。
「やあ。ようこそ。『破壊の魔女』エラーラ君。そして、悲劇の主人公にして、今や世界を滅ぼす魔王となった『貴族』ノア君」
グラクターは、ゆったりと立ち上がった。
彼は高そうなスーツを着ていたが、その着こなしにはどこか品がなく、漂わせる香水の匂いは鼻につくほど甘かった。
「素晴らしいショーだったよ。ここから見ていたさ。君たちが繰り広げる殺戮劇……いやあ、感動したね!」
ノアは震えた。
怒りではない。
あまりにも圧倒的な「軽薄さ」に対する、生理的な嫌悪感だった。
「……あんた」
ノアが呻くように言った。
「あんたのせいで……みんな死んだんだぞ……」
グラクターは、きょとんとした顔をした。
そして、憐れむように肩をすくめた。
「僕のせい?ははは!ノア君、君はまだそんなレベルの低い次元で思考しているのかい?勉強が足りないな。実に『庶民的』だ」
グラクターは、ワインを一口含み、陶酔した表情で語り始めた。
ここから始まるのは、彼による、彼のための、中身のない演説だ。
「いいかい、ノア君。そして賢者殿。歴史を紐解いてみたまえ。王都大学の名誉教授、ルードヴィッヒ・フォン・マイヤーの『悪意と責任の拡散』には『個人の悪意は、集団の中では希釈され、やがて環境そのものへと昇華される』とある。つまり、僕がやったことは、あくまで『トリガー』を引いたに過ぎない。さあ、見てごらん。あの炎を。あれは民衆自身のルサンチマンが燃えているんだ。僕は彼らに『テオドール』という鏡を提供しただけだ。その鏡を見て、勝手に発狂し、勝手に暴れ、勝手に責任転嫁を始めたのは彼ら自身だ。そう、僕はあくまで『触媒』。化学反応において、触媒自体は変化しない。だから僕は無罪なのだよ。君たちは『因果律』を単純化しすぎている。古代の哲学者、アストレイヤー・アトモスも言っているだろう?『全ての悲劇は、必然という名の偶然である』と。ミイという猫が死んだのも、テオドールが暴走したのも、そして君が今ここにいるのも、宇宙的な確率論の結果だ。僕という個人に責任を帰結させるのは、あまりにも近視眼的で、非科学的だねぇ!」
グラクターは、エラーラに向かってウィンクした。
「賢者殿なら分かるだろう?君もまた、僕と同じだ!」
彼は得意げだった。
自分は世界で一番賢い。
受験もしていないのに「本気を出せば王都大学なんて余裕」と思っている子供のように。
魔導車を買う金もないのに「あんな成金趣味の魔導車はダサい」と中古車の中で嘯く大人のように。
彼の言葉には、借り物の知識と、肥大化した自意識しかなかった。
だが、彼自身はその「安っぽさ」に気づいていない。
自分こそが、この終末世界の支配者であり、安全圏から高みの見物をする「神」だと思い込んでいる。
「ノア君。君は選ばれたんだよ。僕というプロデューサーにね。君は感謝すべきだ。ゴミ山で一生を終えるはずだった君に、これほどの『物語』と、世界的な知名度を与えてやったんだから。君の苦しみ?後悔?それこそが芸術のスパイスじゃないか!『悲劇の英雄』として生きられるなんて、最高の人生だと思わないか?」
グラクターは両手を広げた。
「さあ、乾杯しよう!この狂った、しかし最高に面白い世界と!それを演出した天才である僕と!それを演じ切った名優である君たちに!」
静寂が戻った。
ノアは、あまりの怒りと絶望で、声も出なかった。
この男は、何も分かっていない。
ミイの温かさも、テオドールの優しさも、ナラティブの死に様も。
記号として、データとして、自分を飾り立てるアクセサリーとしてしか見ていない。
「……もういいかい?」
エラーラの声が響いた。
彼女は、ずっと黙って聞いていた。
怒るでもなく、呆れるでもなく。
ただ、顕微鏡で珍しいカビを観察するような目で、グラクターを見ていた。
「ええ、賢者殿。理解していただけたかな?」
グラクターが微笑む。
「ああ」
エラーラは頷いた。
「一理ある」
「おや、光栄だね!」
「君は言ったね。『道具が悪い』『道具を使う人が悪い』『状況が悪い』と。そして君自身は『触媒』だから悪くない、と」
「その通りだ。僕はシステムの一部だからね」
エラーラは、ゆっくりと一歩踏み出した。
ヒールがペルシャ絨毯を踏む音が、心臓の鼓動のように響いた。
「暴徒たちは言った。『環境のせい』と。ノアは言った。『使う人間のせい』と。私は言った。『生み出した創造主のせい』と。……世界中が、責任の押し付け合いをしている」
エラーラは、自分の両手を見つめた。
何も持っていない。
いつもの奇怪な兵器も、魔導銃も、杖さえもない。
ただの、白く細い、人間の手だ。
「だがね、グラクター君。今日の私は、なんと……手ぶらなんだよ」
エラーラは、手のひらをグラクターに見せた。
「ほら。私は今、何の『道具』も持っていない。したがって、『道具が悪い』という理屈は成立しない」
一歩、近づく。
「私は今、何の兵器も使っていない。したがって、『道具を使う人間が悪い』という理屈も、今の私には適用されない」
