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ヴェリタスの最終定理2 ナラティブ・ヴェリタス  作者: Wan Liyue 王璃月
友よさらば

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第7話:友よさらば(7)

世界は終わった。

「責任転嫁」という甘い毒に侵された人類は、大賢者という劇薬によって完全に駆逐された。


「さて、少年。……ここからが本題だ。ノア君」


ノアは顔を上げなかった。

大賢者の言葉などは、今の彼には風の音よりも意味がない。

エラーラは立ち上がり、瓦礫の上でくるりと回った。


「私はこの世界を復元する。ナラも、リウも、街の人々も、全て元通りにする。……だが、そのパラメータを決めるのは、お前だ」


「……復元?」


ノアの乾いた唇が動いた。


「散々殺しておいて……壊しておいて……」


「ああ、そうだよ。私が壊したんだから、私が直す。単純な理屈だろう?」


エラーラは悪びれもせず、笑みを浮かべた。


「それが『世界最強』の定義さ。道具も、勲章もいらない。私の魔力があれば、因果律の書き換えなど数式の符号を変える程度の雑事だよ。だがね、ノア。完全な復元には、観測者の意志が必要なんだ」


エラーラは、ノアの前にしゃがみ込み、その美しい顔を近づけた。

血の匂いと、甘い香水の匂いが混じり合う。


「お前はこの世界で唯一、『自分の罪を認めた』人間だ。他人のせいにも、環境のせいにもせず、己の業を受け入れた。だからこそ、お前の観測だけが、次の世界の形を決定できる」


エラーラは、ノアの瞳を覗き込んだ。

そこには提案も、誘導もない。ただ、冷徹なシステム管理者としての「問い」があるだけだった。


「聞かせてもらおうか、ノア。お前が望む世界の在り方を」


エラーラは指を一本立てた。


「質問1。世界の人々の記憶はどうする?時間を巻き戻し、全員を生き返らせたとして……彼らの記憶から、この数日間の地獄を消去するか?それとも、残すか?」


ノアの瞳が揺れた。

忘れる?

ミイを殺した感触を? あの地獄を?

記憶を消せば、人々はまた「自分は悪くない」という顔をして、平和に暮らすだろう。

ノア自身も、何も知らずにゴミ山に戻れるかもしれない。


「……勝手にしてくれ」


ノアは視線を逸らした。


「どうでもいいんだよ。生き返ろうが、忘れようが。僕の心はもう死んでる」


エラーラは表情を変えず、淡々と次の質問を投げかけた。

指が二本になる。


「質問2。お前自身の記憶はどうする?お前も忘れるか?ミイを殺したことも、テオドールが怪物になったことも、ナラが弾け飛んだことも。全て忘れて、無垢な少年に戻るか?それとも……この痛みを抱えたまま生きるか?」


「だから!勝手にしろと言ってるだろ!」


ノアは叫んだ。


「僕に関わるな!弄ぶな!僕を殺すなり、記憶を消すなり、好きにすればいい!」


それは、完全な拒絶だった。

希望を持つことへの疲れ。選択することへの恐怖。

ノアは、もう「責任」を負いたくなかったのだ。

エラーラは、ノアの手首を掴み、無理やり引き寄せた。

その力は強く、そして手は温かかった。

血に濡れているはずなのに、その温もりだけが、生々しくノアに伝わってきた。


「ノア!」


エラーラが大声で、ノアの名前を呼んだ。

それは大賢者の声ではなく、ただの一人の女性としての、切実な響きを持っていた。


「逃げるんじゃあないよ!私は、お前の『答え』を聞いているんだ。お前だけが、この世界の真実を見た。だから、選べと言っているんだ。お前が決めるんだ!」


エラーラの手が、ノアの頬に触れた。


「三つ目の質問だ。これで最後だ。よく考え、そして答えろ!」


エラーラは、ノアの目を真っ直ぐに見つめた。

その瞳には、世界の運命を委ねる重圧と、微かな期待が宿っていた。


「質問3。死者たちを、どうする?ミイとテオドール。そして……グラクター。彼らを、生き返らせるか?それとも、無のままにしておくか?」


沈黙が落ちた。

風の音さえも止まったような、完全な静寂。

ノアは、エラーラの瞳を見た。

そして、自分のポケットの中にある、冷たい水晶の感触を確かめた。

ミイ。テオドール。

会いたい。

もう一度、あの温かいお腹に顔を埋めたい。

テオドールの大きな背中に乗りたい。

ゴミ山での、貧しいけれど輝いていた日々に戻りたい。


でも。


ノアの脳裏に、あの処刑室の光景が蘇る。

ナイフを振り下ろした自分。

怪物に変貌したテオドール。

それは、グラクターのせいか? 環境のせいか?

違う。

僕が弱かったからだ。

僕という存在が、彼らを不幸にしたんだ。

ノアは、震える唇を開いた。

彼の答えは、エラーラの予想していたどんな「論理的帰結」をも超えていた。


「……全員だ」


「え?」


「全員、生き返らせてくれ。ナラさんも、リウさんも、あの暴徒たちも。……そして、グラクターも。全員、生き返らせてくれ」


「グラクターもかい?奴はまた、お前を笑いものにするかもしれないんだぞ?」


「構わない!」


そして、ノアは言った。

決意を込めた目で、エラーラを見つめて。


「でも、一つだけ頼みがある」


「……なんだい?」


「ミイとテオドールは……僕の元へ、生き返らせないでくれ」


エラーラの目が大きく見開かれた。


「……何だって!?」


「あいつらを、世界のどこか、僕の知らない街で、別の何かとして転生させてくれ。僕とは二度と会わない、僕のことなんて知らない、幸せな存在として生き返らせてくれ」


それは、永遠の別れの願いだった。

自分が愛した存在を、自分から切り離すことで救おうとする、あまりにも悲痛な決断。


「僕は、ミイを殺した。テオドールを怪物に変えたのは、僕が作り出した、僕自身の心の弱さだ。……僕と一緒にいたら、あいつらはまた不幸になる。僕という『環境』が、彼らにとっての僕という『道具』が、あいつらを殺すんだ!」


ノアは、大粒の涙を流しながら、しかし、はっきりと笑顔を見せた。


「だから遠くへ。僕の手の届かない、一番幸せな場所へ送ってくれ!」


そして、ノアは自分の胸を叩いた。


「だが!僕の記憶だけは、残してくれ!」


「……!」


「世界の人の記憶は消していい!みんな、何も知らずに、幸せに笑ってさえいればいい!でも、僕だけは覚えていたい!あいつらが、どれだけ可愛かったか!どれだけ温かかったか!そして、僕がどれだけ愚かだったか!……その痛みがあれば……僕は!……僕はもう二度と、間違えないで、済むから!」


ノアは、ポケットの中の水晶を握りしめた。


「あいつらが生きていた証拠を、僕の中から消したくない。……それが、僕の償いだ!」


エラーラは、動かなかった。

世界最強の魔法使い。

数千人を殺し、世界を破壊し、論理と科学で全てを蹂躙してきた若き怪物。

人の心など理解しない、マッドサイエンティスト……だと思われていた彼女の肩が、小刻みに震え始めていた。


「……非合理的だよ」


エラーラが呟いた。

その声は湿り気を帯びていた。


「実に……非合理的だ。自分の幸福を捨ててでも、他者の幸福を最大化するなんて。計算が合わない。数式が成立しない。……馬鹿な……」


エラーラの青い瞳から、大粒の涙が溢れ出した。

それは、血に染まった白衣に落ち、赤いシミを薄めていく。


「エラーラさん……?」


「泣いてなんかいないよっ!」


エラーラは叫んだ。少女のように。


「ただ!その……なんだ……あまりにも純粋で、あまりにも残酷な計算式に!私の脳が処理落ちしているだけだ!……くそっ! なんで私が泣かなきゃいけないんだ!」


彼女は、ノアの孤独を理解してしまったのだ。

愛するがゆえに突き放す。

忘れたいほどの痛みを、愛の証として抱き続ける。

それは、かつて「世界を救うために、世界中の誰からも理解されない道」を選んだ、彼女自身の孤独と共鳴していた。


「……いいさね!いいだろうよ!受託したよ!その理不尽な依頼!」


エラーラは涙を袖で乱暴に拭い、立ち上がった。

彼女は両手を天空へと突き上げた。


「世界を復元する!グラクターも、暴徒も、全員生き返らせる!人々の記憶は消去する!だが!ノア!お前の記憶は鮮明に残す!」


そして、エラーラは天を仰いだ。


「ミイ!テオドール!聞こえるかい!お前たちは、この世界最強の魔女の権限で、最高の再就職先を斡旋してやる!……ノアのいない場所で!ノアのことを忘れて!幸せに暮らすんだね!」