もう一歩、近づく。
グラクターの表情が、少しだけ引きつった。
「……何が言いたい?」
「そして、『状況』だ。君は『自分は安全圏にいる』と思っているようだが……。今の状況を再定義しようか」
エラーラは、にっこりと笑った。
その笑顔には、狂気さえなかった。
あるのは、絶対的な「無」。
「今、この部屋には、私と、君しかいない。ノアは観測者だ。そして、私は『道具を持たない、ただの生物』だ。君も『道具を持たない、ただの生物』だ。……この状況下で、もし君が死んだとしたら?それは誰のせいでもない。道具のせいでもない。ただ、『強者が弱者を捕食した』という、事実があるだけなんだ」
ノアは戦慄した。
エラーラの言っている『意味不明な理屈』の言わんとしている『意味』を、肌で理解してしまったからだ。
彼女は今、あらゆる責任論を無効化した。
道具がないから、道具のせいにはできない。
兵器を使わないから、悪用したせいにはできない。
ただ、「ここに強い生物と弱い生物がいて、強い方が弱い方を壊しました」という、事実だけを、残そうとしている。
それは、今までのどの殺戮兵器よりも恐ろしい、「殺意の純度」の証明だった。
「ちょ!ちょ、待てよ!」
グラクターが後ずさりし、ソファにつまずいて転んだ。
「暴力は野蛮だぞ!賢者なんだろ!?言葉で議論しようじゃないか!僕には弁護士もいる!権利もある!君の立場が悪くなるぞ!」
「権利?」
エラーラは首を傾げた。
「ライオンがシマウマを食べる時に、弁護士を呼ぶのかい?台風が家を吹き飛ばす時に、権利書を確認するのかい?今の私は『賢者』でも『殺人鬼』でもない。ただの『現象』だよ」
エラーラの手が、グラクターの胸元に伸びた。
「ひッ……!?」
グラクターは、何か魔法が飛んでくると思ったのだろう。防御姿勢を取った。
だが、魔法はなかった。
生々しい音がした。
エラーラの指が、グラクターの肋骨を、物理的にこじ開けた音だった。
グラクターが自分の胸を見る。
エラーラの白く細い手が、彼の胸郭の中に沈み込んでいる。
血が噴き出すよりも早く、エラーラの手首が動いた。
「たぶんね、君は中身が空っぽだと思うんだ。さあ、確認させておくれ。君の『魂』が、一体どこに入っているのかを」
エラーラは、道具を使わなかった。
魔法も使わなかった。
ただ、彼女自身の持つ、腕力と、精密な指先の動きだけで、グラクターを「分解」し始めた。
絶叫が上がった。
だが、エラーラは止まらない。
彼女は、淡々と、そして丁寧に作業を進めた。
「心臓……ふむ、ポンプ機能は正常だね。だが動きが安いね」
心臓が、放り投げられる。
「肺……ああ、ヤニで汚れている。君の言葉が薄いのは、肺活量の問題なのかな?」
肺が、引きずり出される。
グラクターはまだ生きている。
エラーラが、彼の脳への血流を絶妙にコントロールし、痛覚と意識だけを鮮明に残しているからだ。
これは「確認作業」だ。
「脳みそ……おやや?意外と小さいねぇ。これじゃあ、他人の言葉を借りてくるのが精一杯なわけだね」
エラーラは、グラクターの頭蓋骨を、素手でパカッと開けた。
まるで弁当箱の蓋を開けるような手軽さだった。
ノアは、その光景を直視できなかった。
だが、目を逸らすことも許されなかった。
これが「道具」のせいにも「環境」のせいにもできない、純粋な暴力の形。
ただの、作業。
「……ないねぇ」
エラーラは、血まみれの手で、グラクターの脳をかき回した。
「魂は一体、どこにあるんだい?君の言う『高尚な魂』も、『プロデューサーとしての矜持』も、どこにも見当たらないよ。どこだね?……君の魂は。……どこにあるんだね?」
エラーラは、飽きたように手を引いた。
そして、最後に残ったグラクターの首を、窓の外へ投げ捨てた。
グラクターだったものの残骸は、重力に従って落下していった。
彼が見下ろしていた地獄へと、ただのゴミとして落ちていった。
部屋には、再び静寂が戻った。
高級ホテルのペントハウスは、解体ショーの跡地となっていた。
血の海の中に立つエラーラは、真っ赤に染まった両手を、無造作に白衣で拭った。
「さて」
エラーラは、何事もなかったかのようにノアを振り返った。
「帰ろうか、助手君」
ノアは、ガタガタと震えながら立ち上がった。
彼は見た。
世界の理不尽を。
言葉や理屈が、圧倒的な暴力の前では何の意味も持たないことを。
そして、この大賢者が、その気になれば「道具」などなくても、世界を素手で引き裂けるという事実を。
「……エラーラさん」
ノアが声を絞り出す。
「あなたは……自分が正しいと思ってるの?こんなことして……本当に、何も感じないの?」
エラーラは、血のついた手で、自分の胸の勲章に触れた。
「正しい?間違っている?だからねえ、そんな二元論は戯言だよ。今の私は『現象』だと言っただろう?台風に善悪を問うても、返事は風の音だけさ」
エラーラは、窓の外の燃える王都を見つめた。
その横顔は、神々しいほどに美しく、そして虚ろだった。