光が、世界を飲み込んだ。

物理法則が逆流し、因果が書き換わる。

最強の魔法使いが、その全霊を賭けて紡ぐ、世界で一番優しい奇跡。

ノアは、目を閉じた。

瞼の裏に、楽しかった日々の光景が浮かんだ。



・・・・・・・・・・



小鳥のさえずりが聞こえた。

ノアが目を開けると、そこは見知らぬ天井だった。

いや、見覚えがある。

獣医院の、客用のソファだ。


「……気がついた?」


冷たい水が入ったグラスが差し出された。

目の前には、黒いドレススーツを着た美女、ナラティブ・ヴェリタスが立っていた。

彼女の顔には、もう血の跡も、涙の跡もない。

完璧なメイク。冷ややかな、しかしどこか気遣わしげな表情。


「あの……ナラさん」


「気安く呼ばないで?」


ナラはふいと顔を背けた。


「あたしとあんたは、昨日、路地裏で拾っただけの関係よ。……まったく、昨日は変な夢を見たわ。自分がお母様の発明品でポップコーンみたいに弾ける夢なんて……。目覚めが悪くて、ファンデのノリが最悪よ」


ナラは、ノアのことを「昨日拾った浮浪児」としか認識していない。

彼女の記憶は消去されている。

あの地獄の日々は、ただの「悪夢」として処理されているのだ。


「やあやあ!起きたかね、少年!」


奥から、エラーラが出てきた。

白衣は真っ白で、パリッとしている。

昨夜の涙の痕跡など微塵もない。

手にはコーヒー。


「エラーラさん……」


「おや?……初対面なのに名前を知っているのかい?まあ、私は有名人だからねぇ!」


エラーラは、芝居がかった口調で言った。

だが、すれ違いざま、ノアにだけ聞こえる小声で囁いた。


「……約束通り、彼らは『向こう岸』で元気にしてるよ。確認済みだ」


ノアは、大きく息を吐き、そして頷いた。


「……ありがとう」


ノアはポケットを探った。

そこには、ただの石ころになった水晶が入っていた。

そして、その感触と共に、鮮烈な記憶が蘇る。

ミイの死。テオドールの暴走。虐殺。エラーラの涙。

すべて、覚えている。

胸が引き裂かれそうだ。

けれど、この痛みこそが、彼らが生きていた証だ。

テレビのニュースが流れている。


『……昨夜、王都全域で発生した大規模な集団幻覚現象について、専門家は「原因不明」としていますが……』


『悪徳プロデューサーとして知られるグラクター氏は、今朝、自身の全財産を孤児院に寄付し、寺院へ修行に出たとのことです……』


世界は戻った。

少しだけ、マシな形になって。

誰も、ノアが世界を救ったことなど知らない。

誰も、彼がどれほどの犠牲を払ったかを知らない。

ノアは、ソファから立ち上がった。

そして、自分のボロボロの荷物をまとめた。


「あら? 出て行くの?」


ナラが意外そうに声をかけた。


「行く当てなんてないでしょう?お母様が『助手にしてやる』って言ってたわよ。ここで働けば、少なくとも飢え死にはしないわ」


ノアは首を振った。


「ううん。行く。」


「どうして?」


ノアは微笑んだ。

それは、昨日までの怯えた少年の顔ではなかった。

重たい荷物を背負い、それでも自分の足で立つことを決めた、一人の男の顔だった。


「ここにいたら……いつか、探しちゃうから」


「え?」


「それに、僕にはやらなきゃいけないことがあるんだ」


ノアは、水晶を握りしめた。

この世界には、まだ「環境のせい」にして誰かを傷つける人間がいるかもしれない。

「道具」を使って、悲劇を起こす人間がいるかもしれない。

グラクターのように、人の心を弄ぶ奴がいるかもしれない。


「僕は、見てきたから。人間がどこまで醜くなれるか。そして、どこまで優しくなれるか。……それを、忘れないために。僕はこの目で、世界を見て回りたいんだ!」


ノアは、ナラとエラーラに深く頭を下げた。


「あなたたちのこと、一生忘れません……」


ナラは、きょとんとしていたが、やがて鉄扇を開いてふっと笑った。


「一流になりたいなら、修羅場をくぐるのも悪くないわ」


彼女は、ノアのポケットに、こっそりと財布をねじ込んだ。


「餞別よ。野垂れ死んだら、あたしの目覚めが悪いからね」


エラーラは、マグカップを持ったまま、ニヤリと笑った。

彼女だけは、ノアの背負ったものの重さを知っている。

エラーラは、少しだけ寂しそうに、けれど誇らしげに言った。


「世界がまた退屈になったら、いつでも遊びにおいで。とびきりの『実験』を用意して待っているよ!」


「……はい、先生!」


ノアは、獣医院の扉を開けた。

眩しい光が溢れる。


「行ってきます!」


ノアは、空を見上げた。

青く澄み渡る空。

その向こうには、まだ見ぬ世界が広がっている。

そこには、悲しみも、苦しみも、そして理不尽な悪意も待っているだろう。

だが、彼は恐れない。

彼の胸には、世界で一番重たい愛がある。

少年は、雑踏の中へと消えていった。

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